言葉・夢を追う・潔癖
私の彼氏は、夢追い人だ。
この世界は一に修行、二に修行、三に修行だというのが彼の口癖で、ほとんど毎日休みなく朝から晩まで師匠の下で修行に励んでいるそうだ。たまにしかない貴重な休みを私のために費やしてくれるのだから、本当に素敵な男性だと思う。
職人というのは『見て盗め』とよく言うそうで、実際にモノに触れて鍛錬するまでに数年はかかるそうな。私には理解できない世界だが、楽しそうに修行のことや師匠のことを離す彼を見ていると、私は何も言えなくなってしまう。
私と彼が付き合いだしてからもう十年弱となるが、彼は未だに見習いのままだ。もう三十歳になるのだからいい加減成果の一つでも出してほしいのだが、やはり職人の世界は厳しいらしい。ただ、修行に精を出してそれに一切の愚痴をこぼさない聖人のような彼が私は好きなので、これでもいいのかなとも思ったりする。
「ようやく実技をさせてもらえるようになったんだ。師匠の次に披露するのは、やっぱり君がいい」
結婚やら出産やらという形式があろうがなかろうが、夢を追う彼に一生寄り添っていきたい。そんなことをぼんやりと考え始めたある日のこと、声を上ずらせた彼氏からそんな電話があった。
十年の修行がようやく実を結んだのだ。
彼の昂る感情はスピーカー越しでも十分に伝わってきた。
そして、その成果をまず私に振舞ってくれるという。
嬉しいやら申し訳ないやらの感情が入り乱れつつも、私は重い足取りで彼氏のいる店の暖簾をくぐった。
「いらっしゃい。今日は来てくれてありがとう」
真っ白な調理衣に身を包んだ愛しの彼が、カウンターの向こうで私を出迎えた。
「ようやく握らせてもらえるようになってね。師匠の許可も得たから、まずは君に食べてもらいたいんだ」
彼の追っている夢とは、寿司職人である。
皿洗いのみを数年こなし、それからようやくネタについて学べるにようになって数年。十年近くの歳月を経て、彼はようやくその一歩を踏み出したのだ。
「ささ、座って座って」
彼に促されるまま、カウンター席に腰かけた。
ここには初めて訪れるが、店内には師匠おろか他の従業員の姿も客の姿もなく、私たちのみしかいない。水槽の音だけがこの和風の店内に響き、異様な雰囲気が漂っている。
「十年近くも君を待たせてしまった。今まで僕を支えてくれてありがとう。言葉だけじゃ僕の気持ちは伝えきれないから、僕の思いもシャリに込めて君に送るよ」
満面の笑みを浮かべたかと思えば一転、真剣そのものな表情で寿司を握り始める。その手さばきは、素人目に見ても手際がよいと感じた。
「君と初めて会ったのは、高校の時だったね。文化祭の準備の時に初めて君に声をかけられて、僕は君に一目惚れしたんだ。まるで心が、『トロ』けてしまいそうだったよ」
聞いているこっちが恥ずかしくなるような台詞を言いながら、私の前に中トロが置かれた。
「それから仲良くなって、卒業式の日に僕から告白をした。校舎裏の桜の木の下だったよね。泣きながら君が受け入れてくれて、そのまま初めての『キス』をしたんだよね」
ことり、とキスの天ぷらが置かれる。
「それから僕は寿司職人の夢を追って、中々会えなくなってしまった。何年も何年も修行に明け暮れても、君は僕のことを応援してくれた。感謝の言葉は『イクラ』あっても足りないよ」
流れるような手つきで握られたイクラの軍艦が置かれる。
「僕は君を愛している。寿司職人になる夢が叶うその日に、言おうと思っていたんだ。どうか僕と、結婚してください。今日を僕たちの、めで『タイ』日にしよう」
最後に差し出されたのは、鯛の握り寿司であった。
なるほど、ちょっとクサい感じはするが、彼らしい。言葉に乗せて寿司を握るプロポーズとは。最初からこうするつもりで、店内も人払いをしていたのだろう。
握るのはシャリではなく愛、乗せるのはネタではなく言葉。第三者から見たら面白おかしくてたまらない告白だろうが、十年近くも努力を続けていた彼を間近で見ていた身からすると、思わず涙がでてしまいそうになる。
答えを、言わなければ。
夢を追っている彼にはどうしても言えなかったことと、このプロポーズに対する私の答えを。
彼は寿司のネタにかけて私に愛を伝えてくれた。
ならば私もそれに倣って、今までずっと言えなかったことを彼に伝えようと思う。
「ごめん。私潔癖症なの。人が握ったものを食べるなんて、とてもじゃないけど考えらない」
大将、おあいそで。
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