第22話 雨に濡れた汐音

 午後七時。


 浩輔は一人自室にいた。

 紺のスウェットというラフな格好で、ベッドの上に仰向けになってマンガを読んでいた。

 お風呂もご飯も食べ終え、宿題は寝る前にちゃちゃっと終わらせれば良い。


「このマンガはやっぱり面白ないな」


 きっと今頃汐音は龍次とパーリ―なことをしているのだろう。


 恋に青春を捧げる汐音。


 それはそれで良いと浩輔は思う。

 逆に浩輔は自分の好きなように、高校生という時間を過ごしている。

 親を見て思うのだが、とにかく大人には時間がない。


 残業なんて当たり前。


 こうして毎日同じ時間に早く帰ることができるのはきっと学生のときまでだろう。

 だからこそ、浩輔は今しかできないことをしてこの時間を謳歌している。


「ほぼ毎日のように木村先輩の家に行って、迷惑かけていないかな」


 それでも浩輔は兄として妹のことを心配している。


 汐音は性獣だ。


 きっと龍次が枯れるまで絞り尽くすだろう。

 それに万が一妊娠してしまったら大変だ。

 浩輔にもいろいろと心配事がある。

 浩輔が一人自室でマンガを読みながらくつろいでいると誰かが階段を上ってくる音が聞こえる。


 まず親はあり得ない。


 基本親は夜中の十一時以降にしか帰ってこない。


 なら汐音か。


 それもあり得ない。


 龍次の家に行ってこんな早い時間に帰ってきた日は一度もない。


 そうすると考えられるのは泥棒だ。

 しかし浩輔の家は一般的な庶民の家庭だ。

 金目のものなんてほとんどない。

 そう考えると背筋に脂っこい汗が流れる。


 ただの泥棒なら良い。

 もしナイフを持って襲って来たら。

 そこで浩輔の人生はおしまいだろう。

 この地球上にせいと受けてから十六年。

 あっという間の十六年だった。

 そしてついに、ドアノブが回される。

 念のため浩輔は両手を上げて降参のポーズをしておいた。

 浩輔だってまだ死にたくはない。


 そして、ドアが静かに開かれる。

 そこには雨に濡れた汐音がグッタリと立っていた。

 そのあまりにも非日常的な光景に、浩輔は最初反応することができなかった。

 帰ってくる時は雨なんて降っていなかった。


 きっと通り雨だろう。


 確かに雨が降る音が聞こえる。

 マンガに集中し笑っていた浩輔の耳には届かなかったのだ。


「汐音、どうしたんだよ、そんなびしょ濡れで。今日はもう帰ってきたのか」


 妹がこんなにも弱弱しい姿で帰ってきたのだ。

 いくら鈍感な浩輔でもこれが普通ではないということだけは分かる。


「……お……お兄ちゃん」


 汐音を抱きかかえると、汐音の体は雨に濡れたせいか冷たかった。

 汐音の顔は雨のせいか、それとも涙のせいが濡れていて、声も弱弱しく、今にもいなくなりそうな表情だった。


「どうした汐音。一体、なにがあったんだ」


 浩輔もこんな汐音の姿を見たことがなかったので、焦っていた。

 汐音は浩輔の質問に答えることなく、しくしくと泣き始める。


「……お兄ちゃん……お兄ちゃん」


 汐音はただ弱弱しく兄の名前を呼びだけで、なにも答えてくれなかった。


「とにかくこのままじゃ風邪を引く。お風呂に行くぞ」


 濡れたまま汐音を放置すれば風邪を引いてしまうだろう。

 今の汐音はかなり憔悴している。

 ここは一旦汐音を落ち着かせるためには温かいお風呂に入るのが一番良いだろう。

 汐音は歩く気力もなく、浩輔は汐音をおんぶして階段を下りた。


「……ゴメンねお兄ちゃん」

「僕は大丈夫だよ。それよりも汐音の方が心配だよ」

「……ゴメンねお兄ちゃん。せっかくお風呂に入ったのに」

「だから大丈夫だよ汐音」

「……ゴメンね……」


 汐音はなにに謝っているのか浩輔には分からなかった。

 浩輔は汐音に何度大丈夫だと伝えたが、汐音は泣き止まなかった。

 一体、木村家でなにが起こったのだろう。


 浩輔は全く予想ができなかった。


 だって龍次が汐音のことを傷つける姿など予想すらできなかったのだから。

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