第7話 初恋の人


 今、僕と京子さんは、久世小児科病院の待合室で、診察中の加奈を、ソファーに座って待っている。


「……ごめんね、長谷川君。忙しいのに」

 京子さんは、僕を見て申し訳なさそうに謝った。

「あっ……いや、大丈夫だよ」

 その瞬間、僕は少し動揺をしてしまった。

「どうしたの?」

 京子さんは、僕の様子に気付いて尋ねてきた。

「いや……、長谷川君って呼ばれたの、高校の時以来だなって思ってね」

「あっ……、ふふ、そうだったね。でも長谷川君はずっと私の事、京子さんだよね」

 彼女は、微笑みながら言った。

「うん、そうだね」

 僕も釣られて微笑んだ。


 ――僕と京子さん、間野京子は地元の中学、高校の同級生だった。クラスが同じになったことは1度だけであったが、お互いに本が好きだった事もあって、図書委員を3度一緒にやっていた。授業が終わると放課後の図書室で、二人で本の整理をしたり、カウンターの受け付けをしていた。

 そして僕は、その頃から京子さんに、ずっと恋心を抱いている。



「今日は、長谷川君とカウンター係か……」

 ある日の放課後、カウンターに座って、本を読んでいる僕の隣の席に、後からやって来た京子さんが座った。

「うん、そうみたいだね。……でも、今日は少ないよ、利用者」

 内心の緊張を隠しながら、僕が話すと、

「ところで、長谷川君はどんな本が好きなの?」

 と言って、体を近づけて訊いてきた。

「うーん、最近は歴史小説が好きかな。織田信長とか……特に戦国時代のね」

「へえー、だから、日本史の成績が良いんだね」

「うん、日本史だけだけど……ね」

「……私は童話とか絵本が好き。将来は保育士になって子供に本を読んであげるのが夢なの」

「すごいね、もう将来の事も考えてるんだね」

 僕が驚いた表情で言うと、京子さんは笑顔で頷いていた。

「長谷川君は、どんな職業になりたいの?」

「僕は、何だろう……。やっぱ本に関わる仕事かな」

「うん、長谷川君にはきっと向いてるね」

「そうかな……」


 カウンターで仲良く話している僕達を見た友達からは時々、冷やかされた事もあったが、田舎の高校生で、しかも奥手な僕は、京子さんとの関係をこれ以上進展させることは出来ずに、高校生活を送っていた。


 しかし、ある日、僕にとってちょっとした事件が起こった。

 それは、京子さんと図書委員の担当だった日の出来事で、この日、先生から頼まれていた翌日の授業で使う本が見当たらずに、2人で夕方遅くまで探していた。

 図書室を利用する学生もいなくなり、薄暗くなってきたので、もう帰っていいよ、と先生も言ってくれたのだが、責任感の強い京子さんはなかなか帰らなかったので、僕も付き合って探していた。僕はこの時、薄暗くなった図書室で好きな子と2人きりになっている状況に、変に意識をしながら本を探していたのを覚えている。

 ……そして、両面あるスチール書架の真ん中のスぺースに落ちていたその本を見つけた時には、もう外は暗くなっていた。 


 すでに、夜道も暗くなっていたので、僕は自分の家とは方向が全く逆であったが、京子さんを家の近くまで送って行った。

「いいのに、長谷川君……」

 2人で歩きながら、京子さんは、申し訳なさそうにしている。

「いや、暗い道を女の子1人で返して、なんかあったら……」

「ふふ、優しいのね」

 暗い道で、顔は見えないが、微笑んでいる声は聞こえる。

「――いや、この後に寄る所があるから、ついでだよ」

 僕が、恥ずかしさを感じてそう言うと、

「こんな時間に?」

 と言って京子さんは僕を見つめ、横顔に彼女の視線を感じていた。

「う……、うん」

「ふーん」


 僕はこの時、もちろん京子さんを心配していたが、好きな女の子と2人きりで同じ空間にいたという余韻を、もう少し感じていたいという気持ちもあった。

 そして、一緒に夜道を歩いている間、何度も告白しようと思っていたが、結局その勇気が僕には無かった。……京子さんと別れた後、僕は今まで経験した事が無い程、喉の奥までカラカラに渇いていた。



 その後、大学が別々になってしまったので、その間は疎遠になってしまったが、僕が鳴滝町の役場の職員になって図書館司書で働くようになってから、同じ地元の桃山幼稚園の保育士になっていた彼女と、3年前に図書館で偶然出会った。

