第九十一話 唯一の愛

 ゆり。俺の唯一の女性ひと

 貴女に初めて出会ってから、既に半年以上の時が過ぎた。

 貴女を知れば知るほど、俺は貴女に惹かれ、貴女に近付けばその分だけ、俺は俺自身に近付いた。

 貴女は渇ききった俺の器に慈しみを注ぎ、愛で満たした。

 貴女は暗闇で震える臆病な狼を光で照らし、温もりを与えた。


 ゆり。貴女は太陽。

 貴女は俺の、唯一のひと




「おはようございます、アラン。今朝出勤したところ、執務机にこれが……」


 その日アラスターが黒狼騎士団の詰め所に現れると、既にやって来ていたレインウェルが神妙な顔付きでアラスターに二通の羊皮紙を差し出した。


「羊皮紙……それに、女神の聖紋……。トゥ=タトゥの詔書か」

「ええ。二通とも、で机に打ち付けられていました」


 レインウェルはそう言って、懐から鍔のないシンプルな銀色のナイフを取り出す。


「――『閃光』の」


 アラスターはそれを見て、この詔書がトゥ=タトゥ聖教国からエメが持ち帰ったものだと理解した。

 慌てて内容を改めると、一通目は以下のように書かれていた。


 “モルリッツ支部神殿に於いて、北の村の村人失踪事件、及びそれに関連する一連の事件につき、中央評議会による捜査、並びに神官の捕縛を許可す。また、評議会により事件に関わり罪を犯したと断定された者は、その罪が確定した時点で破門とす”


 不可侵を暗黙の了解とする神殿内部に、評議会が踏み込むことを了承する内容だった。


 そして二通目は、たった一行。



 “召し人の矢仲ゆりは只人ただひとであることを宣言す”



「これは……」


 アラスターは思わず声を漏らした。


 “矢仲ゆりはである”、つまり、ゆりは聖女でも魔女でもないことを教会が正式に謳ったものだ。通常、刑死した者の名誉回復以外の意図でこのような詔書がわざわざ発付されることはない。

『閃光』のエメ、恐らく彼が敢えてこれを詔書とするよう本殿に掛け合ったのだろう。教会の上層部を動かすなど、一体どんな手段を使ったと言うのか。

 二通とも、長らく教会のナンバーツーと言われている教導セグヌンティリエの署名と教会の印が入っている。疑いようもなく、本物の詔書だった。



 “聖女でも魔女でもなく、ただひとりの女性として生きて欲しい。”



 アラスターはその詔書に込められたであろうエメの切なる願いを感じ取り、同じ女性を想う者として心打たれた。


「……レイン。今すぐ神殿の捜査令状の発行申請を。明後日の早朝、強制捜査を行う。――決して、神殿に気取られるなよ」

「はい。いよいよ大詰めですね。――アラン、もう一つ、お知らせがあります」

「何だ」

「魔道研究所のフラハティ主任研究員より――。例の薬が、完成したと」

「……そうか」


 神霊薬エリクサーの完成。ゆりの悲願だ。そして、アラスター自身もこの時を待っていた。


「決着を付ける時が来たな。……俺自身にも。なあ、レイン……」


 アラスターは珍しく、砕けた調子でレインウェルに問い掛けた。



「俺が。もしも俺が、職も家もその義務も、全て投げ出すと言ったら、怒るか」



 その問いに、レインウェルはぴくりと眉を跳ね上げた。


「そりゃあ、怒るに決まってるでしょう。誰が尻拭いさせられると思ってるんですか」


 にべもなく即答したレインウェルは、でも、と言葉を続けた。


「貴方はこれまで自分に課せられた使命、与えられた期待を、全て背負い、ひとつ残らず叶えてきた。そんな貴方が、自分自身のために、貴方の愛する人のためにだけ生きたいと望むなら――。俺は、貴方の友人としてそれを祝福しますよ」


