第99話 タマの場合

以前の出勤時間。

以前の通学時間。

以前と同じ辺りで、お互いを認識する。

以前と違うのは、そこにタマが加わったこと。

それから、俺は下を向いていないこと。

「おじさん」

は?

みゃーが悪戯っぽい笑みを浮かべてる。

「さっきそこで野良猫とじゃれてたら、おしっこかけられ──」

初めて、みゃーが俺に話し掛けてきた時を再現しているのだと気付く。

ただ、軽い冗談のつもりだったのだろうが、野良猫というワードに、つまずくように声が詰まってしまったようだ。

あの時いなかった自分は邪魔になるとでも思っているのか、タマは少し離れて立っている。

それに、以前と違うものがまだある。

ここから見えるラーメン屋だった場所は、既に取り壊しが始まっている。

その隣の路地もふさがれている。

「えへ、ごめん。まだ一日しか経ってないのに、何か泣けてきちゃった」

「いいよ。ただ、アイツらも遠くには行かないだろうから、そのうち会えるさ」

別に居なくなった訳じゃない。

休みの日には、散歩がてら探してみるのもいいかも知れない。

「こーすけ君」

「ん」

「行ってくるね」

「ああ」

「お仕事、頑張って」

みゃーはそう言って、やっぱり笑顔で送り出してくれる。

でも、俺はその仕事を辞めるつもりでいる。

以前と違うことが、また増える。


俺は、今年いっぱいで退職すると社長に告げた。

社長は、「すまない」とだけ答えた。

退職金を辞退すると言うと、社長は悔しそうな顔をした。

頭を下げられた。

何故かそれが酷く悲しくて、俺は目をらした。

社長には家庭がある。

一人暮らしの俺は……いや、アイツらがいる。

でも、俺には両親がのこしてくれたものがある。

それが、どれだけありがたいものか。

そしてあの二人が、どれだけ俺を支えてくれることか。

「今まで、ありがとうございました」

俺も頭を下げた。

誰も憎まず、感謝の気持ちを持てるなら。

現実にはそんなことは不可能だけど、今のところ俺には憎むような相手はいない。

それは、とても喜ぶべきことだ。


家に帰るとタマがいた。

靴を見ただけで判る。

もちろん匂いはがない。

「何故!?」

俺の行動を注視していたタマが不満げだ。

みゃーから先日のことを聞いているのだろう。

「私の靴に執着は無いのですか?」

「誰の靴にも執着はねぇよ!」

「変態はみんなそう言います」

「お前への執着はある」

「あう」

タマは言葉を失った。

コイツはこっちが攻勢に出ると、途端に弱っちくなる。

まあちょうどいい、仕事を辞める話をしておこう。

「年末で退職することにした」

「そうですか」

あれ? 全く驚かないので驚く。

驚かないどころか質問もしてこない。

何で辞めるのかとか、これからどうするのかとか、色々あると思うのだが。

「実は借金があって」

嘘である。

「そうですか」

……。

「今度、合コンすることになった」

「死にたいならどうぞ」

……これは反応するんだ。

「えっと、仕事を辞めるってことは、これから先のことにも大きく影響すると思う」

「そうですね」

反応が薄い……。

「心配じゃないのか?」

「私と、お腹の子が無事なら問題無いです」

「誰の子だよ!?」

「あなたの子ですが? 未来の」

「未来かよ!」

「ですから、未来の私とあなたと子供が無事ならば問題無いです」

そういう……ことか。

「でも、しばらく無収入になったり、就職先によっては引っ越しする可能性もあるんだぞ?」

金の切れ目が縁の切れ目、なんて言ったりもするけれど、この二人に限っては、そんなことは当てまらないだろう。

ただ、離れて暮らすのは……。

「あなたのタマは我慢強い子ですが」

怒ったような顔で言う。

確かにお前は我慢強い子で、あの家でもずっと我慢してきたのは判っている。

でもだからこそ、俺がお前に我慢させていいのか、という思いはある。

かせにはなりたくないと言ったでしょう?」

その言葉の意味を、考えていた。

「負担にはなるかも知れないと言いました」

それも、考えていた。

枷は行動を制約することを意味するのだろうか。

負担は、経済的なことや精神的なことなど、解釈は広い。

「頭の悪い孝介さんに判りやすく例えるなら、あなたは好きな時に私を押し倒しても構いませんが、その代わり、体力や精力の負担になりますよ、ということです」

頭を叩かずに最後まで聞いてしまった。

「お姫様だっこしても駅弁スタイルでも高速ピストンしても構いませんが、その代わり、腰に負担がかかりますよ、ということです」

またツッコむのを忘れてしまった!

でも、何となく判った。

仕事や住む場所、つまりは俺の生き方を制約したくはない、ということだ。

でも、俺が二人と一緒にいることを望むなら、その分の負担はかけてしまうかも知れないと、そう言っているのだろう。

タマはさっき、自分を我慢強い子であると言った。

つまりそれは、俺が俺の望む方向へ進んでも、我慢するということだ。

しばらく会えなかったり、少しくらいの貧乏は、未来があるなら耐えられる、と言っているのだ。

未来の俺達が無事であるならば、それ以外は些末さまつなことだと。

タマ……。

「因みに、駅弁スタイルと高速ピストンの複合技は、腰に負担が大きすぎるのでお奨めしません」

「うっせーよ!」

……あ! 

ありがとうって言いたかったのに、ツッコまされてしまった……。

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