12. Into the ruins
羽月が目を覚ますと、自室の天井があった。ぼんやりする頭で、眠る前の記憶を辿る。
ちょっとだけ無理して、学校で倒れてしまって、保健室に連れられて、ベッドで寝て……
服はパジャマ、額には濡れたタオルが乗っている。それを手で除けながら、上半身を起こした。楽に天井に手がついてしまうこの高さには、まだ慣れていない。
レースのカーテン越しには、深い闇が広がっていた。枕元の使っていない目覚まし時計は、十時過ぎを指している。長い時間眠っていたことを羽月は悟った。
ふらつく身体に鞭を打ちながら梯子を降りると、ベッドの下段に胡座をかいていた刹華と目が合った。
「看病、してくれてたんだね……ありがとう」
バツの悪そうな羽月をじっと睨む刹華。
「……今日、バイトどうしたの」
その質問に、刹華は答えなかった。その代わりに、
「寝ろ」
と、短く返す。
「……もう十分寝たよ。やらないといけないことがあるから、休んでばかりは……っとと」
羽月の身体が万全でないのは明白だった。刹華は立ち上がり、羽月のパジャマの襟を乱暴に掴んだ。
「寝ろ。高熱が出てるんだぞ」
「大丈夫だよ。寝過ぎてふらついちゃっただけだから」
こいつはこうやって嘘をつくのかと、刹華は嫌な気持ちになった。刹華に心配させないように嘘をつき、その実刹華を不安にさせている。
羽月の襟を強く引っ張り、羽月をベッドの上に倒した。
「そんなに弱ってる身体で何ができるんだ。お前が夜の街で倒れた時に、誰がお前を助けるんだよ」
羽月は、黙ったまま刹華を見つめていた。
「何考えてんのか分かんねぇんだよ。お前が何の為に金が欲しいのか……冷静な筈のお前を、冷静じゃなくなるまで追い詰めてる理由が、あたしには分からねぇ」
ずっと、見て見ぬふりをしてきた核心に、刹華は触れようとしていた。
ひったくりを捕まえる為にいち早く動くような正義感があり、リオンの嫌味を難なく返してしまうような賢さがある癖に、校則を破り、自分が壊れるまで自分を追い詰めている、その理由。
「あたしはお前を信じていたい。だから、ちゃんと話してくれ。熱が引いてからでいいから。じゃねぇと、いつか信じられなくなっちまう……そんな気がする」
羽月は俯いて、何かを考えている様子だった。
「……だから、今日は休め。コンビニでアイスとうどんを買ってきた。食え。そして寝ろ」
刹華は机に置かれていたカップうどんを手に取り、それを電子レンジの中まで運んだ。
「……刹華、お金ないんじゃなかったの」
「うるせぇ、余計なこと考えんな。給料日はもうすぐだ。心配ない」
乱暴な口調の刹華。それでも、その中に不器用な優しさが見えることが、羽月にとっては辛かった。
「……ありがとう」
私はこの人も裏切れない。裏切れない人が沢山いる。だから、こんなにも生き辛い。
電子レンジの温め完了の音を聞きながら、羽月はそんな人々のことを思った。妙に、安らかな気持ちだった。
あれから丸一日経った日曜日。刹華が目を覚ますと、羽月が立っていた。
「おはよ。ご飯、二人分作っといたよ」
部屋の真ん中に置かれたちゃぶ台に、二人分の朝食が並んでいる。
「熱は引いたのか」
「昨日までにだいぶ下がってたみたいだけど、念の為に朝まで寝てた。ごめん、心配かけちゃったね」
刹華は立ち上がると、羽月に近づいて互いの前髪を上げる。そして、額をゆっくり合わせる。
「熱、まだ少し残ってるじゃねえか。今日までは大人しくしてろ」
羽月は、ワンテンポ遅れながらも慌ててその場から数歩後退った。
「……あのさあ、そういうこと普通にする? びっくりしたんだけど」
