8.お隣さん

 信じられない。

 信じられないけれど草壁さんは二〇一号室の鍵を持っていて、ガチャリと鍵を解いた。


「松井が隣? へぇ、俺もついてないな」


 当の本人は半笑いで嫌味を言い室内へと入っていく。そこはもうちょっとリアクションがあるんじゃないの。そこは「迷惑掛けるけどよろしく」じゃないの。


 あぁもう、なんだか自分ひとりで騒いで疲れちゃった。もう早く寝たい。

 ごそごそと自分の部屋の鍵を探していると前触れもなく二〇一号室の扉が開いた。草壁さんが紙袋を手に現れる。


「松井、ちょっと待て」


「な、なんですか」


 急に名前を呼ばれたせいか金縛りみたいに動けない。

 どうしたっていうの、私。


「ほら、コレ」


「なんですか。この袋」


「いいから」


 押しつけられるまま手に握らされる。ずしりと重い。

 一体なんだろう。もしかしてお詫びのお菓子、準備していたの?


「い、言っておきますけどね、こんなもの渡された……って……ちょっと! これ私が郵便受けに入れておいた洗剤じゃないですか!!」


 見ればおひさま印の洗剤が未開封のままぞんざいに入れられていた。

 草壁さんはケロッとしている。


「だって俺の使ってるメーカーじゃねぇし。違う匂いがついたらイヤだからな」


「あーそーですかーすいませんねー!!」


 愛用のメーカーなんて知るかそんなもの。

 いらないなら人にあげるなりバザーにでも出しておけばいいのに。


 用件はそれだけだったらしく、草壁さんはあっさりと背中を向ける。けれどなにかを思い出したように振り返った。


「そう言えばよく部屋の中でキャーとかワーとか叫んでいるけど夜くらいは静かにしろ」


「……は?」


「あと鼻歌ももう少し抑えめに。うるさい」


「はぁ!?」


「あとイビキ。一度耳鼻科にかかった方がいいぞ」


 言いたいだけ言ってその背中は二〇一号室に消えた。

 夜風が急に冷たく感じる。

 私、トースターを焦がしたりお皿を落としたりしたときに叫んでるよね。料理や掃除中は鼻歌口ずさんでいるし、お笑い番組を見て大笑いしていることもある。

 それが全部筒抜けだったってこと?


(ちょっと待って……)


 もしかして入浴中のひとりカラオケ大会も――……。


(うわぁああああ)


 体の底から這い上がってきたのはこの上ない恥ずかしさ。

 しかもイビキ? イビキですって?

 私イビキなんてかいてたの? 毎晩毎晩聞かれていたの?


(信じられない)


 あまりにもいろんなショックが重なりすぎて自分の部屋に入った瞬間に膝をついてしまった。この怒り、どうしてくれようか。

 やっぱりキライだ、あんな人。


 とりあえず――――耳鼻科予約しよう。



 ※



「それでそれで? どうなったの?」


 昼休みは女性職員にとってトークに花を咲かせる癒やしの時間だ。

 女性職員は食堂内のそれぞれのテーブルで同期や仲の良い人とお弁当を囲んでいて、私は川嶋さんのグループに混ぜてもらっている。


 「草壁さんがアパートのお隣さんだった」という情報に大笑いしているのは向かい席の川嶋さん。


「なにもないです。部屋に入ったあと怒りに任せて洗剤を放り投げたら中身が散乱しちゃって、掃除機を使ったら隣から嫌味を言われそうだったのでガムテープで律儀に回収したくらいですよ」


「あぁそれは災難だったわね」


 壁一枚隔てた向こうに「彼」がいると分かった以上、意識せざるをえなくなった。


 たとえばトイレ。どきどきしながら水洗ボタンを押した。

 たとえばお風呂。なるべく水音を立てないよう入浴したり髪を洗ったりした。

 うるさいって言われそうだから朝だって目覚ましを秒で止めたし、朝ごはん作るのに換気扇も回さなかった。


「だからカーディガンから美味しそうな匂いがするのね」


 と川嶋さんが笑ったので自分でくんくん嗅いでみた。うわっ、焼き魚の臭いがする。私こんな状態でお客さんに応対していたの? 最悪だ……。


「それにしてもすごい偶然よねー。草壁くんは帰宅時間が遅いからこれまで一度も出くわさなかったのも面白いし」


「……もしかして川嶋さん知ってました?」


「まさかぁ。人事システムに依子ちゃんの住所を入力したときに『なんだか見覚えがあるアパート名だなー』と思っただけよ」


 必死にごまかそうとしているけど顔がにやけていますよ。


「災難ですね。なんなら引っ越した方がいいんじゃないですか」


 さっちゃんは相変わらずの毒舌だ。見た目は可愛いのにな。


「車買わずに毎日タクシー通勤だし、飲み会に誘っても一度も顔出さない。休みの日だってなにしているのかサッパリ分からない。謎です。そもそも名前。下の名前をなんて読むのか何回聞いても教えてくれないんですよ。あたしたち同期なのに」


