第14話:しっかりと背負って
冬の早朝の空は、まるで深海のように深い深い藍色で、見つめていると沈んでしまいそうだった。東の空に向けて明るい色になるグラデーションが綺麗だ。吐き出す白い息は、水の中で浮かぶ泡のみたいだ。
夜明け直前のほうが、深夜よりも人が少ない。耳を澄ませば、どこか遠くから車が走る音が聞こえた。それもだんだん聴こえなくなり、一瞬だけ静寂が訪れる。
風が吹き、建物の間を通る風が騒ぐ。葉っぱが落ちきった木の枝が風を裂く音が、ひゅうと心に差し込んだ。
後悔するな。
間違ってなんかいない。
自分にそう言い聞かせながら歩く歩道は、いつもより二割り増しで冷たく感じた。
僕は奪った。それを無かったことにはもう出来ない。だからせめて、正しかったと信じよう。
「よう。すっきりした顔なのか、今も悩みまくってる顔なのか、それはどっちよ?」
「後悔したくない顔……かな」
「いいねぇ。青春だ」
楽日がいる病院の駐車場で、父さんは紫煙を燻らせて言った。
冬空の空の下に、煙草の赤い光が軌跡を描く。
昨日僕を追い返した時の父さんの、溶岩みたいな重い熱は冬の空気に冷やされて、じんわりとした温かさだけが内に残っているようだった。
「俺はお前が死んだら、楽日を恨むぞ」
咥えた煙草の赤がひときわ強く光り、ゆっくりと空気に揺れて灰が落ちた。
悲しそうな声に、できる限りの優しさと誇らしさを混ぜて、父さんの言葉が駐車場で転がる。
「――ま、つっても、止めねぇんだけどな?」
「止めないんだ」
「止めたいさ。楽日を今すぐ安楽死させて、例え誰に恨まれようともお前を守りたい。でも、同じぐらいにお前の邪魔をしたくない。悩みに悩んで、すっっっっっげぇ考えた結果、父さんはお前の背中を押すことにした。誰よりも大切なお前が、決めたことだ」
「……ありがとう」
「あーあ……てめぇ後で覚えとけよ。ぶん殴ってやる。親不孝者が」
父さんは僕の頭を腕で挟み、逆の手でぐりぐりと撫で回した。雑な愛情表現が心地よくて、こうしてもらっている今が心地いい。
「大丈夫。父さん。大丈夫だよ」
「お前の大丈夫は当てになんねえよ。ま、いいや。とにかく、お前がやりたいようにやればいい。早く行け。こうしてお前といたら、俺の気が変わるぞ」
僕を離した父さんは、僕の背中を思いっきり叩く。
ちりちり痛む背中が熱を持った。
僕を送り出した父さんを振り返ると、「あ」と思い出したように言う。
「俺が教えたって言ったら楽日めっちゃ怒るだろうから、秘密な?」
「……締まらないなぁ」
父さんは、歯を見せてニッと豪快に笑って、煙草の煙を冬の空に泳がせた。
――――――――――
「父さんが教えてくれたんだ」
「言わないでって言ったのに……!」
僕を見てあからさまに顔をしかめた楽日に、僕は迷わず父さんを売った。
昨日繋がれていた点滴や電極は全部外されていた。ああいうのは、必要だからされるものだ。必要なくなったら外されてしまう。どうしようもなく、手の施しようが無ければ、後は負担を減らすことのほうが大切なのだろう。
「帰りなさい」
「嫌です」
「も、なんで来るのよー……。あんたが来るのが分かっていたら、私が逃げたわ」
「この寒い中それは駄目だって」
「そうだけどさー……」
楽日は病室のベッドに正座する。唇を尖らせる彼女の表情は、今まで見ていたものと変わらない。体の中がボロボロだと思えないほどだ。顔色も悪くないと思う。
そんな楽日は、人差し指を実にゆっくりとした動きで僕に向ける。
「駄目」
「えーっと……?」
「帰って」
「ごめん。それは出来ない。あと、楽日のそれ奪うからよろしく」
「だーから! そうなるから駄目だって言ってんのよ!」
病院だからだろう、抑え気味に楽日は叫んだ。
「そう言われてもさ、色々悩んでたはずなのに、楽日の顔見たら簡単に『ああ、間違ってないな』って思っちゃって。僕もかなり分かりやすい人間だったみたいで」
「どういうことよ」
「そうだなぁ……」
色々考えたのも、悩んだのも結局、楽日が大切だったからなのだ。単純に死んで欲しくなかった。隣に居て欲しかった。それだけだ。
で、なんだっけ。ああそうだ。
「僕の子供を産んで欲しくて」
「ぶっ! えほっ! あ、え、なに……を……!」
