第三十七話 キスとは魔法

 謎の男フレデリクとの邂逅から一夜明け。


 ゆりは昨夜あまりよく眠れなかった。

 フレデリクは連合会議に参加するため、ミストラルという国から来ているそうだ。ゆりが「身分が高い人かもしれない」と直感的に思ったのは、あながち間違いではなさそうだった。



 “連合会議で一月程こちらに滞在するけれど……。帰国する前に、もう一度、ここで会って欲しい”



 本当はもっと会いたいけれど、会議中は忙しくてなかなかそうもいかないんだ、と。

 そう言われて、喜んだり嫌がって断ったりするほどこの男のことを知らないゆりは、ただ無言で頷くことしかできなかった。


 “さようなら、天使”


 帰り際に男に頬にキスされて。

 ゆりはしばらく礼拝堂でぽかんと取り残されてしまった。ミストラルという国は女性に対して大分砕けた接し方をする国なのかもしれない、と思うことにして、なんとか平静を取り戻した。




「――と、このように、一口に挨拶と申しましても様々な種類と意味がございますので、状況により使い分ける必要がありますわ」


 今日は仕事がないので、午前中からテオドールの姉、ララミアがマナーの講義に来てくれていた。午前は座学、午後は実践、と丸一日教えを請う予定である。


「男性が女性の手の甲に口を近付けるしぐさをするのは敬愛の意味が込められた挨拶でして……由来は遡りますと」

「ララミア先生」

「はい」

「口は、近付けるだけ? 実際にはその……キスは、しないのですか」

「普通はそうですね。触れるか触れないか……くらいでしょうか」

「そうなんですか……」


 ゆりが怪訝そうに眉根を寄せると、ララミアはぴょこん、と兎の片耳を立てた。


「まあ……。ゆりさんはそんな熱心な挨拶を普段、どなたかから受け取っていらっしゃるの?」

「いや、あの、ええ…………ハイ」


 手にする口付けならアラスターは毎度のこと、最近はエメだって別れ際にしてくるし、昨日など名前しか知らない男にまでされた。……とは流石に言えない。


 彼らが人として好意を持ってくれているのは間違いないだろうが、ゆりはこれまで恥じらいつつも、その行為をこの世界の一般的な挨拶だと思って受け取っていたのだ。今更そんなことを言われてもピンと来るはずなかった。


 あらまあ、と少女のように口許に手を当てて顔を赤らめて見せたララミアは、だが次に、すい、と妖しく目を細めた。



「でも私……その殿方のお気持ち、少しわかるような気がします。だってゆりさんて――――。


 とっても、美味しそうなんですもの」



 その瞳は間違いなく獣のもの。捕食者のような視線をこちらを向けたララミアに、ゆりの本能はぞくりと粟立った。


 兎って、草食じゃなかったっけ……?


 ゆりが内心冷や汗をかきながらそう考えていると、ララミアは元の可愛らしい笑顔で、小首を傾げた。

 そして、打ち明け話をするように小さく、でも注意深い声でこちらに向き直った。



「ねえゆりさん、我々ブリアーの民にとって、キスとは『魔法』なのです」



 久しぶりに聞いたその単語に、ゆりはきょとんとした。


「魔法、ですか」

「そうです。太古の昔、私達獣人や人間の体内には、空気中と同じように……いえ、もっと濃い魔力がありました」

「それは以前、テオくんから聞きました」

「キスは、その体内の魔力を取り出して与える行為です。例えば所有の証。回復魔法やおまじないや、呪いにも。自分の体内の魔力を何かに付与して留める、一番原始的な方法なのです」


