第十八話 浮遊せよ!

 結局、エメと街へ出掛けるのは来週末と言うことになった。

 そしてその約束を交わした翌日。ゆりが朝から食堂の床と壁を日本人の習性でピカピカに磨きあげていると、いつの間にかサンタクロースのような髭を生やした年配の神官がそこに立っていた。


「ゆりさんの御心は磨きあげられたこの鏡のように澄んでいますな」


 何度か顔を合わせたことのあるそのおじいちゃん神官に掃除ぶりを絶賛されて、ゆりはその大袈裟な表現にしきりに恐縮しながら部屋に戻ってきた。


 午後はテオドールに教えてもらいながら、この世界の文字を勉強する予定である。あの日、エメにもう帰れないことを知らされたゆりはこの世界で最低限生きるために必要な知識を身につけるべく行動を始めた。幸い、勉強や暗記、特に語学は得意分野なので苦ではなかった。

テオドールに飲み込みの良さを褒められ、俄然やる気の出たゆりは自分でも単純だな、と少し可笑しくなった。これまでの人生で、勉強でどれだけ成果を出そうともほとんど褒められたことがなかったからだろう。




 自室の扉を開けると、テオドールが昨日のゆりの宿題を添削するために机に向かっているところであった。


「あっ、ゆりさん。お帰りなさい。実は一刻程前、先触れがありまして……。今日の午後、黒狼騎士団のアーチボルト卿がゆりさんにお目にかかりたいそうなんですが、どうされますか?」

「アラスターさんが?」


 ナオトと犬猿の仲の狼の神獣人。そういえば、初めて会ったあの日、後日改めて謝罪したいという彼の申し出を受け入れていたのだと思い出した。


「わかった。会う。こういう場合……この部屋はまずいよね? どこか、応接室みたいなものは借りられるのかな」「大丈夫ですっ! もう抑えてありますから!」


 食い気味に言葉を返してきたテオドールを見ると、兎耳をはためかせ、その瞳はキラキラと輝いている。


「テオくんもしかして……アラスターさんに会いたいの?」

「それはもちろん! 吟遊詩人にも歌われるほどの英雄ですからね! 憧れない男はいませんよ!」


 もちろん勇者様もかっこいいですけどねっ!と誰に向けてなのかわからないフォローをするテオドールの年相応の少年らしい一面を見て、ゆりはそれを好ましく思った。


 ――それにしてもである。



「アラスターさんも、私みたいな一般人をなんでそんなに気にかけてくれるのかな。やっぱり、私の匂いを気に入っちゃったのかな……」



 以前、テオドールに自分の体臭をどう思うか率直に聞いてみたところ、ニッコリ笑って「とても甘くて美味しそうな、お菓子みたいな匂いがします」と答えてくれた。


 そうなのだ。

 テオドールやエメのように、一般的な獣人にとってもゆりはとても好ましい匂いがするらしかったが、ナオトとアラスター――二人の神獣人の反応は最早それを通り越して、本能を刺激されているレベルだったように思う。鼻が良いから、で済む話なのだろうか。


「それに関してなんですけど、ぼくが思うに、魔力が関係しているんじゃないかと」

「魔力? 魔法とか、そういう力のこと?」


 「魔力」という言葉はこれまで何度か耳にした。だが「魔法」は――不思議なことがたくさんあるこの世界に来てからも、まだゆりはそれらしきものが使われたのを見たことはなかった。



「正確には魔法を使うための力、……ですかね。今も昔も魔力というものは変わらず大気中に存在していますが、永い時の間にヒトの体内からは失われてしまいました。そのため魔法に関する技術は停滞、もしくは散逸してしまったものが多くあります」



 伝説によれば、太古、ヒトの身体の内には魔力が存在し、その体内の魔力や空気中にある力を集めて魔法として行使していたそうだ。だが、いつからか――ヒトの身体から魔力は失われてしまい、「原初の獣」を祖とする獣人が僅かに受け継ぐのみ……ということらしい。

現在も「魔道具」という、魔力を源として様々な効果を生む道具はあるものの、それは大気中の僅かな魔力を溜め込んで使うのがせいぜいで、威力や効果を一定以上に高めるのは難しいらしい。



「つまり、魔力のまったくない人間にとってはなんともなくて、少し魔力を感じとる力を残している獣人には美味しそうに感じられ、先祖還りした神獣人は本能を刺激される……。これは、魔力に関係しているんじゃないでしょうか? 事実、ぼくがとった『ゆりさんの匂いをどう思うか』というアンケートでも男女に関係なく種族に依存するという結果が出ていてですね……」

「ちょ、ちょっとテオくん、アンケートって何?!」


 ゆりの疑問に答えることなく、テオドールは小首を傾げると恥ずかしそうにテヘッと笑う。――反則だ、とゆりは思った。

 調査方法はともかく、そこから導き出された推測はさすが賢いテオドール。説得力があるなとゆりは感心した。


「つまり私は、昔のヒトみたいに身体の中に魔力があるってことなのかな?」

「ぼくには断言はできませんが……。もしあるとすれば、内包量が多くてダダ漏れなんだと思います。召し人様だから、我々とは何かが違うんでしょうね」

「そっかぁ。魔力があるって言われるとなんか特別な感じがしてカッコイイけど、使えないんじゃ意味ないよね」

「魔法は意思の力に左右されると聞きますから、強く念じればゆりさんならできるかもしれませんよ?」

「そ、そうかな?」


 ゆりの頭の中に、昔英語の勉強のために原書で読んだ児童書――主人公が魔法の学校に行って、箒に乗って活躍するお話――が思い起こされた。


 ゆりは日本から来たときポケットに入っていたボールペンを右手に持ち、同じく日本から持ってきたハンドタオルを机に広げると。

 イメージを頭の中に作り出し、右手に力を込め、高らかに「力ある言葉」を発した!


「えーっと、『浮遊せよレヴィオーサ』!!」

 .

 .

 .

 .

 .

 何も起こらなかった。



 ゆりは、後ろでぷるぷると肩を震わせるテオドールを真っ赤な顔で見た。


「ゴホン。…………えっと…………。あ、あ、アラスターさんをお迎えする準備しよっかな! お茶とか、出せばいいのかなっ?!」

「ハイ……そうですね……ぷぷぷ」

「てーおーくん??」

「いひゃい、ゆりさん痛いです」


 ゆりがテオドールの兎耳を両手でぴーん!と引っ張ると、テオドールは少女かと見まごう程幼気に若草色の瞳を潤ませたのだった。

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