第10話 思い馳せるは
一日が終わり、幸奈は改めて今朝見た夢を振り返った。一応色々調べて、ミヤヅという人物のことを知ってから、さまざまな思いが胸を苦しませていた。
ミヤヅ媛は尾張国の国造、オトヨの娘だ。つまりはその地方を治めるお殿様の娘ということで、尾張国のナンバーワンお媛様ということだ。
時代は1900年前、その頃にいたと言われるお媛様なのだが、お相手の男性というのが、ヤマトタケル尊らしい。
半分伝説上の人物で本当にいたのかもよくわからない人物だが、たしかに何かの教科書で見た記憶があった。
その時に使ったのが草薙の剣で、名古屋の熱田神宮には、その剣が納められているばかりか、その剣自体が御神体なのだそうな。
さらに言えば、ミヤヅ媛の館にあったその剣を納めるために作ったのが、その熱田神宮だというから驚きである。
夢の中に出てきた白く光る剣、あれがきっと草薙の剣だ。そこに現れたのが霊体のヤマトタケルだ。
記録によれば、伊吹山に荒ぶる神を倒しに行ったのだが、途中現れた蛇に騙されて酷い目にあい、伊勢に戻る途中に亡くなったとされている。
色々な憶説はあるのだが、ヘビの毒にやられて、叔母がいる伊勢に向かう途中で力尽きたというのが通説だ。
つまり、霊体で現れたタケル尊はすでに危篤状態で、最後の力をふりしぼって、ミヤヅ媛に会いに来たということになる。
幸奈はその時の情景を夢で見ている。
人を想う苦しみを身を焦がすというが、まさにそれであったと。
死ぬほど悲しいとは、ああいうことなのか。
人を愛するということは、こんなにも苦しいということなのか。
そして、こんなにも幸福なことなのか、と。
その情景は、鮮明に記憶されており、少し前のことのように思い出すことができた。
その度に、胸がはち切れそうになってしまう。
涙が溢れて止まらなくなってしまう。
ミヤヅ媛の気持ちが自分と重なり、抑えきれない気持ちでおかしくなりそうになる。
悲しみ、後悔、そして深い愛情。
恋を知らない幸奈には、わかっているようで、やはり解らないそれは、まるで感覚器官の無い刺激で、これがどのような感覚なのかが理解できず、ただやたら苦しいと感じることしかできなかった。
はぁ…… と、深いため息をついた。
紗央厘は言っていた。もしかしたら、幸奈はミヤヅ媛の転生なのだと。もしくは、同じ魂の器なのだと。
もしそうだとしたら、もしそうだとしても、もし違っていても、幸奈にはこの苦しみを回避することはできそうもない。
いったい自分はどうすればいいのだ。どうしてこんな夢を見ることになったのだ。
本人は知る由もなかったが、これが幸奈のしたかった念願の「恋」の始まりだったのだが、当の本人が知るのは、ずっと先のことだった。
眠れない。目を閉じても胸がドキドキして一向に眠りにつく気配がなかった。
目を閉じれば、あの優しそうな青年の顔が蘇ってくる。
柔らかい唇。暖かい温もり。大きな手と、広い胸。重なる身体に、下半身を襲う刺激……
……いけない。恋を知らない処女に、こんな妄想…… いや、思い出を見せてはいけない。
体が反応して眠れなくなってしまうではないか……
そんなこんなで、半分妄想化した思い出は、至福の頂点で頭の中が真っ白になるような幸福感を味わうと、幸奈を眠りにへと誘った。
そして、幸奈は再び夢を見た。
幸奈の視点は再びミヤヅ媛の視点になっていた。とは言っても、自我はなかったから本人そのものになっていた。
自分は蒼く染まった布を洗っていた。ここは少し大きな川か、周りにも自分のように染まった布を洗っていた女性が何人もいた。
川の水は冷たく自分の足首と両手は冷える水で赤くなっていた。しかし、そんなことを気にすることはなく、自分は布を洗っていた。
「よし、こんなところか」
洗っていた布を水面から上げて軽く絞り、広げてみた。
「おおー。媛さま、見事でございます。模様が繊細で綺麗ですよ」
「おぬしらの教え方が良かったのじゃ。私もこんなに綺麗にできるとは思ってもいなかったわ。我ながらようできたと思っておる」
そう言ったのは、ミヤヅ媛だった。周りにいたのは染め物職人の女工だった。年はミヤヅ媛と同じくらいだろうか。十六、七歳に見えた。
