6.鳴らない電話、着れない洋服、或いは銀の燭台
46話 別に怒ってないから!
パリ五区にあるアパルトマンホテルに私たちは滞在していた。パリの中心部、セーヌ左岸に位置する俗にカルチェ・ラタンと呼ばれる場所である。セーヌ川の近くにホテルがあるので、窓からシテ島のノートルダム大聖堂が拝める。修復作業中で聖堂に入れないのは残念だけど、その荘厳なゴシック建築を毎日目に入れられるのはとても気分がいい。
この場所を選んだ理由は単純で、ルイ先生の家が五区にあるからだ。楽器だけ先生の家に置かせてもらい、毎日のように通って指導してもらっている。
私は着替えてから自分の寝室を出ると、彼は居間でテレビを見ていた。むきむきなおじさんたちが派手な競技用自転車に乗って、フランスの田舎道を疾走している。某感染症の影響で今年は一ヶ月ほど遅れて始まった自転車レースだ。彼はホテルにいるときは大抵その自転車レースの中継をじっと眺めていた。正直、私には何が面白いのかさっぱりわからなかった。そもそも彼にだってフランス語の実況が理解できるはずもなく、楽しめるとは思えない。かわいそうに、言葉がわからないからきっと他に見る番組もないのだ。
「ごめんね。旅行に誘ったのは私なのに、あなたを一人にしてしまって。退屈してるよね」
ソファに座る彼に声をかける。彼はテレビから目を離して振り向いた。
「退屈?」
「ええ、だって私ってば毎日レッスンばかりで、あなたの相手をしてあげてないから」
「いや、全く退屈してないんだが、むしろ楽しんでるな」
「へ?」
「毎日、エマがどこか観光に連れてってくれるし、ホテルではツール・ド・フランスがテレビでやってるし、それに……」
「それに?」
「飯が美味い。日本食や白米が恋しくなるんじゃないかと思っていたが、フランスの料理もパンも涙が出るくらい美味い。それに和食のレストランも普通にあるしな」
「ああ、それは同感ね。あなたが作ってくれたご飯も美味しかったわ」
ホテルの部屋には小さいけれどキッチンも付いている。マルシェで買ってきた食材で彼が簡単な料理を作ってくれたこともあった。
「だからな、俺のことは気にせず篠原はヴァイオリンに専念してくれ」
「そ、そう。あなたが満喫しているのなら、何よりなのだけど……」
どうしてだろう、彼が旅行を楽しんでくれているのに、ちっとも嬉しくなかった。私だってルイ先生の指導が受けられて、とても充実しているはずだ。だけど、私が思っていた旅とは少し違う気もする。
「ああ、でも一つだけ困ったことがあってな」
「あら、やっぱりそうよね。私で良ければ力になるわ。なんでも言って」
「ここのエレベーター、壊れているみたいなんだ。1階のボタンを押しても、2階に止まるんだよ」
「……そう、それは大変ね。でも私にはどうにもならないわ」
フランス全土のエレベーターがそうなのだから直しようがない。
「力になってくれるって言ったじゃないか」
彼が不服そうに言うので、仕方なく解決策を教える。
「エレベーターがダメなら階段を使えばいいじゃない」
それもそうだな、と彼は納得する。つくづく悩みの少ない男である。
「ユータ! おはよーございます!」
ノックの音と一緒にエマの快活な声が届いた。今日も懲りずに来たらしい。私がドアを開けると、天使みたいな笑顔の彼女がいた。彼女が両腕を広げるので、私は渋々ハグをする。私の首元にキスまでして、満足した彼女は今度は彼にも駆け寄って行こうとしたので、襟元を引っ掴んで阻止する。
「ミズキ? どうして止めるですか?」
「高槻くんは自転車を見るのに忙しいの。それより、あなた飽きずに毎朝くるけど、無理に来なくていいのよ」
「無理なんかしてないです。お家から近いですから」
「近いって、どこに住んでいるの?」
「サン・ルイ島です。目と鼻の先ですから」
「サン・ルイ島……あなたとんでもないところに住んでるわね」
サン・ルイ島はシテ島に並んでセーヌに浮かぶ小島だ。母はいまそこに暮らしているのか。パリは広いのに随分と近くにいたものだ。
「それで、今日はどこに行くつもりなの?」
この子には彼をキャバレーに連れ込もうとした前科があるのだ。油断ならない。
「そうですね……今日はヴィクトル・ユゴー記念館に行こうかと。それから、バスティーユ広場に行って、ああオペラ・バスティーユでオペラ鑑賞なんてどうでしょう?」
「ヴィクトル・ユゴー記念館? そんな場所があるのね」
ユゴーはフランスを代表する作家だ。「ノートルダムの鐘」や「レ・ミゼラブル」が特に有名だろう。いずれもパリを舞台にした小説だ。五区のパンテノンには彼のお墓がある。彼の記念館があるのなら私も行ってみたい。
「どうでしょうか、ユータ?」
「そのヴィクトル・ユゴーってのは誰だ?」
彼の返答に私もエマもガックリと肩を落とした。彼って本当に小説家の息子なんだろうか。ロードレース選手の名前は覚えているくせに、作家の名前は碌に知らないらしい。
「エマ、あなたのガイドもあいつには無駄みたいね。自転車のレースの方が面白いみたい」
「あ、そうでした! レース、どうなりました? 逃げは上手くいきましたか?」
「ああ、まだ先頭で粘ってるぞ。集団も追い上げてるが、これはもしかするかもしれないな」
「あのアシストの選手、彼ならやってくれますよ。彼はいつも良い仕事をしますから」
エマは彼と並んでソファに座り、テレビを食い入るように見始めた。私は会話に加わることもできずに側から眺めることしかできない。はいはい、私だってフランス人がサッカーボールより自転車が好きなことくらい知っていますとも。せいぜい、二人で楽しめばいいわ。
私は二人を見限って出かける準備を始める。身なりを整え、荷物を整えたところで、先生から電話がきた。なんでも急用があって出掛けることになったらしい。電話を切ると、二人はまだレースに熱中していた。私はリモコンでテレビの電源を消した。
「なんだ、停電か?」
「ああ、いいところなのに!」
二人の絶叫を尻目に私は咳払いをする。
「あれ、ミズキまだいたですか?」
「おい、エマ。篠原、怒ってるみたいだぞ。何かやらかしたか?」
「そんな。わたしは何もしてませんよ。ユータが怒らせたでしょう?」
また眉間に皺が寄るのが自分でもわかった。跡が残ったらどうしてくれるのか。
「私、別に怒ってないから!」
「いや、どう見ても怒ってるだろう」
彼につっこまれて、私は仕返しにリモコンを投げつける。
「今日のレッスンが休みになったの! だから私も観光に連れてって!」
これではまるで駄々をこねる子供みたいで恥ずかしい。それでも、仲間外れにされるのだけは嫌だった。
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