3.トラウマ

 事務棟を抜けると来客用の正面玄関。訪問客の目に付くところには商品のサンプルが陳列され、反対側には食堂へ続く階段が伸びている。

 そこを抜けるとテーブルと椅子が並んだだけの応接スペースが視界に入る。応接室を確保するほどでもないちょっとした打ち合わせや身内でのミーティングはここでする。ただし声は筒抜けなので注意が必要。


 応接スペースを横目に進めば、外部の清掃業者によって隅々まで磨かれたまっ白な壁や天井が目に飛び込んでくる。AEDや火災報知機の赤さが異様に映える。渡り廊下を進んだ先が技術棟だ。


「失礼しまー……す」


 なるべく物音を立てないよう扉を開け、同じくそぉっと閉める。ここには五十人ほどの設計者が在籍し、機械や金型の設計を行っている――のだけれど、あまりにも静かだ。

 事務や営業のフロアは常に人の出入りがあり、あちこちで話し声や電話が鳴っていたりするのに、ここは人の気配がほとんどない。電話どころか話し声ひとつせず、時々カチリカチリとマウスやキーボードを打つ音だけが響く。


 真剣な表情でパソコンとにらみあっている彼らは私の存在にもまるで気づかない。必然的に忍び足になり、まるでかくれんぼでもしている気分だ。


 私は入口から少し入ったところにいるはずの古田さんを目指した。

 技術棟で事務をしている古田清美さんはもうすぐ五十を迎える大ベテランだ。お局さんのような意地悪さは微塵もなく、ふくよかな顔でいつもニコニコしている。お菓子が大好きで、制服のポケットになにか隠しており、運が良ければ飴玉を一つもらえる。


(あれ、いない)


 彼女の机の上は書類を広げたままになっていて、近くのコピー室を覗いても姿は見えなかった。どこかで行き違いになったか、お手洗いにでも行ってしまったのだろうか。


 うーん、課長あてのメモは古田さんに預けるとしてリストは部長に直接渡した方が良いよね。事務を担っている古田は管理職ではないので従業員の残業については把握していないかもしれないし、そういう立場にないかもしれない。管理職じゃない人に見てもいいものといけないもの。ここの線引きが本当に難しい。


 今度は部長の姿を探した。


(あ、打ち合わせ中だ)


 ひときわ目立つ窓側の席にいる部長はたくさんの書類を広げて数人と話をしている。険しい顔をしていて、とても割って入れる雰囲気ではない。


 どうしよう。古田さんを待つか、部長たちに割って入るか。

 悩みあぐねて立ち尽くしていると、


「おい」


 突然後ろから野太い声がかけられた。


「はひっ」


 びっくりして振り返ると不機嫌そうな顔つきの男性社員が佇んでいた。


「なんだ、草壁さんじゃないですか」


 軽々しく名前を呼んだけれど、まったくもって親しくない。

 同期として入社した彼は新人歓迎会を除くすべての飲み会をパスし、連絡先すら交換していないのだ。社内で見かけるのも久しぶりで、新人らしからぬ態度は中堅社員にも見える。こうして見ると驚くほど身長が高い。一九〇センチ近いんじゃないだろうか。


「ちょろちょろと邪魔だ」


「あ、ごめんなさい。すぐにどきます」


 機械に囲まれた通路は思いのほか狭い。私はぺたりと壁に張りついて道を開けた。


「どうぞお通りください」


 中途とは言え同期なのにどうしてここまで遠慮しているんだろう。自分でもよく分からない。触らぬ神に祟りなしというか、要はそれほど関わりたくないのだ。

 しかし彼はなかなか通り過ぎようとしない。


「おまえ、誰だっけ」


「はぁっ!?」


 思わず体を回転させて向き合ってしまった。


「松井です。松井依子。同期です。入社式で私のマイクを奪ったこと忘れたんですか」


「……そうだっけ」


 いくらなんでも同期の顔を忘れる?


 樹木ばりに背の高い草壁さんは目も眉も真横に引いた棒のように無表情で、口にいたってはへの字だった。髪は長めの黒髪。無精ひげもはっきり見える。目元に浮かんだクマが不規則な生活を物語っているようだ。


 疲れているのかな。


 ふと手元のリストを見ると今回の面談対象者として名前が挙がっていた。即戦力・期待の新人と言えば聞こえはいいけれどこんなに残業する必要がある?

 そういえば名前は『草壁 也興』……下の名前はなんて読むんだろう。


「草壁さん疲れているんじゃないですか。産業医面談の対象者ですよ」


「どーでもい……」


 目線は足元へ。本当にどうでもいいらしい。でも総務としては「どうでもいい」じゃ済ませられないのだ。


「お仕事は大変だと思いますけどちゃんと休んだ方がいいですよ」


 なんかちょっと総務っぽくない? と自画自賛していると、草壁さんは片目をすがめて本当に鬱陶しそうに顔を歪めた。


「うるせぇな、こっちだって好きでやって――――ちょっと待て!」


 不意打ちで伸びてきた手が私の手首を掴む。

 大きくてごつごつした手触りにドキッと心臓が跳ねた。そのまま壁に押しつけられる。顔が近い。吐息がかかりそうだ。

 あまりに突然すぎて意識が追いつかない。


「オイ、なんだこれ」


 草壁さんの声はひどく低い。

 掴まれた手首の先には課長への伝言メモを握っていた。


「ただのメモですよ。課長に、電話があったので」


「これ人事台帳の裏紙じゃないか。なんでこんなもの使うんだ」


 以前川嶋さんに頼まれて入力作業をしたのだ。パソコン画面だけでは見落としがあるかも知れないと思い、印刷してすべてチェックを入れた。その数、五十枚余り。


「だ、だって勿体ないじゃないですか。そのままシュレッダーにかけるなんて。心配しなくても個人名が載っているところはちゃんと取り除いて」


「おまえバカか!」


 草壁さんが目をむく。

 唾が飛んできそうな勢いだった。


「個人名がなくても社員番号や生年月日があれば推測できちまうだろう。もしもマイナンバーが載っていたら最悪だ。個人情報を取り扱う人間がいちばん気をつけなくちゃいけないことだろ。会社の利益に一円も貢献できない非生産的な総務な足を引っ張ってどうする! そんなことも分からないのか!?」



