第16話【一歩】

 僕はのんびりとした時間に揺られて、うとうとしていた。

 部屋では、レコードがかかっている。これは、ルイ・アームストロングの「Cabaret」だ。

 耳には心地の良いジャズに、満腹感。そして、目の前にはホットコーヒー。エドワードが淹れてくれたものだ。香りが鼻をくすぐる。


「なんて僕は幸せ者なのだろう……」


 今までは、決して良いとは感じなかった。無感情に生きていた。

 けれど、今は違う。僕には、エドワードとチャーリーがいる。どうして二人は、こんなにも僕に良くしてくれるのだろう。

 何度か疑問に思って訪ねてみようかとも思ったが、なんとなく怖くて訊くことができなかった。


「にゃおん」


 チャーリーが、僕にすり寄った。温かい。


「望、どうしたのだ? 何か不安なことでもあるのかね?」


「え?」


 表情に出ていたのだろうか? エドワードが、少し心配そうな顔をしている。


「いえ、ここにいる人が優しくしてくれることがありがたくて……。でも、どうしてこんなにも良くしてくれるのかなと考えてしまって……」


 僕は、思い切ってありのままを伝えてみた。


「なんだ、そんなことか。簡単なことだ。望が、今まで苦労してきたこと、頑張ってきたことを知っているからだ」


「え?」


 僕は、混乱した。僕の過去を知っている人なんて、この世界にはいないと思っていたから。


「どうして……」


 頭が追い付かない。どう考えても、僕は過去に彼らに会ったことはないのだから。


「簡単に話すと、君のことは、本で知っていた。なんたって、ここは【夢と現実のはざま】だからな。そして、望を見れば、一目瞭然でもある。まず、君はあまり口角を上げない。そして、服装。あとは、言葉遣いだ。すぐに謝る癖は、人の目を気にして生きてきた人に多い。君の両親は、君を大事にすることはなかった。君は、施設でも孤立していた。そこは、本で読んで知っていたが、一目見て確信した。望は、やはりここの世界にいるべきだと。君は今までよく耐えてきた」


 僕の頬に彗星が流れた。


「僕のことを、知ってくれている人がここにいたんだ……」


 僕の今までの努力を知ってくれている人がいた。それだけで十分だった。


「ありがとう」


 今の自分に精一杯できる限り口角を上げて、僕はお礼を言った。普段慣れない角度なだけに、ぎこちなかったかもしれない。


「お礼など必要ない。これは、望が努力してきた結果だ。君は、今まで十分頑張ってきた。今度は、好きなことをして生きるのだ」


 僕はこの人たちに何か恩返しがしたい。本気でそう思った。


「では、エドワードにお願いがあります」


「何かね?」


「僕にも家事をさせてください。皿洗いでも、料理でも、洗濯でも何でもします!」


「しかし……」


「良いんです! これが、僕のやりたいことの一つなんです!」


 僕は懇願した。確かに、読書は好きだ。しかし、体も動かさないと、体がなまってしまう。

集中して読書をするためにも、ある程度は体を動かすことも必要だ。


「ふむ……」


 エドワードは考え込む。チャーリーは、僕のそばからエドワードを見ていた。


「では、こうしよう。望には洗濯をしてもらうことにする。それで良いかね?」


「はい!」


「ふむ、今の笑顔が一番良い笑顔だな」


 エドワードが微笑んだ。


「にゃおん」


 チャーリーも嬉しそうに鳴いた。

 僕のできることが拡がった。なんだか大きな一歩を踏み出した気がした。

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