白い繭、或いは落下する蝶の見る夢

二枚貝

白い繭、或いは落下する蝶の見る夢

 遠く、クマゼミが鳴き始める七月の朝、白い繭から一糸纏わぬままの〈私〉が生まれ落ちる夢を見ました。真夏の廃墟、蔦に覆われたコンクリートの建物の奥に取り残された真っ白な繭の中に、私は存在していたのです。

 夢の中。けれど明確な意識の中で、私は繭の保温性に起因する暖かさと、繭を透過して私の角膜へと注ぎ込まれるかすかな光とを知覚しました。繭には少しの粘性があり、肌にはネバネバとした感触が伝わってくるのですが、全身を包む繭は非常に柔らかく、肌に伝わる感触はやがて心地の良いものへと変化していきます。数刻の後、狭い繭の中で私が感じたのは私と繭が同一の物体であるとすら思われるような、安心と停滞。

 私は少し右腕に力を込めて、手のひらで繭を押しました。力の加わった繭は呆気なく、数本の糸を引きながら音を立てて破れ、生じた繭の隙間からは日の光が差し込みます。更に力を加え、全身を動かすと繭には大きな穴が開き、私は体から糸を引かせながら外へと出ます。私の瞳に映ったのはコンクリートの廃墟。繭からの誕生、意識の形成、背中から不相応な蝶の羽を生やした私は、得たばかりの羽を失い現実へと目覚めます。

 時計を見ると時刻は昼過ぎだったのですが、部屋の窓にぶら下がった分厚いカーテンに遮られ、あまねく人々を照らし出すはずの夏の光はこの部屋にまで届きません。もう一度、この薄暗い部屋の中で怠惰な眠りに就こうかとも思われましたが、生憎ながら私は今日、恋人である男性とともに花火大会に赴かなければならないようでしたので、ゆっくりとベッドから立ち上がり、支度をします。



 街を流れる河川に沿って列をなす屋台の光の傍、絶えず流動する人々の群れと喧騒。眺める私は川の近くの公園であの人と並んでベンチに座っています。淡い花柄の浴衣を身に纏ってりんご飴を食べる私と、学校で起きた出来事などを熱心に語るあの人。私は適度に相槌を打って一定のペースで返事をするのですが、どうしてなのかそのお話はひどくつまらないのです。きっと、どれほどの歳月が経とうとあなたは私を理解できないし、私はあなたを理解できないのでしょう。私は甘ったるいりんご飴を齧りました。

 私がりんご飴を食べつくした頃、おびただしい数の人が公園の周辺に集まり始め、ざわざわとした気配をまき散らし始めました。どうやら、もうじき花火が打ち上がるようです。実のところ、私は人生において花火大会という催しと実際に接したことはありませんでしたので、これほどまでに人々を夢中にさせる打ち上げ花火という催しに幾らかの期待と好奇とを抱いていました。もうすぐだね、と笑うあの人と頷く私。聞こえるのは幾重もの人々の話し声。

 空を眺めて数秒。打ち上げられた花火は破裂音とともに夜空に花開いた後、闇の中へと吸い込まれ、漆黒の空へと消えていきます。色鮮やかであり、儚くもあるその光景は確かに美しく、情緒あふれる景色ではありました。けれども風景はどこか別の世界の出来事のようで現実感はなく、想像した通りの感動や喜びを私に与えるものではありませんでした。

 花火がすべて打ち上がった後、おびただしい数の人々の群れに混じって私たちは駅へと向かいます。その道中、駅への帰り道から川を挟んだ先にそびえるビルの隙間、光り輝く観覧車の姿が見えるとあの人は笑顔で言いました。

「また今度、あの観覧車に一緒に乗れたらいいね」

「はい、夜に乗ればきっと、綺麗な夜景が見られるのでしょうね」

私はそのように答えましたが、しかし、その約束が果たされることは決してないというような予感が胸の内を満たしていました。



その後、私はあの人と別れて一人で深夜の街を散策しました。暗闇だけが広がる河川敷と、狂気じみた輝きを見せる繁華街。閑散とした神社の鳥居と喧嘩をする中年男性、或いは辺りに捨てられたゴミや地面に寝転がる女性、空に浮かぶのは曇に覆われた半月。その後もしばらくの間、特に行く当てもなく足を歩ませていたのですが、ふと気が付くと私は見知らぬマンションの屋上、白い柵の外側にゆらゆらと、何をするでもなく立っていました。マンションの屋上の白い床に固定された踵と、はみ出て宙に浮いたままの爪先。半歩進めば落下するであろう生と死の間の数センチ、吹き抜ける生ぬるい風を全身に感じながら夜の街を見渡す私はただ、この光景の美しさを噛み締めるだけの肉塊。風でひらひらと揺れる私の浴衣、淀んだ空気と霞がかって見える遠くの夜景、宙に浮いているような心地と脳内に残った花火の残光、コンクリートの街。

 私は再び視線を移し、顔を真下へと向けます。地上はアスファルトの海、稀に通る乗用車の光。感じるのはただ足がすくむような高さ。しかし、不思議と恐怖は感じません。とても不思議ですね。私がもしここから落下すれば今この瞬間に私がこの世から消滅する一方で、私がここから落下しなければ私は恐らく誰かと結婚をして繰り返されるつまらない日常の中で苦しみを耐え忍び子供を作り老いて、いつの間にか死んで土に還って地獄か虚無へ。いずれにせよ、どうやら私は死ぬようです。

足を一歩進ませる勇気、それは飛び降りるという意志、私は重力という絶対的な理に従って下へ下へと落下します。ちゃんとできたよ、とあの日私を産んで喜んだ母に伝えたい。マンションの底から吹き上げる風と、現実感を喪失させる浮遊感。羽がないので私は蝶々にはなれないし空は飛べない。けれど薄れゆく意識の中で、私は白昼夢を見るのです。夢の中において私は蝶で、ひらひらと宙を舞う美しい姿。果たして今、地面へと垂直に落下する私が宙を舞う一匹の蝶の夢を見ているのでしょうか? それとも宙を舞う一匹の蝶が、屋上から飛び降りた私の夢を見ているのでしょうか? 或いは、今日私が見た花火も空中で踊る蝶が見た儚い夢なのかもしれません。風に煽られる浴衣、目前に迫る地面、答えのない問いを抱えたまま落下する私の体は空へと消えます。きっと目が覚めれば――

 暗転。

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白い繭、或いは落下する蝶の見る夢 二枚貝 @plantae-nelumbo

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