白璃色の物語【短編・掌編集】

狛人 白璃ーコマビト ハクリー

未到達の私たち

 夢を追うなら、どんな夢を追いかけたい?

 そんなことを目の前の机に寝そべった真っ白な画用紙が私に問うてくる。

 もちろんそれは幻聴ですらない私の妄想なのだが、本当にこの画用紙が喋るようなことがあるならば、案外的を射ているんじゃないだろうかと思っている。

 高校の選択授業で取った美術の初回授業は、平凡極まりない内容だった。

 絵を描く。それだけ。

 特別何かを教えてくれるわけでもなく、ただ画用紙と画材を配られて課題を与えられた。

 与えられた課題は、『見たい景色を描く』。

 好きな景色ではなく、綺麗な景色でもなく、見える景色でもなく、見たい景色。

「曖昧過ぎて困る」

 呟きが聞こえてきた先に視線を送ると、隣の席の男子も私と同様に画用紙へ何を描くべきか分からないようだった。

 鉛筆を手に取ってみる。線を一本だけうすーく引いて、消した。

 絵の具を眺めてみる。私は青い色が好きだと再確認した。

 横を向いたり後ろを振り返ったりして教室を見回すと、何かを夢中に描いている人と、悩みながら描いたり消したりを繰り返している人と、描くのを諦めた人がいた。

 私はどうしよう。

 結局、簡単に描けそうだという理由で画用紙を藍色と黒を混ぜた色で塗りつぶし、白い絵の具で星空を書いた。


 ◆ ◆ ◆


 その授業から二ヶ月ほど経って、すっかりそんな授業をしたことなど忘れた頃。

 私は友人の家で、今まで得たことのない感動と体験をしていた。

「どう?」

「くっそ楽しい。やばい」

 私の返答に、二ヶ月前に友人になった深地ふかちは『当然』とでも言いたげに笑う。

「いいよね。音楽は。絵画もダンスも大道芸も写真も好きだけれど、ウチは音楽が一番好き」

「どうして?」

「ウチ自身が音楽に救われているからね」

「……」

 救われている。その妙に重い響きに何も言えなくなってしまう。深地が救われる必要があったことを私はこの時初めて知った。彼女はどこか飄々とした雰囲気と、周りと自分を切り離せる性格のおかげで、救われなければいけないほどの苦しみとは無縁だと勝手に思っていた。

 黙り込む私に、深地は続ける。

「もちろん、言語以外の言語はたくさんあるし、音楽じゃなくても良かったのかもしれないけれどね。でもウチは音楽に救われているし、音楽に救われて良かった」

「音楽が深地に合っていたんだね」

「はは。そうだね。その通りだ」

 そう言って心底楽しそうにカラカラと笑う。彼女が手に持っているアコースティックギターがその笑い声を内部で反響させた。

 深地とは二ヶ月前に知り合って、そのまま友人になった。クラスは違うが選択授業で彼女も美術を取っており、一心不乱に何かを描いていたのを見て、何を描いたのか気になり話し掛けたのが切っ掛けだった。

 そして、今日は初めて彼女の家に遊びに来ていた。

 そして、人生で初めて音楽の授業以外で楽器に触れている。

「これ、なんて楽器なの?」

 ついさっきまで私が演奏していた楽器の名前を訪ねる。

「ハンドパン。綺麗な音でしょ?」

「うん。とっても」

 金属製のどら焼きみたいな形をした楽器は、指の腹で叩くと鈴と鐘の良い所を集めたみたいな音がした。深海や森を舞台としたファンタジーを連想させるどこまでも響いていきそうな音は、今まで聴いたどんな音よりも神秘的という言葉がよく似合う。

「どこを叩いても音が外れないんだ。感覚だけで叩けば良いから、初心者でも簡単にそれなりのセッションが出来る。楽しいでしょ」

「楽しい!」

 深地のよく言う『言語以外の言語』によるコミュニケーションは、本当に心の底から楽しかった。アイコンタクト、ボディーランゲージ。それらを踏まえた上で、音楽を使い、相手の意思を読み取り、こちらの意思を伝える。意思が一致した瞬間の嬉しさと気持ちよさは、なかなか他で経験できるものではない。

「他にも色々あるから、興味があるものがあったら言ってよ。教えるから」

「ありがとう。でも今日はこれが良い」

 ハンドパンを撫でながら言う。深地の部屋には大小さまざまな楽器があるが、私はこの楽器をもっともっと演奏したかった。

「気に入ってくれたようでなによりだよ」

 嬉しそうに笑ってギターを爪弾く深地。それに合わせて、私もハンドパンを叩き始める。

 どちらともなく再開されたセッションは、その後夕暮れまで続いた。

 橙色の西日がスポットライトのように差し込む部屋で、ハンドパンを叩きながら考える。

 これがもっと大人数だったら?

 もっとたくさんの人に音が届いたら?

