第19話【優雅なひととき】

 カチャリと控えめに音を立てて、カップを置いた。僕は、読みかけの「空想の世界〜夢と現実のはざま物語〜」を手元に置き、視線を本に向ける。エドワードに入手してもらった本はもうしばらくお預けだ。

 僕は、彼女に逢おうと本を開いた。今日の彼女は、アクアリウムの前にいた。とても大きな水槽の前で描くようだ。魚の動きに苦戦する彼女を眺める。

 彼女は、苦戦しつつも楽しそうに描いていく。

そんな彼女の描写の一つ一つに、僕はのめり込んでいく。彼女の動作一つ一つが、僕を魅了していく。

 彼女は、大きな水槽の前にいるのに、まるで、水槽の中の魚のようにも思えた。そう、まるで人魚だ。自由に筆を走らせる彼女は、自由に水槽の中を泳いでいる魚のようにも感じた。


「人魚だ……」


 彼女は、優雅にスケッチブックの中を、アクアリウムの中を泳ぐ。なんて綺麗なのだろう。彼女は、本当に絵を描くことが好きなようだ。


「ふふっ」


 思わず、ニコニコしてしまう。だって、彼女が楽しそうなのだもの。魚への苦戦ですら、ダンスのアクセントのようだ。彼女はくるくると鉛筆や、絵筆を動かし、水槽とスケッチブックの中で踊る。

 僕の想像する彼女はきっと、優雅に今回の絵も描き切るだろう。

 本には、完成した絵の挿絵が描かれていた。青い水が静寂を、魚が躍動感を表すその絵は、僕を一瞬で虜にした。なんとなく、彼女が描いたように感じた。彼女が現実に描いたように感じた。彼女は、きっとこの世界にいるのだ。

 僕は、急に胸が高鳴るのを感じた。彼女が本当にいるとすれば、僕が彼女に会える可能性が出てくるのだ。そう考えるだけで、僕の心は色付いていく。まるで、彼女が僕に色を付けていくようだ。

 とても鮮やかに、そして生き生きとしたその色は、僕を高揚させていく。


「望。コーヒーのお替りはいるかね?」


 気付くと、カップは空になっていた。僕は、あっという間に飲み干すほどに高揚していたことに気付いて、深呼吸をした。一度落ち着こう。まだ彼女が実在していると断定できたわけではないのだ。挿絵は、それらしく、作者が描いただけかもしれない。

 僕は、深呼吸をして、三杯目のコーヒーを呼ばれた。風味は変わらず、ほのかに甘い。このほのかな甘さが、僕の脳を駆け巡る。僕は、その循環によって、さらに読書にふけることができる。


「望。もし糖分が必要であれば用意をするが、必要かね?」


「いえ、大丈夫です」


 僕は、視線を本に向けたまま返事をする。


「ほっほ。この子は、本当に本が好きなのじゃなあ」


 どこか少し遠くで、ロジャーの声が聞こえる。僕の耳には、何故か、アクアリウムの中の空気の動く音が聞こえている。


 ちりんっ


 チャーリーらしき、白い毛が、僕の左側の視界に入って来た。しかし、僕は本から目が離せない。


 ちりりんっ


 今度は、反対の視界にルーンらしき黒い毛の塊が入って来た。しかし、僕はやっぱり視線を本から離すことができない。本が僕を離さない。いや、彼女が僕を離さない。


「彼女と一緒に、このアクアリウムを眺めてみたいな」


 二つの毛玉に挟まれながら、僕は夢と現実のはざまに想いを馳せる。ところどころ、僕が今いる世界のように感じるこの世界は、彼女がいるだけで、一気に優雅に感じた。

 絵を描き終えた彼女は、ほっと息をつくように、彼女の世界の現実へと、戻っていった。


「望。そろそろ休憩してはどうかね? 以前のように、また倒れてもいけない」


「そうですね。ちょうどキリも良いので、休憩します」


「うむ。無理は良くないからの。コーヒーが冷めないうちに、少し休みなされ」


「はい」


 僕は、コーヒーを啜り、ほっと溜息をつく。本に夢中になっている間に緊張していたのか、コーヒーを一口飲むごとに、緊張がほぐれていく。

 緊張がほぐれるごとに、僕の頭脳が冷却していくような、僕自身の現実に帰ってくるような感覚がした。


「ふふ、チャーリーもルーンもありがとうね」


「「みゃおおん」」


 ハーモニーを奏でるように、二匹が返事をする。二匹の猫は、僕に構ってほしいのか、僕に体を擦り付けてくる。二匹のぬくもりが、僕をますますほぐしていく。

 温かいこの時間が、僕の心を満たしていく。


「おいしいですね」


 僕の言葉に、ロジャーもエドワードもニコニコしている。


「まだまだ作ることはできるから、遠慮なく言いたまえ」


「はい!」


「うむうむ、良い返事じゃ」


 僕達の時間は、まったりと過ぎていく。ぬくもりを纏いながら、優雅に過ぎていく。ここは、僕の新しい居場所なのだ。

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