 体内の魔力で印付ければ所有の証に。魔力を相手の身体に流し込めば回復魔法に。その魔力で、相手を縛り付ければまじないや呪いに……。

 それを最も簡単に、手っ取り早く行う方法として口付けする。原理は全くわからないが、道理としては理解できた。



「ですから本来、キスには色々な意味があります。敬愛、思慕、所有、隷属、憧憬、羨望。

 ……でもそれは、魔力が失われた現在でも同じこと。そこに難しい理由はなくて――――ただ、したいからキスする。そういうものじゃないでしょうか?」


 そう言って笑ったララミアは、間違いなく人妻の色香を纏っていた。



「よく、わからないです……」



 だって自分は、恋すらまともにしたことがないのだ。

 誰かにキスしたくなる気持ちも、そのキスに込められているかもしれない意味も……

 ゆりには、自分には過分で、およそ受け取れるものではない気がした。



 そんなゆりの様子を見ていたララミアは、困ったように頬に手を当てると、「それにしても」と呟いた。



「ゆりさんにそんな情熱的な挨拶をなさる紳士が既にお近くにいらっしゃるなら……。テオドールには、もっと発破をかけないといけないわ」


「テオくんですか??」

「そうですわ。だってあの子、ゆりさんのことをお慕いしてますもの」


 さらりと言い放ったララミアの言葉を、しかしゆりは冗談だと思って笑った。


「あはは、まさか。それにちょっと……私とテオくんだと、歳が離れすぎてると思いますけど」

「そうでしょうか? テオドールは今年十五です。確かにゆりさんの方が少しお歳は上ですけど……あり得ない差ではないと思いますけれど?」


「じゅ、十五!?」



 その事実は衝撃だった。


 十五といえば、この世界では間もなく成人である。

 ゆりはこれまで、テオドールを小学生くらいだと思って接していたのだ。しかしよくよく考えれば、あれだけ博学で理知的な少年が、そんなに幼い子供なはずがなかった。ゆりは完全に、見た目だけで彼を誤解していたのだ。


「わ、私……。これまでテオくんにすごく、失礼な接し方をしていたかもしれません」


 ゆりが青醒めながらそう言うと、ララミアは優しい面差しでゆりを見た。


「兎族は皆、歳より若く見られることが多いのでしょうがないですわね。――ねえゆりさん、貴女がご存知かはわからないけれど……テオドールは元々、あまり他人に関心のない子供でしたの」


 ゆりはテオドールに天真爛漫な印象を持っていたので、ララミアのその言葉を意外に感じた。


「幼い頃から本ばかり読んでいて、同じ年頃の子供達をどこか遠巻きに、見下すような態度すら取っていました。五年前に母が儚くなってからはそれが更に顕著で……。私など、テオドールが神殿に入ってからのこの三年、ろくに文すら受け取っておりませんでした」

「え?? お二人のお母さんて……もう亡くなっているんですか?」

「ええ」


 ゆりはララミアのその言葉に違和感を覚えた。何故なら、これまで何度となくテオドールから家族のことを聞いていたが……。


「ぼくの母はいつもこうしています」「母はこんなことを言います」


 そんな風に話すテオドールの口振りは、とても既に亡くなっている人のことを語っているようには聞こえなかったからだ。なのでゆりは今の今まで、テオドールとララミアの母親は存命なのだと思っていた。


「テオドールは母を心の底から慕っていましたから……。まだ幼かったですし、その死は相当ショックだったろうと思うんです。それまでに輪をかけて家族に心開かなくなってしまって。……でもね、ゆりさん」


 ララミアは新緑の瞳でゆりを見つめると、ゆりの両手を取って優しく包んだ。



「貴女が来て、あの子は変わった。あの子が実家リンツに文をくれるようになったんです。召し人様のお世話をするようになって、それが私と同じ年頃の女性で……。その方はいつも真摯に自分の話に耳を傾け、敬意を持って接してくれると。清廉潔白でありながら、少女のような部分も持っていて……とても、可愛らしい方だと」



 ゆりは声が出なかった。

 テオドールがまさか自分のことをそんな風に家族に伝えているとは知らなかったのだ。世辞にしてもあまりに過大なその書き振りに、真っ赤になることしかできなかった。



「ですから私、今回の件でテオドールが…ゆりさんが、私を頼って下さって。お会いすることを本当に楽しみにしていたんですよ」


「わ、私も、あの可愛くてしっかり者のテオくんのお姉さんだから……きっと素敵な人に違いないと思ってて、だからお会いできてうれしいです」


「まあ。ゆりさん、私達……いいお友達になれそうですね?」


「はい!」



 屈託なく笑ったゆりの花も恥じらうような笑顔に、いずれ義理の妹になってくれたら尚いいのだけど……と、ララミアは思った。

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