 その時僕は、何か運命的なものを感じていたが、相変わらず何も行動を起こせずにいた。


 ――ところが、去年まで図書館でパートをしてもらっていた照屋さんという女性がいて、彼女の娘と京子さんの通っていた短大が一緒で、しかも親友だったという偶然があった。ある日、照屋さんの娘が京子さんから、ずっと片思いをしている人がいるという話を聞き、それがどうやら図書館に勤めている人という事であった。

 照屋さんが、図書館でパートをしている事を知っていた娘は、母親に軽い気持ちでそれを言ってしまったらしい。

 ――それから婦人同士の話が広まるのは早く、その週の終わりには僕の耳にも入ってしまったのだが、もちろん京子さんはそれを知らない。

 それからというもの僕の周辺は、勝手にヤキモキしているという現状だ。


 もちろん、それを知ってしまった僕は、特に意識せざるを得ない。ずっと好きだった女性なのだから……。ただ、これだけ周りに注目されてしまうと、元々奥手な僕は、益々動き辛くなっている。 


 そんな時、年末に毎年行われる図書館の職員、パートによる忘年会があり、馬場さんが、京子さんともう1人の桃山保育園の保育士を誘った。

 当日まで知らされてなかった僕は、お店に着いてから、京子さんに気付いて驚き、そして馬場さんの策により、半ば強引に京子さんの隣に座らされてしまった。

 その時の僕は、嬉しさよりも周りの好奇の目による恥ずかしさを感じてしまい、結局、彼女とあまり話もせずに終わってしまったが、ただその時、なんとかメールアドレスの交換までは出来た。


 それから、仕事上のメールのやり取りは何回かしているが、彼女と食事をする機会もなく今に至っている。




「……大事にならなくて良さそうだね」

 僕は、少し安心した様子で言った。

「うん、本当にありがとうね」

「いや、ところで、京子さ……」

「――本当に先生、どうもありがとうございました」

 突然、診察室の横スライドの扉が開いて、加奈と母親が出て来たので、僕と京子さんは急いで立ち上がる。

「京子先生も、ありがとうございました」

 母親は、待合室で待っていた京子さんに深くお辞儀をした。

「そして、えっと……」

 母親は、僕を見てどう挨拶をして良いか迷っている様子だった。

「あっ、この方は、鳴滝町立図書館の長谷川さんです。今日、ここまで加奈ちゃんを車で乗せて来てくれました」

 京子さんが、僕を母親に紹介すると、

「あっ、それはどうもご迷惑おかけしてすいませんでした」

 と、母親は僕にも深くお辞儀をした。

「いえ」

 僕は、右手を小さく左右に振る。

「では、京子先生。今日は、このまま娘を連れて帰りますので……」

「はい、分かりました」

 彼女はそう言うと、加奈の前で屈んで、

「じゃあ、加奈ちゃん。お風邪しっかり治して、また保育園来てね」

 と優しく話した。

「うん」

 加奈は風邪で元気はないが、京子さんを見てしっかりと返事をした。

「じゃあ、すいません」

 そう言って、加奈と母親は隣の薬局に薬をもらいに病院を出て行った。


 そして、僕は診察室にいる久世先生にお礼を言ってから、京子さんと病院を出た。

「さて、図書館に戻ろうか」

「うん」

 そして、助手席に散らばっている伝票や本を急いで片付けると、京子さんを助手席に乗せた。


 図書館に戻る5分間、運転するハンドルを持つ手は、暑さのものではない汗を感じている。2人きりの空間というのは、あの高校の図書室の時以来だった。京子さんは、帰りの車の中では黙ったままだった。

 結局、この時も僕は、何も進展させることが出来ずに5分間のドライブは終わってしまうのである。

 そして僕はこの時、京子さんの担当する園児が、病気になった一大事に不謹慎だろう、と自分自身を納得させてしまった。


 図書館の駐車場に車を停め、京子さんは助手席から降りると、

「今日は、ありがとうね。長谷川さん」

 と頭を下げた。

 僕は『さん』に戻った言葉に少し引っ掛かりながらも、

「ううん、いいよ」

 と言って、車を降りた。


 図書館に2人で戻ると、その光景をカウンターで見た馬場さんは、明らかに落ち着きがなくなり、作業室にいる仲間の元に階段を小走りで下りて行った。

 やれやれ、また浅田さんに報告しに行ったな、僕はそう思い深いため息をついた。


 そしてその後、保育園の園児達の遠足は無事に終わり、京子さんも帰っていった。


 園児達が帰るとすぐに、馬場さんが僕に近づいてきて、

「あの……長谷川さん、さっきの……」

 と、言いかけたところで、

「――何も期待することはないですよ」

 と、ピシャリと言って、僕は前を向いたまま事務室へと戻った。


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