 レインウェルは、アラスターが何をしようとしているのかを全て察しているようだった。

 いつもと変わらない調子でさらりと述べたレインウェルに、お前には敵わないよ、とアラスターは自嘲気味に笑った。


「ふ。……まあ、そうならずに済むことを祈っていてくれ」

「そうですね。俺も結婚前に過労死したくないですから。……頼みますから、早く結婚して下さいよ


 貴方のせいで、俺とエリノアの婚姻が延び延びになっているんです。


 その言葉に、アラスターは心底申し訳なさそうに耳を垂らした。




 その日の昼。

 ゆりは“大切な話がある”とアラスターに誘われて、彼の愛馬に乗りモルリッツの街の外壁の外へとやって来ていた。

 初めてこの世界に墜ちてきた時のナオト達との冒険を除き、ゆりが街の外に出たことはこれまでほとんどない。アラスターがゆったりとした歩法で駒を進めるのをその両腕の中で感じながら、ゆりは心地好い風と常緑のざわめきに目を側め、耳を傾けていた。


 やがて目的地に着くとアラスターが馬から下り、同乗していたゆりを抱き留めるように地面に下ろす。見上げれば、陽の光を煌めかせた木立の間に、底知れぬ群青を湛えた水面が静かに広がっていた。


「うわぁ……。きれい……!」


 そこは、中央評議会主催の夜会が開かれた夜、原初の獣となったアラスターに連れられてやって来た湖畔だった。

 その時は夜で、全貌を見ることは叶わなかった。今日初めて見るその湖は、向こう岸が僅かにしか見えない程の大きさを誇っており、手前には簡素な小屋と古ぼけた木のボートがぽつりとその水面に佇んでいる。


「漸く、約束を叶えられたな」

「手紙に書いて下さいましたもんね。また連れてきてくれるって」

「ああ……」


 アラスターは一度言葉を引き取り、暫く湖面を眺めていた。そして、やがて何かを決意したかのように振り向くと、愛しい人の名前を呼んだ。


「ゆり」

「……はい」


 “大切な話”。

 ゆりも分かっていた。今日はこれまで曖昧にしていた二人の関係が、変わる日なのだと。


「俺があの日、ここで言った言葉を憶えているか」

「はい」



 “俺は、自分が怖い。求めれば求めるほど自分が獣に近付いていくようで……”



 ゆりは夜会の日、黒い狼アラスターが小さな呻きと共に空気を震わせた、赦しを乞うようなその言葉達を忘れたことはなかった。


「俺は、ずっと恐れてた。貴女を求めるこの気持ちがいつか――俺を、理性のない獣に変えてしまうんじゃないかと」


 アラスターはゆりの手を取ると、愛しげにその甲を撫でた。


「でも、ゆり。違ったんだ。貴女と過ごしたこの数週間、貴女を求める俺の気持ちは膨らんだ。だがそれは――、俺を優しく、愛しい気持ちで満たしてくれた。貴女と過ごすかけがえのない毎日が、小さな発見と幸せに溢れた日常が、俺を……ただの男に、変えてくれた」


 アラスターの薄金の瞳。その優しい眼差しが真っ直ぐ、ゆりを射抜いていた。



「ゆり。貴女が欲しい。貴女を愛してる。俺の手を取って、共に生きてくれないか」



 その言葉を聞いた瞬間。

 これまで神殿を出てから何があっても泣かずに堪えていたはずのゆりは――ぼろぼろと、大粒の涙を零した。


「アランさん。私の方こそ……。貴方が、何でもない毎日の中にこそ、輝きが詰まってるって教えてくれた。この世界には優しくて温かい人達が大勢いて、私はたくさんの人に守られて、支えられてるんだって……。でもね、だからこそ……」


 アラスターを見つめていたゆりは、視線を落とすと自身の胸の辺りをぎゅっと掴んだ。


「その中に、いない人のことを探してしまうの。もしかして、離れていれば忘れてしまうんじゃないかって思ってた。――でも、その逆だった。離れたらその分だけ……気持ちが溢れてきて、幸せで、切なくて、苦しいの」


 どれだけ側にいて、長く時間を共にしようとも。この数週間で、彼女の中に焼き付いた彼の面影を取り払うことは、できなかった。


「貴女は、あいつにメッセージを送ったんだろう?……だがあいつは、貴女の元には来なかった」


 嫉妬じみた言葉だとわかっていながら、アラスターは残酷な事実を突き付けた。ゆりは尚も止めどなく溢れる涙を拭うこともせず、ただうんうんと頷いた。


「うん。そう。そうなの。彼の方は、もう私のことなんて忘れちゃったのかもしれない。でも、私はこのままじゃ……。この気持ちを抱えたままじゃ、何処にも行けない。だから確かめなくちゃいけないの。もう一度会って、彼の気持ちを聞かなくちゃいけない。……諦められないの。私は……、ナオトが、好きなの……」