「あ? こうしないと熱測れねえだろ。体温計持ってねえんだから」
「私が持ってるよ。ほんとにもう……ほら、朝ごはん食べるよ」
羽月が作った朝ご飯は、簡素な味噌汁に白米、そして目玉焼きだった。
「……ありがとう」
寝ぼけていて言い忘れていたお礼を、刹華は口にした。
「別にいいよ。そういえば、刹華からありがとうって言われたの、初めてかもね」
二人がちゃぶ台の横に座ると、いただきますの合図で朝食の時間は始まった。そこでの会話は、前にもありがとうと言ったか言ってないかだとか、目玉焼きは醬油か塩かとか、何にせよ平和なものだった。ただ、こんな時間が二人には必要だったのかもしれない。
洗い物を終えて刹華が戻ってくると、羽月は部屋着から私服に着替えていた。
「なんで外に出る気満々なんだよ。今日までは休んどけって言ったろ」
刹華の苦言に、羽月は少し申し訳無さそうな顔をして答えた。
「そのつもりだったんだけど、平日だと行けない場所があってね。それが終わったら帰って大人しくするからさ」
渋い顔をする刹華。ただ、羽月はそれに対して多少の罪悪感を持ちつつも、引くつもりは全くなかった。
「だから刹華、ちょっとだけ付き合ってくれないかな」
宝満大学病院。幼い頃から身体が丈夫だった身としては慣れないこの場所に、刹華は羽月に連れられて来ていた。広いロビーに沢山の人々。こんなに病気の人がいるものなのかと、顔に出さないまでも刹華は内心驚いていた。
「病院、来たことないの?」
羽月は刹華の挙動に反応した。
「風邪とか全然だしな。大怪我もしねぇし」
思い返してみても、一度だけインフルエンザで商店街の隅の診療所で診てもらったことくらいしか記憶になかった。
「風邪引かない……まあそっか。刹華はそうだよね」
「……今、失礼なこと考えなかったか?」
「静かにしてね。ここは病院なんだから」
都合よく羽月に黙らされ、もやもやしながら後をついていく刹華。看護師、点滴を持ち歩く人、車椅子の老人、医者らしき男、見舞いに来たらしい小さな子供、ぐずる赤子を抱える母親、様々な人とすれ違う。バイトの時も色々な人を見るが、それとはまた層が違う。
大半が弱っている。著しく。
羽月が何やら受付を済ませ、流れるようにエレベーターへと乗り込む。ゆっくりと上昇する箱の中で二人だけ。
「お見舞いか何かか?」
刹華が沈黙を破る。
「そんなとこ。きっと、意味はないんだろうけどね」
羽月の自嘲するような態度が刹華には珍しく、妙に引っかかった。
五階。白い廊下は、それぞれの病室と隣接している。看護師達が慌ただしく動き回るのを後目に、刹華は羽月の後を歩き続ける。病室、病室、空の病室、病室。見舞いの客と話す患者、眠る患者、虚空を眺める患者。初めて来た場所に、刹華はえも言われぬ息苦しさを覚えた。
「ここだよ。あまり騒がないようにね」
『烏丸翔悟』と書かれたネームプレートの部屋の前で二人は立ち止まり、羽月がスライド式のドアを開ける。その個室には、一人の少年が機械に繋がれて眠っていた。中学生くらいの年齢だった。
「私の弟。車に撥ねられちゃってね」
「……そうか」
遥か昔に過ぎてしまった過去のように、もう何も感じていないかのように、羽月は落ち着いた調子で語る。
「私がレッダーだって知っちゃってさ。それで……怯えちゃって、私から逃げてる時にね。全く、追い駆けなければよかったよ」
羽月は椅子に座り、眠っている少年の頭を撫でる。
「それはお前が責任を感じることじゃないだろ。事故だ」
刹華のフォローに意味があるのか、刹華自身も疑わしかった。
