インターバル

45話 暗がりの少女たち

 君と私は全然違うように見えて、実は似たもの同士なんだと思う。君はそんなことないって否定するだろうけど、共通点だってちゃんとある。それは二人とも暗がりが好きなこと。


 暗室に入ると、酢酸のすえた匂いがする。私にとってそれが祖父の匂いだった。またこの部屋に入れたというだけでも嬉しかった。あと何回この部屋を使うことができるだろうか。あるいは、これが最後かもしれなかった。


 あの写真をもう一枚現像して欲しいと先輩に頼まれた。確かにネガさえあれば写真は何枚でも焼き増しできる。しかしそれはデジカメのデータをコピーするのとは訳が違う。現像のやり方次第で写真の出来栄えは変わるからだ。感光紙に露光させる時間、現像液に浸ける時間、使う道具によっても写真は微妙に変化する。カオス理論に則れば、まったく同じ写真を複製することは不可能だ。私にできるのは、少しでも良い写真に仕上げることだけ。


 手袋を嵌めて、預かったネガを引き伸ばし機に取り付けた。台座に感光紙を敷いて、レンズのピントを調節する。現像は一度撮った写真をもう一度撮影することに等しいと祖父は言っていた。先輩が捕まえた光を今度は私が解き放つのだ。ネガからポジへ。露光時間のあたりは前に現像した時に掴んでいる。タイマーが止まったあと、現像液に紙を浸した。腕時計で時間を見ながら、ここぞという時に停止液に移す。感光紙に付着した薬液が中和を始める。最後に水洗促進剤を使って表面の薬液を洗い流す。あとはクリップで紐に吊るして乾かすだけだ。


「やっぱり私はここが好きだよ」


 この暗がりにずっと潜んでいられたらどんなにいいだろうか。この窓のない小さな部屋で、停止液の匂いに包まれながら、世界から隠れ続けるんだ。


 薬液を片したあと、引き伸ばし機に埃除けのカヴァーを掛ける。祖父が昔に買ったそれは今ではもう売っていないらしい。壊れてしまえばそれまでだ。そういえば、これは映写機にも似ている。そんなことを考えてしまうのもきっと君のせいだ。





 夏休みの視聴覚室は誰にも侵し難いほど静かで、一人きりでいたい私には打って付けの場所だった。


 先輩たちは無事にパリに着いたはずだ。向こうは夜だろうから、今頃ホテルのベッドで疲れ果てて眠っているかもしれない。空港でちゃんと先輩に渡せて良かった。きっと先輩があれを私の思い出の街に運んでくれる。祖父に連れられて歩いたパリのパッサージュ・デ・パノラマ、あのガラス屋根から差し込む乾いた光に私の現像した写真も照らされるのだろうか。


「げ、なんで夏休みなのに塔子がここにいるんですか?」


 私のしみったれた感傷を見事によしのがぶち壊した。視聴覚室のドアから入ってきた彼女は外の蒸し暑さのせいか汗ばんでいて、ハンカチで首元を押さえている。


「よしのこそ、どうして来たのさ?」


「夏休みの映画館は混みますから、ここで一人優雅に映画鑑賞と思っていたんです。塔子がいるとわかっていたら来ませんでしたよ」


「映画? 何を見るの?」


「ふふ、パリに因んで『天井桟敷の人々』です」


「天井桟敷って、寺山の?」


「違いますよ、寺山がこの映画から名前を取ったんです」


「それは知らなかったな」


 よしのを手伝って、天井からスクリーンを下ろし、遮光カーテンで窓を塞ぐ。電灯を消して暗闇を作った。よしのはリモコンでプロジェクターの電源を入れる。間を置いて青い光がスクリーンを埋め尽くした。


 プレイヤーに映画のディスクを入れると、よしのはいつものように私の左に腰を下ろした。すぐに映画が始まると思っていたら、よしのはリモコンを握ったまま、ボタンを押さない。


「よしの?」


「……塔子って知らないふりしてるけど、本当は映画詳しいですよね?」


「どうしたの急に」


「篠原氏が塔子の家にも映画のビデオがたくさんあったと言ってました」

 

「……そう、まいったな。先輩も口が軽いね」


 私は両腕を真上に突き出して伸びをした。それからこっそりよしのを窺う。


「君に影響されたって言ったら笑う?」


 笑うどころか、よしのはそっぽを向いてしまった。暗くてその表情は知れない。


「モンマルトルにスティディオ28って映画館があるのは知ってる?」


「もちろん知ってますよ」


 ジャン・コクトーが『傑作の映画館、映画館の傑作』と評した場所があるのだ。


「お爺ちゃんに連れられてね、行ったことがあるんだ。今度一緒に行こうよ」


「今度って、フランスですよ?」


「たかがフランスだよ。今の時代、そう遠い場所でもないだろう。バイトができるようになったら、二人で旅費を稼げばいい」


「本気で言ってるんですか?」


「約束するよ。それでもし、そこに二人で行けたら、君の左側に座ってもいいだろうか」


 こんなこと目を合わせていたら、とても言えなかっただろう。


「そんな、どうして……」


 彼女の戸惑いが声だけでもわかる。ここまで言ってしまったらもう後には引けない。


「私、知ってるんだ。よしのが満席の劇場を嫌うのも。左隣に絶対誰も座らせないのも。その理由も。だから、だからさ……」


 我ながら本当にカッコ悪いな、気持ち悪いな。でも本音を言えば、こうなってしまうんだから仕様がない。本当の私は王子様なんて柄じゃないんだ。結局は暗がりに身を隠す一人の少女に過ぎない。


「今度は私がその席に座ってもいいかな?」


 緊張で昂ぶった声が私の口から飛び出していた。

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