9.定年説明

「では、以上で定年退職の説明を終わります。――なにかご質問はありますか?」


 午後。私は川嶋さんにくっついて退職説明の場に同席していた。

 打ち合わせ室で三人きり。雰囲気はとても和やかだった。


「特にねぇよ。ありがとな」


 ダルマ工業では従業員が60歳に到達した月の月末に定年退職することになっている。大抵の人は定年後も継続雇用を希望し、65歳まで勤務することが多いのだけど、今回は違った。


茂木もぎさんほどの技術者が退職しちゃうなんて会社としては損失です」


「いやぁ、かれこれ四十年も働き詰めだったんでね、残りの人生はゆっくり畑仕事でもしようと思ってたんだ」


 髪に白いものが混じる茂木さんは顔に刻まれた皺を優しくほころばせた。

 高校卒業後に製造部門に入社し、60歳までダルマ工業一筋で勤めてきたのだ。


「たしか去年お孫さんも生まれたんですよね」


「あぁ娘も職場復帰するって言うからよ、オレが面倒見なくちゃならねぇよな」


「大変ですよぉきっと」


「娘んときは母ちゃんに任せっぱなしだったからよ、ここらで手伝わねぇと一生恨まれちまう」


 なごやかに言葉を交わす茂木さんにはなんの陰りもない。

 誇りをもって続けてきた仕事をやり遂げた達成感があるのだろう。


「退職は七月末ですけど、有給休暇はほとんど消化しないんですよね?」


 退職者は残った有給休暇をほぼ消化して辞めていくことが多いけど、茂木さんはほぼ全日出勤する。


「そうだ。新人の四ノ宮に教えておかなくちゃいけないことが山ほどあるからな」


「程々にしておいてくださいね。ではこれで終わりです。ありがとうございました」


「ありがとな」


 互いに頭を下げ、立ち上がった茂木さんは足を引きずるように打ち合わせ室を出ていく。その姿を見送ってから川嶋さんが私に向き直った。


「さて、いまので大体の流れは分かった?」


「はい。退職金の振込と保険証の回収、あとは退職後の健康保険が任意か扶養か国保かを確認するんですね」


「それだけじゃないわよ。もしお給料から天引きになっている生命保険や自動車保険、あるいは財形があったら各自解約してもらうようお願いするの。退職したらお給料は出ないんだからね。あともうひとつ大事なのは?」


「えー……と、あ、住民税!」


「そう。一括徴収か普通徴収かで扱いが変わるからね。ちなみに一月以降の退職なら一括徴収することが義務付けられているからね」


「メモします!」


 退職なんて簡単にできると思っていたけど覚えることがたくさんあるなぁ。

 私が退職したときも誰かがこうして手続きをしてくれたのだ。


「あとは離職票の有無ね。次の仕事が決まっていない人が失業保険をもらうために離職票を作ってあげないといけないの」


「私もお世話になりました。会社都合か自己都合かで待機期間が変わるんですよね」


「そう。次の仕事が決まっている人は必要ないんだけど、転職する人の場合、さりげなくどこに行くのか聞くこともあるわ。大きな声では言えないけど競合先に行かれたら困るもの」


 パッと思い浮かんだのは草壁さんだ。

 彼はなんと言って辞めてきたのだろう。


「入社時に誓約書を書きますよね? それを破って競合他社に転職したらなにかペナルティを与えられるんですか?」


「程度によるとしか言えないわね。法律上は職業選択の自由があるし、前職でも経験や知識を活かす転職は当たり前だし、前の会社の機密を漏洩して損害を与えたとかでないと訴えるのは難しいと思う」