 思い出すのは、二ヶ月前の美術の時間。

 あの時の画用紙に、今度は答えられそうだ。

 単純かもしれない。たった一回の感動で本当に本気なのかと言われるだろう。

 だけど、やってみないことには、分からないことが多すぎる。

「ねぇ、深地」

「んー? なんだい?」

「音楽教えてよ。もっとさ」

「喜んで」

 そうして会話を交えながらこの場で生まれた音楽は、言うまでもなく最高だった。


 ◆ ◆ ◆


 結論から言おう。

 音楽を舐めていた。

「頭がぁああ……」

 深地の家で勉強中。知恵熱で頭痛まで併発してきた。

「言語以外だと言っても、言語は言語だからね。最低限の知識ぐらいは持っておかないと、同じ言語を使う人と会話が出来ないよー」

「うっ。まさか、授業より頭を使うことになるなんて……」

「そうだね。でも重要なのはそこじゃない。授業より頭を使えているという事実だよ。自分で学ぼうとしているからこそ、やらされている授業とは比べ物にならないくらい集中して頭を使えているんだ。それも無意識にね」

「あー……。それはなんとなく分かる……」

 私は音楽理論の本に突っ伏した。最低限の知識でさえ、ゼロから詰め込むとなるとその量は膨大だ。体感としては、すでに高校に入ってから授業で得た知識の三倍の量音楽の知識を飲み込んでいる。正直パンク寸前だった。

 でも、だからこそはっきり言える。

「楽しんでるなぁ。私」

「いいね。君は上達が早いよ。びっくりだ。好きこそ物の上手なれとはよく言ったものだね」

「セッションもソロも勉強もね、すっごく楽しい。色々貸してくれてありがとうね」

「どういたしまして。本は雑に扱ってもいいけど、ハンドパンはちゃんと手入れしてね」

「もちろん! しっかりと手入れしてるよ。それに……高すぎて雑になんて扱えない……」

 私は深地から音楽理論の本や、ハンドパンを借りている。本はともかく、ハンドパンの値段が想像の十倍を軽く超えた。流石に借りるのさえ遠慮したが、深地が『楽器は演奏されてこそだから』と貸してくれたのだ。値段が値段だけに、手入れも扱いも慎重に大切にしている。

「そう言えば」ふと思い出して訊いてみる。「あの時の絵、あれは何を描いたの?」

「あの時?」

「ほら、選択授業の最初」

「あー。あれか」

「うん。あの時は結局教えてくれなかったしさ」

 インクが水で滲むように曖昧になっていく記憶を辿れば、深地の絵はかなり独特だった。紙面の端ギリギリまで使って描かれた大きな円の中に、青と緑を乱雑に配置し、その上に黒い点をこれでもかと描いていた。正直ちょっと不気味だった記憶がある。

「あれ、なんだったと思う?」

「ゴキブリに侵略された地球」

「いや違うよ」

「コオロギに侵略された地球」

「違うのはそこじゃない」

「え? まさか火星だったの?」

「そんなわけあるか」

「あんな抽象的な絵で分かるわけないじゃーん。早く答え教えてー」

 言うと深地は、一瞬だけ迷うように上を見上げ、静かに息を吐いてから答える。

「音楽だけになればいいなと思って」

 ほんの少し、悲しそうに言った。

「あれね、地球の上に音符を描きまくったんだ。言葉なんてどうでもいい。音楽だけで会話できればいいのにって」

 語り始めるのは、音楽に救われていると言っている深地の、救われた部分。

「昔から何度もあった。喧嘩した時、何かを願う時、言葉を使って意思を伝えようとしても、相手がそれを聞いてくれない。言葉ほど無力なものは無かった。言葉は道具だ。意思を伝えるためのね。でも、それじゃ気持ちも、感情も、全然伝わらなかった」

 彼女は傍に置いてあるギターの弦を弾く。その表情が少しだけ柔らかく綻ぶ。

「もちろん音楽も道具だよ。だけど、これは意思じゃなくて、感情を伝えられる。耳に入れば否応無く、感情をそのまま伝えられる」

 表情は陰る。何を思い出しているのか、彼女は眉根を寄せて、しばしの無言となる。視線はギターだけを見つめ、愛おしそうにボディを撫でている。

 一分ほどだろうか。沈黙が終わり、顔を上げた深地はいっそ晴れやかに笑う。

「だから、言葉じゃなくて、音楽だけで会話できるようになれば良いのにって、無理だって分かっているけれど、そうなったら素敵だなって。見たい景色を描いたんだ」

「なんで無理って決めつけているの?」

「え?」

 らしくない。それじゃあ、つまらない。

「やろうよ。目指そうよ」

「いや、いやいやいや」

「無理って決めつけて動かないならずーっとそのままだけど、出来るって信じて努力すれば、少なからずそっちに進むよ。確かに達成は出来ないかもしれない。でも、何もしないよりも望んだ未来が近付くなら、努力する以外に道はないよね?」

 深地は口を開けて、心底驚いたように私を見ていた。呼吸の仕方を忘れた子犬みたいだ。

「決めた。私はハンドパンのプロ奏者になる。そんで世界一のハンドパン奏者になる。頑張るし、努力もする。そうすればどんどん上手くなれる。でも、絶対に無理だって決めつけて努力することもやめたら、私は一生今のまま。それと一緒でしょ? スケールが違うけどそういう話でしょ?」

 深地はなおも口を開けたままだ。せっかくなので、深地の見たい景色を少し見せてあげることにした。ハンドパンを手に取り、演奏を始める。

 私は、ただ無言で音楽を奏でる。

 彼女は意図を察したのか、吹き出して笑った。私も嬉しくなって、笑うように音を鳴らす。

「そうだね。その通りだ。やることは簡単で、シンプルで、こういう時に馬鹿は強いね」

 馬鹿とは何事なのか。いいからさっさとギターを手に取って欲しいものだ。

「はいはい。分かったよ」

 表情からか、音からか、深地は私の言いたいことを器用に読み取ってギターを手に取り、チューニングを始める。待っている間、退屈そうな演奏をしていたら、深地は見たことない表情で微笑んでいた。

 ギターの音が鳴る。ナイロン製の弦が柔らかい音でハンドパンの硬質な音を装飾する。

 望んだ場所があるなら、そこを目指して進む以外に近付く方法は無い。

 やれば出来るとは言わないけれど、やらなきゃ出来ないことは分かっているんだから。

 気分は世界一の演奏家。

 私たちは、音楽で会話する。

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