7.後部座席へどうぞ
翌週の水曜日も雨だった。
雨の日は靴が濡れるし水たまりを跳ね飛ばすと車が汚れるから好きじゃない。
――でも。
五時半に仕事を終えて通用口へ向かうと大きな背中が立ちふさがっていた。雨どいからポタポタと滴る水を眺めている。
「そこ濡れますよ」
後ろから背伸びして傘を差し掛けてあげると、彼はのっそりと振り返る。
「あぁ悪いな」
「うわっ、草壁さんが素直に謝ることなんてあるんですね」
思ったことがつい口に出てしまった。
相手はむっとしたように唇を結ぶ。
「まだあのこと根に持っているのか」
「そうですよ、トラウマになっているんです。根に持つなという方が無理じゃないですか」
我ながら執念深い人間だ。
「……ま、そりゃそうだろうな」
草壁さんが笑った。
ほんの一瞬だけど。
一瞬なのに、どきって、した。
「松井、傘立ての整理をしてくれているんだってな。部署の奴らが感心していたよ」
あれから私は美化活動の一環として傘立ての整理を総務課長に提案した。ついでに三十分早く出勤して通用口の掃除もすると申し出たら、それは早出になるから週に一度だけ時差出勤で対応していいとお墨付きをもらった。
「数ヶ月でもこうしていれば皆さんに美化意識が芽生えると思ったんです。私は顔と名前を覚えられるし、顔を覚えてもらいやすくなる。一挙両得だと思いません?」
「ほんと総務って余計な仕事ばっかり増やすよな」
「いいじゃないですか。時差出勤だから残業代も発生しないし」
「ま、いいんじゃないか」
まただ。
笑った。
「どうしても許してほしいならパイナップル飴じゃなくてケーキおごってください。不二屋の生クリームたっぷりのイチゴショート」
「太るぞ」
「糖分が必要なんですよ、給与計算覚えるの大変なんです。来月はボーナスもありますし」
「うわスゲー不安。今度から明細ちゃんと見るようにしないとな」
「失礼な!」
あぁまったく、素直じゃないなぁ。私ってやつは。
「ありがとう」「今度お礼させてください」と言いたいだけなのに。
「タクシーもう呼んだんですか?」
「いや。雨が好きで、ぼーっと眺めていただけだ。これから電話する」
「なら途中まで送って行きますよ」
「いいのか?」
「はい。ただし後部座席ですからね、変な誤解されたら困りますもん」
大事な社員を送り届けるのも総務の大切な仕事だ。残業手当はつかないけれど。
草壁さんはカバンから折りたたみの傘を取りだし、私と肩を並べて歩いてくれた。脚の長さや歩幅が全然違うのにこちらにあわせてくれているのが分かる。
砂利の駐車場の一番端に停めてあるピンク色のラパンが私の車だ。学生時代に身分証明がわりに免許はとっていたけどこれまでずっと車がいらない場所に住んでいたから、父に借金をして一括で購入したのだ。もちろん新車。
「ちょっと待ってくださいね。後部座席のビニールシートまだ外してなくて。足元の紙も納車時のままで」
「車を汚したくないだろ。どうせ雨で汚れているしこのまま乗る。先に乗れよ」
そう言って私が濡れないようにと傘を傾けて待ってくれる。
閉じようとした私の傘と傘が触れあった。ぽん、って私の心も跳ねる。
だめだ。意識しすぎ。
「そ、そういえばお家はどこですか? そんなに遠くなければ玄関先まで送りますよ」
長い手足を折りたたんで窮屈そうに後部座席に収まっている草壁さん。バックミラーごしに見るとなんだかとても変な感じだ。
「駅までいかない。三丁目の信号分かるか。そこを通り過ぎてから少しいったところだ」
「分かりました。指示してください」
そう告げて車のエンジンをかけた。家族以外の人間を乗せるのは初めてで少し緊張する。ハンドルを握る手が汗ばみ、いつもより慎重にアクセルやブレーキの操作をした。
「そこを左。直進してトンネルを抜けたら左だ」
「は、はい」
信号やカーブの手前では減速、スピードは五十キロ。
「着いたぞ。サンキュな」
「……ここって」
到着したのは木造二階建てのアパート『コーポ木蓮』。
私の住んでいるところだ。
「本当に、本当にここでいいんですか?」
「ああ。二〇一号室が俺の部屋だ」
二〇一号室。
もしかしてもしかしなくても。
「うそ……でしょう……?」
私はエンジンを切るのも忘れて叫んでいた。
「お隣さん!!??」
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