「モラルを守るってことですね」


「そういうこと。社内恋愛も節度を守ってね」


 川嶋さんがにやりと笑った。

 本気で意味が分からなくて反応が遅れる。


「……もしかして私に言ってるんですか?」


「またまたぁ、他に誰がいるの? 壁? 床? もしかして天井? 」


「私は別に草壁さんのこと好きじゃないですよ」


「あら草壁くんの方? てっきり四ノ宮くんの方だと思ったのに」


「どっちも同じです。ただの同期でそれ以上でもそれ以下でもありません!」


 私があまりにムキになったせいだろうか、総務に戻るまで川嶋さんは何度も「ごめん」と謝ってくれたけれど顔はずっとニヤニヤしていた。まったく、失礼しちゃうます。



 ※



 夜、スーパーで買い物してから帰宅すると二〇一号室の電気は消えていた。今日も残業しているのだろうか。毎日毎日大変だ。


 買い物袋を手に階段をあがって二〇二号室の鍵を開けたとき、ドアの隙間から一枚の紙がはらりと落ちた。中に荷物を置いてから拾い上げる。パッと目についたのは覚えのあるダルマのロゴ。当社うちのノベルティでもあるメモ帳だ。


「帰ったら連絡をくれ。番号は〇九〇……なにこれ名前も書いてないし」


 ものすごく怪しい。

 怪しいけれどダルマのロゴだ。つまり社内の人間。


 もしや、と思いつつ隣の二〇一号室の扉を凝視してしまった。


 悩んでも仕方ないので一か八か電話をかけてみた。

 これでまったく知らない人が出たらどうしよう、とコール音を聞きながら後悔したけどもう遅い。


 コール音が響く。結構長い。

 十数秒待って、もういい加減切ろうと思ったとき相手につながった。


『もしもし』


 低い声。

 でも恐らく草壁さんだ。


「あ、松井です。メモがあったので電話したのですが、なんの用事で」


『帰ったのか?』


 人の話を聞いてよ。


「えぇそうです。いま部屋の前にいます。草壁さんはどこに――」


 ガチャン!と派手な音を立てて扉が開いたので心臓が止まりそうになった。

 隣の二〇一号室から姿を見せた草壁さんは大股で近づいてくるなり私の鼻先にあるものを突きつける。


「やる」


「――え、これ、めちゃくちゃ高いケーキじゃないですか!? 一つ八百円以上するんですよ!」


「この前のお詫びと車で送ってもらったお礼だ」


「はぁ……」


 呆れてものが言えない。

 この人、もしかして異性とお付き合いしたことがないのかな。


 と同時に、とてつもなく可笑しくなってきた。

 この人、こんな仏頂面でケーキ屋さんに入ったの?


「なんでそんなに笑うんだ?」


「なんでもないです。これはありがたく頂きますね。これで晴れてノーサイドです」


「じゃあな」


 用件は済んだとばかりに回れ右。くしゅん、と小さくくしゃみをした。

 鼻をすする彼の後頭部の毛が反りかえっているのは変な体勢で寝ていたからかな。だから電気ついていなかったんだ。


「あ、あの!」


「なんだ?」


 思わず声をかけたものの、その先はなにも考えていなかった。


 下の名前を教えてください、では唐突すぎるし。

 また明日、だと約束をするみたいで変だし。


 私たちの間に妙な空気が漂った。

 意を決し、いまもらったばかりの紙袋を掲げる。


「もしよければ――一緒に食べませんか?」


 あぁ自分のバカ。と後悔するも遅かった。



 ※



 結局、こういうことになってしまった。


「煎茶と紅茶、どっちがいいですか?」


「手間のかからない方でいい」


「じゃあ煎茶のティーパックにしますね。お湯が沸くまで待っていてください」


 ヤカンに入れた水をコンロにかけながら「なんでこうなった」と自問自答した。

 いくら美味しそうなケーキだからって六個も入っていては食べきれない。川嶋さんには及ばないとしても私だって痩せたい、と変なことを考えたせいでこんなことになってしまったのだ。


(でもまさか来るとは思わなかった)