 たしかに「也興」ってなんて読むんだろう。

 人事システムを見れば一目瞭然だろうけど。

 あとで見てみよう、などと考えていたら川嶋さんが身を乗り出してきた。


「依子ちゃん、いまシステムで盗み見しようって思ったでしょう」


「なんで分かるんですか!?」


 心を読まれた。

 どきどきする私を尻目に川嶋さんは優雅に豆乳プリンを頬張る。


「わたしも同じことしようと思ったから」


「えー」


「言われるまで気にも留めていなかったけど、確かに気になるじゃない。だからわたしはシステムで効率的に確認する。だけど依子ちゃんはダメ。本人から直接聞きなさい」


 あの草壁さんから名前を聞く?

 そんなことできるわけない。


「総務はね、苦手な相手とのコミュニケーションこそ大事なの。敵と思っていた相手が案外心強い味方になってくれたりするんだから」


 笑顔で丸め込まれそうになる。

 すかさずさっちゃんが突っ込みを入れた。


「先輩、そういうのパワハラっていうんじゃありません?」


「なんで? 先輩からの愛のこもった指導じゃない。それになんでもかんでも「ハラ」ってつければいいってもんじゃないのよ。そういうのハラスメントハラスメント――略してハラ・ハラって言うんだから」


「ま、名前がなんであれあたしは「ヤツ」って呼びますけどね」


 と、さっちゃんは男前に牛乳パックを飲み干した。そこへ油まみれの人影が駆け寄ってくる。


「よりちゃーん、お弁当余ってない?」


「あ、四ノ宮くん」


 名前を呼んだ途端さっちゃんの体がびくっと揺れた。背中を丸くし、気配を消すように粛々とお弁当に手をつける。


「今日注文忘れててさ。あ、さっちょんじゃん。相変わらず美味しそうな弁当だね」


 同期なので親しいのは当たり前だけど、さっちゃんは顔を背けたまま黙々と箸を動かしている。


「無視するなよぉ、さっちょんー」


「無視なんてしていません。その変な呼び方やめてください」


 私が知る二人の関係はいつもこんな感じだ。

 全力で構って欲しい四ノ宮くんとあからさまに無視するさっちゃん。


「四ノ宮くん、予備のお弁当が余っているからどうぞ」


「わーい、いただきます」


 とお弁当箱を抱えて去って行く。

 彼が仲間たちとお弁当を囲んだのを見ていると横から肩を叩かれた。「もう行きました?」とさっちゃんが訊いてくる。


「うん行ったよ。さっちゃんどうしたの? 顔赤いよ」


「……なんでもないです」


 ぷいっと顔を背けてしまう。かわりに川嶋さんはニヤニヤが止まらないみたいだ。


「なるほどーそういうことかー分かりやすいね森本さんはー」


「ちょ、なに言ってるんですか川嶋さん。あたしはべつに――あ、ヤツですよ」


 さっちゃんが肘でつついてきた。

 なんだか無理やり話題をそらそうとしているようにも見えるけど、咄嗟に反応して振り返ってしまった。食堂に入ってくる草壁さんの姿が映る。


 なんとはなしに見つめていると一瞬目が合った。


(ひゃっ)


 「またなにか言われる」と緊張する私の目の前を通りすぎ、奥にある自販機でコーヒーをひとつ買ってさっさと出ていく。


 なにも言われなかったしなにもされなかった。

 それなのに心臓がどきどきしている。なんでだろう。


 昼休み終了五分前のチャイムが鳴った。

 川嶋さんはうーんと大きく背伸びしてからゆっくりと立ち上がる。


「さ、依子ちゃん気合い入れて午後の仕事しましょうか。草壁くんほどじゃないけどイケメンのオジサマが待ってるわよ」


 ――オジサマってだれ? なんで草壁さんが引き合いに?

 私の頭の中はクエスチョンだらけなのだった。

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