「うん。言葉にすると吐きそうなほど緊張するね。うん。駄目だなぁ、これ」
楽日に言われたお返しに言ってみたけれど、これは駄目だな。ムードも何もあったものじゃないのに、それでもここまで緊張する。
僕の顔が熱くなっていく事はもちろんのこと、それ以上に赤くなった楽日は、目に涙を一杯に溜めていた。それはどういう涙だろうか。
「何で泣くのさ」
「恥ずかしいのよ……! 馬鹿……! この……ばか……!」
羞恥に任せて僕を叩いてくる楽日。恥ずかしいのは僕も同じなのだから、許して欲しい。楽日の病室が個室でよかった。
シーツもベッドも壁も白い部屋で、楽日の頬は真っ赤だった。きっと、僕も赤いだろう。
「だから、楽日には生きて貰わなきゃ困る。だから、奪う」
「でも……それじゃ禄が……」
「睡蓮がくれた」
「…………え……?」
「睡蓮がさ、くれたんだよ」
楽日の顔から赤みが引く。僕の言葉を理解するや否や、また僕を殴った。
でも、楽日の手には全然力が入っていなくて、だけど、今までで一番痛かった。
「……」
「楽日?」
「…………何言えばいいか……わかんないの……」
「きっと『ありがとう』でいいんだよ」
「納得できない」
「しなくてもいい。忘れなければ、それで」
「馬鹿ばっかり……」
「そうだね」
クロを呼ぶと、黒い狼はつい、と僕を見上げた。あとは、クロに命令するだけで全部終わる。
楽日はそれでも止めてくるかと思ったけれど、何も言ってこなかった。クロは足音も無く、楽日に歩み寄り、頭を擦りつけた。ふわふわの毛を撫でて、楽日は溢す。
「……ありがとう……かぁ……」
「納得なんて出来ないよ。それでも、これから先、間違ったとだけは思わない。後悔だけはしない。僕は、楽日と睡蓮から奪ったことを、後悔しない」
「うん……分かった」
「それじゃ……いいね?」
「……うん」
――クロ、奪え。
クロが走る。楽日を掠めた疾走は一瞬で終わり、僕の傍にクロが座った瞬間、とんでもない虚脱感と息苦しさが襲ってきた。
「く……かはっ……!」
「禄……!?」
「だい……じょうぶ……」
ゆっくり蝕まれれば、自覚症状は少ないのだろう。だが、健康体からいきなり内蔵のあちこちをボロボロにすれば、これぐらいの苦しさがあって当然だ。覚悟はしていた。
息苦しさは次の瞬間に緩和していく。内臓が修復されていく。楽日から奪った病と傷は、いつか見た睡蓮の腕の傷のように消えていく。
一度乱れた呼吸はゆっくりと整っていき、一分もせずに何事も無かったかのように落ち着いた。
「禄……? 大丈夫……?」
心配した声が僕を包む。「大丈夫だよ」と微笑んだら、「よかったぁ……」と楽日はほっと胸を撫で下ろした。
「楽日は? どう?」
「健康ってすごいわ」
「それはよかった」
自分の体に触れ、楽日は驚いたように言った。僕が一気に苦しんだのと同じように、楽日も一気に辛くなくなったのだろう。いや、自覚症状が無いって言っていたから、体が軽くなったように感じたのかもしれない。
僕と自分の体が無事なことに安堵した楽日は、クロの頭を撫でた。
それから、ゆるく握った拳で、僕を軽く突いてくる。
「ばか」
「ごめん」
俯く楽日の顔は、どこか翳っている。素直に喜べないのは、僕も同じだ。睡蓮が終わりを望んだのだとしても、僕と楽日は、彼女を犠牲にしたという自責の念からは逃れられないだろう。
僕は、一生背負って生きていこう。自責の念を持っても、それ以上の感謝を忘れないように。
「これからどうしようか」
「今はわかんないわよ。はっきり言って、大混乱。私、つい数時間前に目が覚めて、あんたのお父さんに『内臓ボロボロ。どうしようもない』って言われたのよ? そしたら今度は禄が来て、これだもん。死の宣告に絶望する暇も、状況を理解する間も無かったわ」
楽日は大きく息を吸いこむ。
「ね、禄の家に行こ。勝手に抜け出したら怒られそうだけど、睡蓮、眠ってるんでしょ?」
「……うん。そうだね」
病院着の楽日に自分が着てきたコートを渡して、外に出る。
空はもう白んでいて、楽日と僕は白い明かりの下をゆっくり歩いた。
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