 勢いで誘ってしまったのは自分だけど「じゃあお言葉に甘えて」と乗ってくるとは想像だにしなかった。


 1Kの部屋の真ん中にこたつ机が置いてあり、テーブルの上に先ほどもらったケーキの箱を広げている。草壁さんはきちんと正座した、ぼんやりと視線を漂わせている。


「ダルマ、好きなんだな。いっぱい飾ってある。たしか入社式でも言ってたな」


「好きなんです。このフォルム。落ち着くっていうか、癒やされるので」


 窓際や本棚の上に飾ってあるダルマは毎年ダルマ市で買い求めたものだ。色や大きさも様々で願い事も異なる。

 最初から好きだったわけではなく、母の地元なので毎年遊びに行くうちに自然と数が集まるようになり、いまでは楽しみなイベントと化している。


「毎年ひとつずつ買って願い事を込めるんですけど、まだほとんど叶っていないんですよ。だから増える一方。あ、でも無事に就職できたので金色の子は来年卒業ですね」


 就職先が「ダルマ工業」だったのは縁かもしれない。


「そういえば草壁さんはどちらのご出身ですか?」


「生まれは東京の田舎の方だ。中学卒業前に父親が死んで、母親の実家があるこっちに来た。高等専門学校に通い、そのまま大学に進学して就職もした。父親の墓は向こうにあるけどもう何年も行ってない」


 淡々と語られる過去が静かに胸に響いた。


 一見、総務は膨大な個人情報を目にすることができるように思うけれど履歴書を見ただけではその内情までは分からない。

 そこは一対一でのやりとり。一歩踏み込んだ人間関係の中でしか得られないものだ。


 ちょうどお湯が沸騰してヤカンから湯気が出てきた。

 二つのマグカップに煎茶を入れて運んでいく。


 時刻は七時前。


「夕飯前にケーキ食べたらお腹いっぱいになっちゃいますかね」


 なんて笑ってみたら「俺は夕飯食べないから」とケーキに手を伸ばしていた。


「あ、モンブラン。私が食べたかったのに」


「ショートケーキを譲ってやったつもりなんだけどな」


「じゃあ半分こにしましょう」


 口をつけていないところを半分に切ってお互いにシェアした。


「いただいたものですけど、もし他に食べたいものあれば持ち帰ってください。私ぜんぶは食べられないと思うので」


「四ノ宮や森本と食べればいいじゃないか。仲良いんだろ」


「会社の冷蔵庫は小さいから入らないですよ。来客用のコーヒー豆やガムシロップを保存しておくためなんです」


「ちょっとくらい溶けていても気にしないだろ、あいつらは」


 「あいつら」という言い方に愛着を感じる。

 草壁さんも二人のことちゃんと同期だと思っているんだ。


「最近はお仕事どうですか? 今日も早かったんですね」


「海外の案件かひとつ終わったら手が空いたんだ。また近々顧客がくるから忙しくなるだろうけど」


「なんだか大ベテランみたいですね。とても入社三ヶ月の新人とは思えません」


「ま、中途だからな。松井たちとは重ねた年月が違うんだよ」


「失礼ですね。私だって一年――――あっ」


 うっかり第二新卒だと口を滑らせそうになった。

 べつに隠しているわけじゃないんだけどそれを初めて明かすのが草壁さんでいいのかなと思ってしまったの。どうせなら同期の飲み会なんかで「じつはー」って笑い話にしたい。


「草壁さん、今度飲み会しませんか? 四人で、同期会」


 これまでは四ノ宮くんが何度誘っても断られていた。

 でもいまなら。


 草壁さんは無言のままケーキを口に運ぶ。

 こうして見ると口元きれいだな。歯並びもしっかりしているし。


「……考えとく」


 残りのケーキを二口ほどで一気に飲み込み、食器を下げてくれた。袖をまくったので慌てて声をかける。


「そのままで結構です。私が洗っておきますから」


「そうか。じゃあ任せた。ごちそうさま」


 と頭を下げて部屋を出ていった。


 なんだかあっという間で、夢みたいな時間だった。

 草壁さんが使った食器を洗いながら「これで食べていたのか」と変な気持ちになる。

 どうしてだろう。恋愛沙汰はもう懲り懲りなのに、草壁さんのことが頭から離れない。


(――あ、下の名前聞き忘れた)

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