布染めの女工たちはこの珍客を抵抗なく受け入れた。正確にいえば、このお媛様を名乗る女性は、たまにここにやってきては、我にもやらせろと言って着物を着替え、ほかの女工たちと同じように作業に従事していた。
染め物工場内はむせるように熱く、そして、洗い流しの作業は手が凍るかと思うぐらい冷たかった。
それでも何も文句を言わず、この媛様はこの作業を体験していた。この作業の大変さを共感していた。
「お主らのような可憐なおなごが、最後の締めをすれば、たしかに良き染め物ができるというわけじゃな。これからも頼んだぞ」
「もったいなきお言葉。媛さまがいればこそ、我らも一丸となって良いものが作れるというものですわ。媛さまあっての、この国ですよ」
「こらこら、おだてたって何もでぬぞ。私の賃金はいらないがな」
「まあ、媛さまが染めたこの繊細な模様の生地を反物にしたら、とても人気が出て高値で取り引きされましょうに」
「こら、これは国家機密事項だ。他言は無用だぞ」
「はいはい。媛さま。わかっていますよ。こんなことが世間に知れたら、国中が騒ぎますよ」
「どうして騒ぐのじゃ? 私が染め物をするのが、そんなにおかしいことなのか?」
「違いますよ。この川に殿方が殺到するってことですよ。ほかの女工だって殺到しますけれどね」
「そうか? 私の染めた模様はそんなに良いものなのか? 我ながらよくできたとは思っていたが、そんなに良きものなのか?」
女工たちは、首を振った。
「違いますよ、媛さま。こんなに美しい染め職人がいるわけないでしょ。まして本物のお媛様がこんなところで私達みたいな平民の女工と一緒にお仕事なんかしていたら、誰だって騒ぎますよ」
「お主らも騒ぎ立てたりするのか?」
「そりゃあ、最初はびっくりしましたよ。だって、ミヤヅ媛様なんですよ。こうやってお話なんかもできない存在なんですよ。でも私達は幸せものです。こうやって、私達のことをいたわってくださるのだから。だから、媛さまには本当に感謝しています」
「私は何もしていないぞ。それに感謝しているのは私の方だ。このような良いものを作ってくれるから、この国は豊かになるんじゃ。この国の発展は、お主らのような若い力が必要じゃて」
「ふふふ、ミヤヅ媛も十分若うございますよ。私達はミヤヅ媛さまのような方が治める国に生まれて幸せでですわ」
「私を褒めても、何もでんぞ。それに、国を豊かにするのは、お前達のような元気なおなごなのじゃよ」
「ありがたきお言葉です。さあ、媛さま。休憩にしましょう。お体も冷えたでしょうに」
「案ずるな。お前達はこれを毎日やっておるのじゃろう。私はさっき来たばかりだ。お前達のほうがよほど身体が冷え切っているはずじゃ。私は半分娯楽でやっているだけだ。お主らとは真剣味が違うぞ」
「まあ、媛さまはお優しいのですね。そんなに気をかけなくてもよろしいのですよ。さあ、休憩にしましょう。お茶をいれますよ」
「すまぬ、かたじけない。いただくとしよう」
実際、手は冷え切ってあまり感覚がなかった。他の女工達も同じはずだったが、そんなそぶりは全く見せている様子はない。
自分が来ているこの服だって、この女工あってのものだ。全ての物には、人の努力と思いが込められているのを改めて知った。
そして、温かみを感じていた。
自分の地位を知っているにもかかわらず、この染色工場の人達は自分を何違わず受け入れてくれた。
何回かお忍びで通っていくうちに、まるでお得意先のお手伝さんのように、打ち解けることができた。
当然、向こうも相当気を使っているのは肌で感じてはいたが、特別扱いをせず、それは一人の職人として作業を一から教えてくれたのだ。
ミヤヅ媛はここが好きだった。この一般庶民の生活、仕事、世界が。
たしかに宮廷生活は快適だし、食べ物に困ることはないが、自由もなかった。お目付役はいつもいたし、習い事や学問の習得もしっかりやらされたし、今だってちゃんと見張られている。
たまにはこうやって息抜きをしたいと、お忍びで庶民の生活を体験していた。最初はあまりのも違いに戸惑い、自分がいかに贅沢を尽くしていたのかも知った。
