第48話 夏休みの初日

「うふふふふ。あはははは」

 石見と山吹の前で宇嘉が哄笑していた。昨日まで浮かない顔をして登校していた誰かとは別人のようだった。二人は顔を見合わせる。ついに宇嘉があっちの世界に行ってしまったのかと不安になった。


「お嬢さま。いかがなされました?」

「あら。お早う。いかがって?」

「随分とご機嫌が良さそうでしたので」

「分かる?」

 んっふふーん。


「今日から夏休みよ」

「はあ。確かにお休みですね」

「なによ。その薄い反応は。まあ、いいわ。つまり、今日から圭太は基本的にあの無駄にでかいモノで誘惑するビッチ二人と接触する機会がなくなるわけよ。一方で、この私は隣に住んでいる利点を生かしまくるわ」


 おほほのほ。上機嫌な主の姿を見て、石見は言いたくは無かったが一応は確認をする。

「それで、圭太様とのお約束はされているのですか?」

 言ってしまってから石見は激しく後悔をした。宇嘉の表情が瞬く間に変わってしまったからだ。これでは山吹のことを笑えない。


「それは……」

 重苦しい沈黙が流れる。その空気を読まないというか、平常運転の山吹の声が響いた。

「やっぱり夏ですもんね。ハプニングからのアバンチュール。ふとした瞬間から始まる開放的な気分での夏の恋。いいですよねえ」

 蕩けた声で何か思い出す山吹のあほ声が重苦しい気分を吹き飛ばした。


 宇嘉は大きく頷く。

「そ、そうです。今までは策を弄しすぎました。折角隣に居を構えたのだから、偶然訪れるチャンスを利用すればいいのです。少なくとも、確実に圭太と一緒に一つ屋根の下で過ごす合宿という機会はありますから」


「合宿の宿の近くに我々も拠点を構えてバックアップする準備はできています」

「そう。よろしくね」

「はい。精一杯努力する所存です」

 石見が失地を回復しようと真面目な態度を示す横で山吹はいつもと変わらない。

「ところで、お嬢さまは水着はもう買いました?」


「水着……。合宿と何の関係があるんです?」

「あれ? 行先は伊豆ですよね。一つ山を越せば海ですけど。やっぱ夏といえば海。ビーチで圭太様の視線を独り占めです」

「え?」


 迂闊にも宇嘉は行先をよく見ていなかった。圭太のことで頭が一杯でそれどころじゃなかったということもある。

「部活の合宿なんだからビーチに行く暇なんてあるわけないでしょ」

「でも、合宿のしおりの持ち物に水着ってありますけど」


「なんで、陸上に水着が必要なのよ?!」

「えーとですね。レクって書いてます。レクリエーションですかね。筋肉への過剰負荷を抑えると共に部員同士の親睦を深めるための時間とあります」

「……」


 圭太だけの前なら水着姿になるのは抵抗がない。なんなら全部脱いじゃっても構わない。しかし、大勢の目の前となると抵抗があった。羞恥心の方向が間違っているのかもしれないが、そこは微妙なお年頃の可憐な乙女心というやつだ。しかし、現実的な問題が3つある。


 一つには宇嘉が日焼けに弱いということ。色白の肌理の細かい肌は宇嘉のアピールポイントであり、圭太に対する最大の武器でもある。以前、石見が言ったとおり、しっとりとした肌を密着させれば圭太を陶然とさせるだろうことは想像に難くない。


 その代償というか、宇嘉の肌は紫外線に弱かった。普段はきちんとケアをしているので問題ないが、ビーチといえば砂浜からの反射もあり、上からも下からも肌を痛めつけることになる。最強の日焼け止めクリームを定期的に塗布してしのぐしかなさそうだ。


 さらに問題なのは、海そのものである。宇嘉は海が怖かった。塩でべたつくのも不快だったが、実はあまり泳ぐのは得意ではない。プールのように波が無いならまだしも、寄せては返す波を考えると気が重い。想像力が悪い方に発揮される。離岸流で沖に流されたらどうするのよ。まだ圭太と結ばれてないのに。


 そして、最大の敵は水着そのものだった。どうして、この水着というやつは胸の大きさの魅力を発揮するようにできているのだろうか? 特にセパレートタイプというやつは難物だった。どこをどうしたって谷間に視線を集めるようにできているので始末が悪い。


 動いていなくても目障りなのに、波打ち際でビーチボールをきゃっきゃうふふとばかりに打ち合ったりしたら、たゆんたゆんと男の劣情を刺激する。そうなると日焼け対策としても露出が少なめな物を選ばざるを得ない宇嘉はセクシーさでは2歩も3歩も劣ることになってしまう。


「……時間はまだあります。その点については時間をかけて検討しましょう」

「そうですね。布地が少なければいいというものでもありませんから」

 そうやって、なんとか場が収まりかけたところへ1発目のミサイルが着弾する。前川先輩からの連絡だった。


「やっほ。宇嘉ちゃん。夏休み始まったけどどうしてる? 来月の合宿楽しみだね?」

「あ、前川先輩。合宿……ですか?」

「そう。水泳部の合宿先は陸上部と割と近いんだよ。それにレクの日は一緒じゃない」


 宇嘉は慌てて石見の手からしおりを引ったくる。細かい字で欄外に手書きの注意書きがあった。レクの日は水泳部と一緒ダヨ。

「今、知りました……」

「そっか。まあ、よろしくね」


 メッセージのやり取りを終えた宇嘉が虚ろな目になる。

「ははは。陸上部だけなら、所詮はどんぐりの背比べだと思っていましたが、水泳部が参加となると……終わりました……」

 がっくしと膝をついて俯いてしまう。


 さらに次弾が着弾する。

「宇嘉ちゃん。うちと陸上部の合宿先に侮れないお店があるんだ。特別に教えてあげるから。白玉クリームあんみつは絶品だぞ」

 市川からだった。


 後藤寺と異なり利害関係が複雑な市川である。3年の白鳥をなんとかするまでは邪険にするわけにはいかなかった。圭太も狙われているとなればなおさらである。

「楽しみにしてるね」

 こう返すのがやっとだった。


「どうして、3つの部活の合宿先と時期がこうも重なっているのよ!」

 宇嘉の悲痛な叫びがこだまする。まあ、世の中というのはそういうもんである。宇嘉はこうしてはいられないと少しでも自分の魅力を引き出せる水着の検討を石見と山吹に命じた。


 そこへピッピという警報音が鳴り響く。圭太が家を出たという合図だった。

「こんな時間からどこへ? 今日は部活も何もないはずなのに」

 初日から計画が狂って慌てる宇嘉は、合宿先がとある誰かさんの帰省先ということをまだ知らないのだった。


 

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