第三十九話 ミストラル
モルリッツの中央地区にある、一際大きな石造りの館。ここは冒険者ギルドと呼ばれる場所である。
女はギィ、と木扉を開けるとその少し埃っぽい建物に足を踏み入れた。
明らかに場に不釣り合いな小綺麗な女が興味津々に周囲を見回しながら歩を進めて来るのを見て、粗野な冒険者の男達は
大剣を背負ったひとりの男が女に声をかけようとして近付き――そこで、ひぃ、と小さく呻いて固まった。
女の後ろに、ただならぬ気配を纏った白尽くめの男が佇んでいたからだ。白尽くめの男の冷たく貫く視線に不埒者が脂汗を浮かべ、じり、と下がっていったのに気付く風もなく、女は誰かを探している。
やがて、目的の人物を一階の一番奥、受付のカウンター前に見つけた女は場に不似合いな明るい声でその名を呼んだ。
「ドーミオさーん! こんにちは!」
「……ゆり?」
ざわり。
ギルド内が小さく揺らいだ。
その女――ゆりに手を振り名を呼ばれたのは、このギルドで、或いはこの大陸で冒険者を自称するならその名を知らぬ者はいない人物だからだ。
ドーミオはスキンヘッドの後頭部を掻くと、気安い様子で片手を挙げた。
「おう。嬢ちゃんどうしたんだ、こんなむさ苦しいところに」
「社会見学です! それと、ドーミオさんに会いたいなあと思って」
「そうかよ」
ぶっきらぼうに言い放った中に明らかに照れの感情が含まれているのを感じ取り、周囲はこの如何にも不似合いな女と大男の関係を勘繰った。
「ねっ、ドーミオさん。この後お暇ですか? 良かったら、食事でもしませんか? エメも一緒に」
「ん? ああ? エメもいんのか。……別に構わねえが」
「わぁ! やったあ! この辺詳しいんですよね? 私、酒場ってやつに行ってみたいです!」
「嬢ちゃんみたいな若い女が喜んで行くような場所でもねえぞ」
「そんなことないですって。なんなら私、おごっちゃいますから!」
「ハッ、そりゃあいい」
バタン
「
ギルドで唯一、あの「赤い悪魔」の勇者ナオトとも互すると言われる実力派冒険者は、小柄な女に腕を掴まれるとギルドを後にした。その後ろ姿を、その場のギルドにいた全員がぽかんと見ていた。
そうして右腕にドーミオ、左腕にエメを従えたどこからどう見ても目立つゆり一行は、ドーミオのおすすめである銀の猪亭に腰を落ち着けることにした。
ゆりは店員に渡された紙のメニューに一生懸命目を通している。
「嬢ちゃん、字が読めるのか」
「はい。勉強してますから。書く方はまだまだですけど……読むのなら、慣れてきました」
「そりゃあたいしたもんだ」
「うーん……モロモロ茸の
結局、読めはしたが全く意味がわからないので適当にドーミオに頼んでもらった。この世界の一般常識を学ぶには、やはりこうやって街に出て生きた情報を得ないといけないなと実感するゆりであった。
やがてテーブルに
「――と言うわけで、最近は毎日マナーのお勉強なんです」
まずはお互いの近況報告などをしながら一杯目に口をつける。ゆりが夜会に参加するために社交について学んでいると聞いたドーミオは、貴族階級のことについては全くわからないためなんとも返しようがない。ただゆりが熱弁する様を楽しそうに眺めながら、適当に相槌を打っていた。
「そりゃあ……ご苦労なこったな」
「ほんとですよ~。まあ、学ぶこと自体は好きなんですけどね」
「で、その大層な夜会やらトゥ=タトゥの偉い神官サマとの面会はいつなんだ」
「明日です」
「明日ァ?!」
ドーミオは思わず声がひっくり返った。
「お、おい嬢ちゃん、こんなところで酒飲んでて平気なのか」
「夜からですし、少しくらいなら大丈夫です! むしろ飲まなきゃやってられません」
そう言ってちびりちびりとジョッキを傾けるゆりは、ドーミオがどきりとするような、以前にはない妙な色気を身につけていた。
いや、正確には色気ではなく、品格のようなもの。
愚痴を言いながらもぴんと伸びた背筋に、ジョッキに添えられた指の先まで張り巡らされた無意識の糸。以前から育ちの良さそうな娘だとは思っていたが、今のゆりはどこからどう見てもお忍びの貴族の娘……と、その
本人は付け焼き刃の授業だと言っていたが、やはり元が市井の娘とは違ったのだろう。
このまま教会に囲われていたとしても、垣間見たどこぞの貴族やら金持ちに「妻に」と請われるのは時間の問題のように思われた。
……だが。
「そういや嬢ちゃん、ソレ……。ナオトにもらったのか?」
「え?!」
ドーミオが自分の耳をつんつん、と指差すと、ゆりは真っ赤になって
「そ、そうですけど……。なんでわかるんですか?」
なんでと言われても、ナオトに「服でも宝石でも買ってやれ」とアドバイスしたのはドーミオである。
それに――