そして、今の自分の支えになっているのは、この庶民達が一生懸命働いているから成り立っているのだと気付かされたのだった。
いつか自分はこの国を治める存在になる。この者達、この国の人達に苦しい生活をさせないと、心に誓っていた。
女工達と一緒にお茶を楽しんでいると、馬のひづめの音が近づいてくるのがわかった。
馬には若い男性が乗っていた。白い麻布の衣服に身に付けた装飾品は、明らかに身分の高い者だとわかった。
男は馬から下りて、こちらにやってきた。
すらっと伸びた長身に、整った顔立ちは結構な美男子に見えた。
ミヤヅ媛はどきりとした。相手が美男子だったからではなく、顔を見られたら、自分が誰だかばれてしまう。ここは出来るだけ顔を合わさないようにして、やり過ごすしかない。
男が声をかけてきた。
「そこのおなごよ。火上はどちらに行けば良いか知らぬか?」
ミヤヅ媛はとりあえず無視して、隣にいた女工を肘で突っついた。
となりの女工は、あまりの美男子に見惚れたのか、緊張したのか、声を出すのを忘れてしまったようだ。隣で突っつくミヤヅ媛にようやく我に返り、返事をした。
「え、えっと、火上なら、ここをずっといって、大きな入り江を回るように辿っていけば、きっといけますよ。あ、あの、高貴な方だとお見受けしますが、どなた様なのでしょうか」
「気にするな。そうか、ここを辿っていけばいいのだな。そちらのおなごよ、顔をよく見せてはくれぬか? とても気になって声をかけたのだが、髪がとても綺麗で、私の目と心はそなたの髪で絡まれたようなのだ」
ミヤヅ媛は、顔を見られないようにうつむいたままだ。
それを見て、隣にいた女工は気を利かせて男性に言った。
「も、申し訳ございません。この娘、耳が悪うございます。それ故に、男性恐怖症なのでございます。ご無礼をお許しください」
男性は、それ以上うつむいた女性の顔を見ようとはしなかった。
「それはすまなかった。怖い思いをさせたな。こちらこそ許せ。また会う機会があればゆっくり話でもしよう。そうか、耳が悪いか。ならばそのときは歌を書いてあげよう。美しい娘よ」
そう言って、男は馬に乗りこの場を去っていった。
ミヤヅ媛の胸は激しく鼓動を打っていた。見られてはまずいという思いなのか、目の覚めるような美男子に美しいと言われたからか、自分でもよく分からなかった。
どちらにしても、これはただ事ではない。あの男は一体何者だ?
「ふう、すまぬな。助かったぞ。それにしても、あやつは何者じゃ? 只者ではなかったぞ」
「そうですね。とてもいい殿方でしたよ。惚れ惚れしてしまいました」
「あれが? そんないい男か? 私にはただの色男にしか見えなかったぞ」
「媛さまは日頃からよい殿方を見ていらっしゃるから、目が肥えているんですよ」
「そーかのー。いい男なんて、そんな、なかなかいないものだぞ」
「媛さまは殿方には手厳しそうですね。それでこそ将来の国造ですわ」
「男に国を任せたらどんどん衰退してしまうぞい。戦は男の仕事だが、国を治めるのは女の務めじゃわ」
「媛さまのおっしゃる通りです。男というのはどうしてあのように好戦的で色好きなのでしょうね」
「まあ、そういうな。私の例えが悪かったな。男達よりも我等の方が国のことをよく知っておる。そして男達は国の外のことを知りたがっている。同時に、先のことを考え行動を起こそうとしている。おなごは現状維持に満足し、男達はその先のことに夢見がちじゃて」
「所詮、男は別の生き物なんですね」
「まあ、そう言うな。あれがいなければ我等の生活もままならぬのだからな。感謝はせないかんぞ」
「はあい、媛さま。媛さまって、私達と同じぐらいの歳なのに、大人の方のようなお話をされるんですね。なんだか、お母さんとお話ししているみたい」
「フフッ…… それは素直に喜んで良いかわからぬな。しかし、いずれはそちらの母たる存在になりたいのは事実じゃ。そう言われるのは最高の褒め言葉なのだろうな」
「そうですよね。マキシトベ様は本当に凄い方ですよね。実質この国があるのも、動かしているのもマキシトベ様ですからね」