 いつも控えめなゆりの、飾り気のない心情の吐露だった。アラスターは己の胸を引き裂きたい欲求に駆られたが、口を引き結び、ただゆりの愛らしい口元から紡がれる言葉を聞いていた。


「だから、ごめんなさい。私みたいな何にもない人間を、好きだって、必要だって言ってくれて、ありがとう」


 下を向いていたゆりが、涙を湛えたままアラスターを見上げた。



 ――今手を伸ばせば、まだ彼女に届く。その手を掴み、強引に奪い去れば――。



 アラスターは目元を覆うと、大きく嘆息した。


「……はぁ。――とことん駄目だな、俺は」

「え……?」

「――ゆり。俺は、もしこの想いを貴女に受け入れてもらえなかったなら…………。貴女をさらって、この街から出奔するつもりだった」


 思いがけないその言葉にゆりがまさか、と目を見開くと、アラスターは困ったように微笑んだ。


「嘘じゃない。現に騎士団の鎧は着ないで置いてきたし、馬に最低限の旅支度を載せてきた」


 アラスターが、やや遠方で大木に繋ぎ止めている愛馬を指差す。静かに足下の草を食むその黒鹿毛くろかげの鞍には、確かに何やら荷物らしきものが括り付けてある。

 ゆりが視線を戻すと、目の前の男は再度大きく息を吐いた。


「……だが、駄目だな。最後の最後で、理性が邪魔をする。俺は獣になりたくないと願っていたはずなのに……今の俺は、理性を捨てきれない自分を呪ってる」


 その瞳に満ちた哀しみを払おうと――ゆりは手を伸ばしかけて、いや、自分にはその権利がないと思い止まった。


 二人の間に、柔らかな湖畔の風が吹き抜ける。



「ゆり。俺の唯一のひと。貴女の幸せを願ってる。だがもしあいつが貴女を泣かせるようなことがあれば……その時は、貴女を奪う」



 アラスターは凛々しい面差しでそう告げると、一旦辺りを見回し、少しだけその端正な顔を近付けた。


「ゆり……、絶対に他言しないと約束して欲しいのだが――。明後日、我々はモルリッツ支部神殿に乗り込み、強制捜査を行う」


 そこには剣呑な響きが含まれていた。


「そこで、これまで勇者殿を害し、貴女にあらぬ疑いをかけた連中を明らかにして一掃するつもりだ。もう、貴女達の間には何の障害もなくなる。――貴女達は、自由だ」



 自分は彼を傷付けているのに、目の前の男は尚も自分を思い遣ってくれている。その事実に、ゆりの心は痛んだ。



「アランさん。これ……」


 ゆりは震える手で、小さな肩掛け鞄から何かを取り出し、差し出した。それは、白いハンカチに包まれた、二本の小さな硝子瓶。


「ユークレースさんと一緒に作った薬です。ユークレースさんが、これを飲めば死人も生き返る、なんて言ってました。ひとつは、アランさんのものです。もうひとつは、彼の……ナオトの分。――ねえ、アランさん。これを、貴方にお願いしてもいいですか?ナオトに飲ませて、彼の呪いを解いてもらえませんか?」


 アラスターは頷くと、恭しい動作でハンカチごとそれを受け取る。両の手の平に載せられた硝子瓶をほんの少し日に傾けると、中に入った透明の液体はとろりと虹色に輝いた。

 アラスターはハンカチでそっとそれを包み直し懐にしまうと、もう一度力強く頷いた。


「ああ、わかった。必ずあいつの呪いを解き、尻を蹴りつけて貴女の元へ行かせよう」

「ありがとう。……アランさん、どうもありがとう」


 泣きはらした顔をくしゃくしゃに歪めて笑顔を作るゆりに、アラスターの胸は締め付けられた。抱き締めたい衝動を押し殺すと、彼は片膝を付き、優雅に騎士の礼をした。



騎士の名にかけてYes,私のyourお姫様 highness.



 ゆり。貴女は太陽。

 貴女は俺の、唯一のひと

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