第二十話 黒髪の

「あったまいってー……」


 その日ナオトは、見知らぬ寝台の上で目を覚ました。

 隣には名も知らぬ黒髪の虎獣人の女があられもない姿で眠っている。げっ、と呟くと、ナオトは面倒そうに舌打ちした。


 女好きで誰彼構わず遊んでいるように見える(本人もそう公言して憚らない)ナオトだが、実は基本的に公娼――それもとびきり高級の――しか相手にしない。理由は単純だ。高い女の方が面倒が少ないから。

 

 だが、昨夜はどうだ。

 場末の酒場で暇を潰していたナオトは、虎獣人の女に声をかけられた。ナオトが素人を相手にしない、ということを知っているこの街の女達は容易に声をかけては来ないが、それでも時折こうやっているのだ。ナオトの容姿や名声に釣られてくる女が。

 めんどくせーな、と思ったナオトだったが、たまたま気が向いて話を聞いたのは、その女が黒髪だったからだ。



 ――黒髪の女。

 ナオトは最近毎晩のように夢に見るのだ。異世界に暮らしていたはずの黒髪の女を、自分が墜として、連れ去り、この手に抱くのを。そして朝が来る度に思うのだ。


 オレはこの女を手放せなくなるかもしれない、と。

 理由などわからない。だが、それは本能が告げる予感めいた確信だった。



 これまでの人生で何も与えられずに育った彼は、失うことを恐れ、何も持たず、身軽で刹那的に生きてきた。

 そんな自分が一人の女に執着し、その存在に縛り付けられてしまうかもしれない、他人に興味などまるでなかった自分が変わってしまうかもしれない、という事実が、彼にはただ恐ろしかった。



 ナオトは脱ぎ散らかした衣服を身に纏いながら再び寝台を見やる。

 昨日は失敗だった。女がネコロリソウの媚薬を使ってきたのだ。

 猫族にに効くその違法薬物の香りを嗅いで、ナオトの意識は燃え上がり、混濁した。その結果がご覧の有り様である。


 どーすっかな……


 ポリポリと頭を掻いたナオトは神剣を腰に差すと、決意したように頷いた。



「逃げよ」




 勇者ナオトが黒髪の女に執心している、というのは、既にこの界隈では有名になりつつあった。何故なら、ナオトが魔物討伐から帰着してから連日、神殿にも帰らず娼館に居着き、夜毎に黒髪の女を指名しては文字通りいるからだ。


 ナオトにとって、それは単に満たされない欲求を埋めるための代償行為に過ぎなかった。一人一人の名前も、顔すら覚えていない。だからこそ、彼は気が付かなかった。


 この街でそれほど多くない「黒髪の女」が、誘拐され、娼館に売られているのを。






 その日、エメがゆりの部屋を訪ねると兎耳の少年が一人で文机に向かっていた。

 今日は今週末の街への外出の前に何処でどういうものを買いたいか確認するとゆりと約束していたはずなのだが―。どういうことだ、と少年を見ると、テオドールは耳を垂らし、困ったように微笑んだ。


「ゆりさんなら、訪ねて来られたアーチボルト卿と中庭へ行かれましたよ。何でも、『お花見』というものをするとか……」


 本当はテオドールも誘われたのだが、熱心にゆりの元へ通ってくるアラスターにとって邪魔になっているのが明らかだったので、さりげなく理由を付けてその場を辞したのである。


「アーチボルト卿……? 良く、来ているのか?」

「えっ、あっ、はい。先週初めてゆりさんの元へいらしてからは……ほぼ連日です。滞在時間は、ごく僅かですが」



 ――ほぼ連日。


 その言葉を聞いてフードの奥のエメの顔が明らかにしかめられたので、テオドールは空恐ろしい心地がした。エメはこのモルリッツ支部神殿にあってたった一人、女神教の総本山であるトゥ=タトゥ聖教国の支配者・大教導の直属である。階級は一般の神官と変わらない影の如き存在でありながら、時に此方モルリッツの教導すら凌ぐ権限を代行しうる特別な存在なのである。

 その白いローブは神官の一般的な旅装用であるが、足音一つしないその歩み、フードから時折覗く氷のような美貌から、神殿内で彼とすれ違った神官達は皆一様に生きた心地がしないと言う。


 テオドールが恐る恐るその様子を伺っていると、エメは無言で踵を返し、部屋を後にした。



 そして中庭では。


「わあ~ アランさん、このマカロンとっても美味しいです!」

「そうか」

「見た目もとってもかわいいですね! この街にも私の世界と同じ食べ物があるなんて、なんだかうれしいな……。アランさん、どうもありがとう」

「貴女が喜ぶ顔が見られるなら、それでいい」


 アラスターはそう言うと、まるでそこに宝石でもあるかのように熱心に小箱のマカロンを眺めるゆりを見て相好を崩した。


 神殿の内部施設、通常であれば部外者であるアラスターの立ち入ることのできない中庭の一番奥。ゆりが“桜”と呼ぶ大樹の根元へ二人はやって来ていた。アラスターは紳士らしく騎士団の制服の外套を外すと、敷物代わりにしてゆりの手を取り、恭しくそこへ座らせていた。なんでもゆりの世界では、この花が咲いている時はこうやってその下に集いピクニックをするのが定番なのだという。