マキシトベとは、ミヤヅ媛の母であり、この国の長でもあった。
国を治めていいるのは父であるオトヨであったが、オトヨは中央政権からやってきた王子でもあり、つまりはよそ者である。
実質の権力は母のマキシトベが握っていた。
その手腕はなかなかのもので、特に開拓事業に関しては、北の大地を耕し、見事な穀倉地帯へと変えていった。
これは中央政権から来たオトヨの知識と技術力、それと兄のタケイナダネの功績もあったのだが、実際に人を動かしたのはマキシトベである。
この多大なる人力は、マシキトベの権威と信頼があって可能なものになったのだ。
この国の長であり、この地の神に仕える巫女でもあったマキシトベは、この国の人々に愛され、とても信頼されていたのであった。
その二人から生まれたのが、長男のタケイナダネであり、長女のミヤヅであった。
兄のタケイナダネは、国と共にすくすくと育って欲しいと願って付けられた名は、やがて北の荒野を豊かに実らせるように、たくましく育っていった。
そして、その子同様に国もスクスクと育っていったのである。
娘は宮のため、神のために尽くせるように、ミヤヅと名付けられた。
これは母のマキシトベがこの国の長であり巫女でもあったことから、自分の跡を継いで欲しいとの願いも込まれていた。
その母の思いは実り、ミヤヅ媛は民に愛され、母のように厚い信頼を受ける存在になっていた。
巫女でもあるミヤヅ媛は、穏やかで、豊かで、笑顔が絶えない国になりますようにと、日々神殿で祈りを捧げていた。
そして、ミヤヅ媛の日課となったお忍び事業は、半分は興味本位で半分は民の実際の生活を知るための活動で、このように我が身を持って確かめていた。
せめて自分の目が届くところだけでも、しっかりと民の生活を見てみたいとの想いだった。
そんなこんなで、ミヤヅ媛のお忍び現地体験の噂は広まり、本人はお忍びのつもりでいたが、世間では公然の秘密になっていた。
それにしてもと、ミヤヅ媛は思った。
先ほどの輩は、館に用事があると言っていた。あやつは一体何者なのじゃ?
胸がなぜか騒いでいた。巫女としての直感がそうさせていたのか、話しかけられた時に、何やら術でもかけられたのではないかと思ってしまう。
なぜなら、隣にいた女工はそれこそ魂を抜かれたように、恍惚とした視線をあの男に送っていたからであった。
ミヤヅ媛はあの男の顔を直視していない。それでも何か畏怖に似た、大きな威圧を感じていた。
あやつは只者ではない…… 館に帰らねば。
「なあ、さっきの男のことをどう思う? どのような感じだった?」
女工はうっとりとした顔で、先ほどのことを思い出すと、ニタニタと口元が緩ませて言った。
「それは良い殿方でしたよ。お強そうで、優しそうで、勇ましそうな、惚れ惚れしてしまいましたわ」
「……そうか。私はしっかり見なくてよかったぞ。お前たちの心を虜にするような妖力の持ち主だ。すまぬが私は帰る。館のことが心配じゃ」
「はぁ、はい。ミヤヅ媛さま、またいらしてくださいね。いつでも歓迎しますよ」
「ああ、感謝する。また遊びに来るぞ」
ミヤヅ媛は着替える時間も惜しんで、河原を駆け上り、馬と一緒にいた女官の従者に声を掛けた。
「すぐに帰るぞ」
「媛様、おかえりなさいませ。先ほどの高貴なるお方がここを通って行かれました。恐らくは中央政権の使いの者だと思われますが、ただ、それにしては若く勇ましそうな殿方でした。媛様は何かご存知ですか?」
「知らぬ。だから、早く帰らねばならない。悪い予感がしてならないのだ。今も私の胸は騒ぎ立てておる。これはただ事ではないぞ」
この女官も、あの色男に心を奪われたのか、ぼんやりとした表情だったが、ミヤヅ媛の真剣な眼差しに我に返った。
「はい。これから何かが起ころうとしているのですね」
「そうだ、あの男からは血の匂いしかしなかったぞ。戦争が近いのかもしれんな」
ミヤヅ媛と従者の女官は馬を走らせ、館のある火上の地に向かった。
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