(――怖い)



 そう思った。

 怖い。もうヤダ。怖い。

 思い出すのは、前職での、悪夢みたいな日々。




 ――ねぇ松井さん先輩の彼氏奪ったらしいよ。

 ――聞いた聞いた。仕事できないふりしてすり寄ったんだって。


 女子トイレでの噂話を耳にした。

 私と同じ部署の先輩は営業部の人とひそかに付き合っていて、それを私が横取りしたという話だった。まったく身に覚えがない。

 あるとすれば私が取引先にしてしまったミスを営業部のその人が一緒に謝ってくれて、景気づけと称して飲み会に誘われたことくらいだ。


 他にも何人か呼んでいるからと行ってみたら、みんな都合が悪くて欠席だと言われふたりで深夜まで飲んだ。私はお酒には強いのでそのまま解散し、なにもなかった。

 それが尾びれ背びれをつけて社内に伝わっていたのだ。私は先輩とその人が交際していることすら知らなかった。


 悪口は日に日に激化。必要な書類を回してもらえなかったりお土産を分けてもらえなかったりと嫌がらせが続いた。


 そして私の心はある日、ポキリと折れた。

 もういいや、そう思った。コンビニで便箋と封筒を買ってきて、ネットの定型文を参考に人生で初めての退職願を書き、課長に突きつけた。課長は優しい人だったので理由を訊いてくれたけれど「一身上の都合」とだけ押しきって荷物をまとめて会社を飛び出した。


 あの日以来、私は、泣くことができないでいる。


「……どうせ」


 体の奥底から、声が、感情があふれてきた。


「どうせ私はダメですよ」


 心臓が聞いたことのない音を立てている。


「どうして私ばかりが悪者になるんですか。イヤだって言わなければなにしてもいいんですか。知らないですよ誰が誰と付き合ってるなんて興味ないしどうでもいい。悪かったですね知らなくて、生きててすみませんね。でも私だって生きていくために働かなくちゃいけないんですよ、仕方ないじゃないですかそういう社会なんだから。働かなきゃ働かないでニートだなんだって文句言うくせに。そんなに私のことが嫌いなんですか? そんなに役に立たないですか? 願い下げですか? でも私だって、私だって、私だって――――」


 ひくっと喉が震えた。

 その先が続かない。声が、喉が、空回りする。

 空気ばかりを飲み込んで、涙があふれてくる。


 分かっている。

 私はいま、めちゃくちゃなことを言っている。なんにも悪くない草壁さんに一年遅れの恨みをぶつけている。戸惑ったよう彼の顔が私のバカさ加減を表している。

 それでも止まらないのだ。

 どうしたらいいのか自分でも分からない。


「おいなにしてるんだ草壁」


 騒ぎを聞きつけた部長たちが近づいてきた。


「どうしたの、廊下まで声聞こえるわよ」


 タイミングよく古田さんも戻ってくる。草壁さんは慌てたように離れたけれど、大きな手には伝言メモが握られていた。素早く丸めて私のポケットに入れてくる。


「お騒がせしてすみません!……松井、これはそっちでシュレッダーしろ。課長には俺から連絡しておくから」


 最後の方は依子に聞こえるように言い、バツが悪そうに技術棟を出て行った。


「だいじょうぶ? なに言われたの?」


 なかなか動けない私を心配して古田さんが顔をのぞき込んでくる。必死になって目元をぬぐった。


「平気です。大騒ぎしてすみませんでした。私が悪いんです」


 自分の顔に手を当てて気づく。

 ものすごく強張っている。奥歯に力が入りすぎて痛いくらいだった。


「ごめんなさいね、いま飴きらしているの」


 子どもをなだめるように飴玉を探してくれる古田さんか嬉しかった。


「悪かったね松井さん。草壁にはよく言っておくから」


 私がよほど青ざめていたのか強面の部長も気遣ってくれた。

 なんだか申し訳ない。悪いのはこちらなのに草壁さんが悪者になっている。事情を説明したいけれど「すみません、すみません」と頭を下げるのが精いっぱいだった。喉が焼けるように熱くて他の言葉が出てこない。

 本来の目的であるリストを部長に手渡し、逃げるように技術棟を出た。


 廊下を歩きながらもまだ足が震えている。

 総務に戻る前にと思ってトイレに入った。

 鏡に映る自分の目は赤く、頬も紅潮している。


(怖かった、すごく)


 でも、相手の言い方はともかくとして自分にも非がある。それなのにこんな大騒ぎしてしまって恥ずかしい。


 ハンカチを出そうとしてポケットに手を入れるとガサッと音がした。先ほどくしゃくしゃに丸められた伝言メモと一緒に飴玉がふたつ転がり出てくる。パイナップル飴だ。


(もしかして草壁さんが?)


 私を気遣ってくれたのだろうか。

 甘い物とは縁がなさそうな彼は、一体どんな顔してこの飴を買ったんだろう。

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