 始めはとして――召し人というその珍しい境遇に興味を覚え。勇者への僅かな当て付けの気持ちもあり、約束通りに可愛らしい菓子を携えて神殿へ日参していたアラスターは、次第にこの娘がこれまでに見知ったどの女性とも違う、稀な存在であると感じていた。


 微笑めば可憐で、少女のような無垢さを持つこの娘は、アラスターが舌を巻くほど賢く、向学心旺盛であった。空模様の話をすれば、ゆりはそこからこの大陸の地理にまで会話を広げた。気紛れに詩をそらんじれば、ゆりもまた自分の世界の美しい詩をアラスターに聞かせた。珍しい菓子を差し出すと、にこにことそれを頬張りながらも材料や製法を的確に予想してみせる。

 聞けば、元々は幼少の子供を預かる教師だったのだという。その才知にも、時折見せる女性らしい一面にも納得がいった。

 そして、初めて会った時から彼の脳を刺激するこの芳しい香り。彼女の横でそれを感じ、吸い込むと、それだけで胸を焦がすような抗い難い何かが全身を駆け巡る。


 本能が、理性が、同時に――そして急速に惹かれていくのを、アラスターははっきりと感じていた。


 アラスターがゆりの横顔を見ながらその表情がくるくると変わるのを暫し観察していると、薄青のマカロンを日に透かし、眩しそうに目を細めていたゆりと目があった。


「アランさん、“青い”という言葉の綴りはどう書くんですか?」

「ああ、それなら……」


 一瞬どきりと動揺したのをおくびにも出さず、アラスターは空いているゆりの左手を取るとその手の平に言葉を綴った。


「ふふ、なんかくすぐったい」

「ユリ!」


 アラスターとゆりが密着して手の平を覗き込んでいるところへ、何処からともなく白いローブを着たエメがふわりと降り立ち、地面に降り積もった薄桃の花弁を舞い上げた。


「エメ! アランさんがお菓子を持ってきてくれたんだよ。一緒にどう?」

「神官殿、お邪魔しています。――ゆり、“白い”という言葉は?」

「あっ、それなら書けますよ。えっと……」


 アラスターはエメを一瞥だけして気のない挨拶をすると、すぐにまたゆりの意識を自分の方へと引き寄せる。ゆりが無邪気にアラスターの大きな手の平に指文字を綴ろうとするのを見て、エメは慌ててゆりの右手を掴んで引っ張った。


「ユリ、アーチボルト卿は、忙しい。……勉強なら、兎に、頼め」

「あっ……そうだよね。ごめんなさいアランさん。長々と引き留めちゃって」

「いや」


 エメの無粋な態度に不満げな気配を覗かせるアラスター。エメはそれを無視しつつ、なんとかゆりの意識をこちらに向けることに成功すると、そのままゆりの手を引っ張って立ち上がらせる。そしてその正面に回り込むと、周囲から遠ざけるように白いローブをはためかせた。


「ユリ、週末、出かける約束。大丈夫?」

「もちろん! ちゃんと買い物リストも作ったんだから」


 その二人の会話に、外套に付いた花弁を払いながら立ち上がったアラスターが言葉を挟む。


「……ゆり。市街へ行くのか?」

「はい。今度エメが連れてってくれるんです」

「そうか。こちらの神官殿が」


 そう言ってアラスターが切れ長の瞳を向けると、エメもそれを正面から受け止め、自ら名乗った。


「『閃光』の、エメだ」

「『閃光』……! ――そうか。なら、いい」


「閃光」。表向き大教導直属の護衛集団とされているその集団は、その実、教会の暗部を担う暗殺諜報組織であると言われているのは公然の秘密である。

 つまり、その名乗りが本当ならば、アラスターの目の前に立つこの白尽くめの男は超一流の暗殺者である。そもそも表に出ることが少ない「閃光」の者が、堂々と名を名乗り姿を晒していること自体、異常であった。


 勇者以外にもとんでもない伏兵がいたものだとアラスターは内心冷や汗をかく。


「……? 何か問題がありましたか?」


 こちらを見上げる不安そうなゆりの言葉に、アラスターはごほん、と一度咳払いをした。


「実はここ数日、市街で誘拐事件が数件起きている。被害者はいずれもだ。偶然の一致にしては、共通点が多い」


 ゆりが、ごくりと息をのむ。

 アラスターの見立てでは、この娘は自身が他人の悪意や脅威に晒されるとは露にも思っていないような節がある。余程平和な国からやってきたか、箱入りの娘だったのだろう。


 アラスターはばさりと外套を翻して鎧の上に纏うと、ゆりの黒髪に指を滑らせその一房を手に取った。


「怖がらせるつもりはなかったんだ、すまない。念のため、週末に出掛ける時は何かで髪を隠して行きなさい」


 ゆりの横に立つ白尽くめの暗殺者が射殺すような殺気を放つのを余裕の表情で受け止めると、アラスターはフッ、と挑戦的に口の端を持ち上げ、自身の手の中の黒髪に口付けた。

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