その美しい宝石の輝きが示すものが何なのか。一度でもナオトの顔を見たことがあるのなら、どんな愚か者でもすぐにわかるだろう。
ナオトの瞳と同じ、揺れて立ち上る黄金色。ゆりの両耳から放たれる遠慮のない視線は、紛れもないナオトの執着の証だった。
――オレの女に手を出すな、という無言のメッセージ。
あの直情的なナオトにしてはなかなか粋な真似をするじゃねえか、とドーミオは感心した。
信じられないことに、好きなものを聞かれれば「オンナノコ」と言って憚らなかったあの男が、未だゆりには手すら出していないと思われた。(ゆりのこの初心な様を見れば一目瞭然である)
余程大事に思っているのか余裕があるのか知らねえが、横から掻っ攫わられなけりゃいいがな。例えば……。
ドーミオは先程から無言のまま涼しい顔でジョッキをあおるエメを見た。
「そ、そういえばドーミオさん。私ドーミオさんに聞きたいことがあったんです」
「あ?」
流れを変えようと思ったのか、ゆりのやや強引な話題転換にドーミオは意識を引き戻した。
「ドーミオさんは、ミストラルっていう国に行ったことはありますか?」
「いや……国境間際までならあるが、入ったことはねえな。規模はたいしたこたぁねえが最近勢いがある国だから行き来は盛んだぞ。それがどうした?」
「聞いて下さい! それがですねー……!」
ゆりはペラペラと喋り始めた。
普段のゆりには考えられないことだったが、酒が回ってきたのだろう。程よい酩酊が彼女を饒舌にさせていた。
礼拝堂でひとりピアノリサイタルをしていたことから、謎の男にそれを見られ「また聴かせてほしい」と懇願されたこと。
翌日行ってみたら本当にその男がいてピアノを弾いて聴かせたこと。ミストラルという国から来たというその男が、連合会議が終わったら帰国前にもう一度会って欲しいとやや強引に約束していったことなど。全てをつまびらかに語って聞かせた。
「本当になんなんでしょうね? ミストラルの人ってちょっと強引なお国柄なんでしょうか」
「おいゆり……。お前さん、そりゃあちょっと不味いんじゃねえか」
「へ?? 何がですか?」
「何ってそりゃあ……」
ゆりの暢気な様子が、逆にドーミオに焦りを感じさせた。
連合会議に参加するならば、国の要職なのは間違いない。
そんな男が熱心に何度も会いたいと近付いて来るなど、惚れた以外に何があるというのか。大方帰国前に「一緒に国へ来て欲しい」と言い出すつもりだろうことがありありと想像できる。
「ユリ、その話、初めて聞いた」
「えっ……。だって、ひとりで気持ちよく歌を歌ってたら聞かれてました! なんて……恥ずかしくて言えるわけないじゃない……」
ただでさえ白い顔を蒼白にさせて、エメがこの場で初めて口を開く。どうやらドーミオと考えていることは一緒らしかった。
「まあ……そうだな。とりあえずその男の正体が気になるな。どんな奴なんだ?」
脂切った中年親父だったら目も当てられない、とドーミオは逸る内心を抑えた。ゆりはジョッキをテーブルに置くと、うーん、と考え込んだ。
「歳は私と同じくらいか……もしかしたら少し下かもしれません」
そりゃあ随分と若いな、とドーミオは返した。
「肌は日に焼けて褐色で、綺麗な銀髪でした」
海軍関係者だろうか。……いや、銀髪?
「名前はえっと……。ああ! そうだ、フレッドさん。フレデリクだって言ってました」
ゴンッ!
ドーミオは思わず持っていた木製のジョッキを床に取り落とした。
歳の頃二十歳前後。銀髪に、ミストラルならば船乗りの証と思われる日焼けした肌。高貴な身分で名はフレデリクと言えば、上流のことは興味のないドーミオですらその正体に思い当たった。
――すなわち、「海軍王子」フレデリク・エイリーク・ミストラル。
ミストラル海軍の若き提督にして、次代を嘱望されたミストラルの第一王子。
「おいおいおいおい……マジかよ」
とんでもない大物に見初められたものである。
元々欲しいものは力ずくでも手に入れる、というのが海の男の常である。しかもそれが、最上級の身分の男だ。
真正面から請われたら、そもそもゆりの立場では断ることすら難しいのではないか。ミストラルと教会は代々懇意だというから、裏から手を回されたら教会の方が大手を振ってゆりを送り出す可能性すらある。
ドーミオは心の中で頭を抱え、嘆息した。
「ゆり……。お前が嫁に行っても、たまには会いに行ってやるよ」
「ええっ?! なんでそうなるんですか!?」
「……殺す、か」
ぼそりと呟いたエメの本気の表情に、お前がそこまで言うんなら、一体狼将軍や勇者サマはどうなるんだよ、とドーミオは背中に冷たい汗が流れ落ちるのを感じるのだった。
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