「……そうかもしれないね。たださ、撥ね飛ばされる直前に言われちゃってさ。『来るな化け物』って。口が悪いのは前からだったけど、ちょっとショックだったな」
刹華には羽月の感情が読めなかった。今までで一番、得体の知れないもの。ただ、それが悲哀に満ちていることだけは肌で感じていた。
「私が化け物だとしても、それ自体はそれで構わない。だけど、私の可愛い弟が、自分の姉がただの化け物だって思いながら、話もできずに死んでしまうのは嫌だよ。耐えられない……」
静かな病室。羽月が少年の髪を撫でる音がはっきりと聞こえる位に、静謐な空間。その中で刹華は、ずっと黙っていた。ずっと、二人を眺めて黙っていた。
「……帰ろうか」
不意に、羽月が口を開いた。
「もういいのか?」
あまりに短い時間だった。
「うん。長くいても、別にこの子の目が覚める訳じゃないし。それに、いろんなこと考えて泣いちゃうかもしれないし」
泣いていい。刹華はそう言おうとしたが、言えなかった。
「ごめんね。付き合ってくれて、ありがとう」
「……気にするな」
扉が近かった刹華は、帰る前に眠る少年を一瞥し、病室から出た。それに続いて、羽月も病室を後にする。「ごめんね」と、言い残して。
「一命は取り留めたんだけど、意識が返ってこなくてさ。難しい手術が必要なんだよ」
羽月は帰り道で、ぽつりぽつりと話す。
「手術しても目覚めるか怪しいのに、手術にかかるお金が大体三百万。おまけに手術するまでの延命措置の分も見当がつかない。そうなると、特に豊かでもない両親は諦め気味なんだ。私が説得するのも、いずれ限界は来ちゃうし」
「借りられないのか? 親戚か誰かに」
刹華は思いついた案をそのまま口にする。
「駄目。私の両親は親戚と仲が悪くてね。生きられる可能性も低いみたいで、金貸しからお金を借りる気もないみたい。未成年の私だと、まともにお金を借りられないし、借りられても到底額が足りないよ。ヤクザから借りるみたいな自殺行為ができるくらい、私が馬鹿だったら良かったのかもね。もしかすると、それが出来ない私は、本当はあの子を心の何処かで諦めてるのかもしれないね」
「そんな訳ねぇだろ」
刹華は即座にその推察を叩き切った。
「お前が私を脅してでも、お前が他人から見たら馬鹿げてるような選択に賭けてでも、お前が自分の身体を壊してでも、助けたい命なんだろ。じゃなきゃ、自分勝手なお前が、まだ熱も引ききってない身体でお見舞いなんか来るかよ。自分の気持ちを見下すな」
羽月は、黙って刹華の言葉を聞いていた。
「夜の捜索は一日交代でやるぞ。身体壊しそうな時は休みながらな。後ろ向くのは、最善を尽くした後だろ」
羽月が何を考えているのか読めないまま想いをぶつけた刹華は、羽月の横を歩き続ける。風が優しく吹く帰り道を、二人は黙って歩き続ける。
「……自分勝手は余計でしょ」
羽月がやっと口にした言葉はそんな文句だった。
「悪かった」
無愛想な返事ではあったが、羽月はそれを気にしなかった。
しばらく羽月は刹華の横を何も言わず歩いていたが、不意に刹華の肩を握り、自分の前に無理矢理動かす。
「……なんだよ」
「なんでもない。そのまま振り向かないで歩いて。ちゃんとついていくから」
何のことか分からないまま、不都合もないのでそのまま歩く。昔、歩くのが速いと言われたことを思い出しながら、ゆっくりと。
「……ありがとう」
その声色を聞いて、刹華はようやく理解した。
「……今日は、いい天気だね」
雲一つない青空が広がっていた。
――青暦二四四二年
ヒグレカササギ、産業の発展に伴う環境汚染により絶滅。
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