夜空・蜃気楼・ヤカン

 深夜の山奥、切り株に腰かけた男が夜空を見上げていた。


 別に遭難したわけでも、思い悩んで死に場所を探しに来たわけでもない。単に、自然に囲まれた中でこうして夜空を眺め、何も考えず呆けるのが好きというだけで、その行為に大した意味はない。キャンプのようなかたちで、月に一度はこうして俗世を離れるのだ。


 何時間そうしていただろうか。

 きゅう、と腹の音が鳴ったことで、自らが空腹であったことに気が付いた。


 のそりと思い腰を持ち上げて、持参した鞄を漁る。そこから、やかんとガスコンロ、水とカップ麺を取り出した。

 キャンプというと、釜やら鍋やらで凝った料理を作る者も多いが、男はそういったことには興味がない。腹が満たせればそれでよいのだ。それに、夜空を眺めながら食べる即席麺も中々オツなものだ。海で食べる握り飯が美味く感じるように、祭りの出店で買った焼きそばが美味く感じるように、自然で食べるカップ麺も心なしかいつもより美味に感じる。


 やかんに水を入れてコンロに火をつけると、やがてすぐにそれは沸騰をはじめ、煙を噴き出した。この澄んだ山の中では、それはまるで霧のようにすら見える。


「いや、おかしいな」


 しかしすぐに、男は異変に気が付いた。

 やかんから噴き出た煙にしては、量があまりに多すぎる。煙と言うより霧、切りと言うより蜃気楼に近かった。


 やがて辺りは蜃気楼の如くぼやけ、周囲がもやに包まれてしまったかのように見える。


「ここに人間がひとりで来るだなんて、珍しい」


 ぼやける景色の中、やがて目の前にうっすらと人影が現れた。


「あなたは?」

「私はこの山の精霊よ」


 それは段々と濃くなり、次第に女性のシルエットが浮かび上がってきた。

 和服に身を包んだその女は、自らを山の精だと名乗っている。確かにその装いはどこか浮世離れしているし、この蜃気楼にも霧にも似た世界から現れたこともあって、それはすんなりと受け入れられた。


「その山の精霊とやらが何の用ですか」

「受け入れるのが早くて助かるわ、どうやら見込み通りの男みたい。この山であなたを時々見かけていてね、ちょっと目をかけていたの。用というのは他でもないわ、私の悩みを聞いてほしいの」


 はあと大きく溜息をついた森の精霊は、そう言った後に男の横へ腰かけた。

 他人の悩みなど――それも精霊を名乗る者の悩みに耳を傾けられるほど自分はできた人間ではないけど、とも男は思ったが、とにかく聞いてみることにした。


「私はね、『性』について悩んでいるの」

「せい?」

「『性』、よ。『さが』の字の方よ。精霊の方の『精』じゃないわ」


 何のことだと思わず聞き返した男に対して、ああ、と苦く笑った精霊は慌てて付け加える。


「私はこうして女の姿をしているけどね、精霊っていうのは性別はないのよ。そういうものを超越した存在だから。けどね、私はとある人間の女に恋をしてしまったの。精霊が恋だなんて聞いたこともないし、そもそも私には『性』とかって概念はないし、おかしいことだとはわかっているの」


 もじもじと体をくねらせながらそう語る森の精霊は、恋をする女子そのものにしか見えない。女子にしか見えないこの精霊が、人間の女に恋をしているという。傍から見れば同性愛のそれであるが、実のところ種族すら超えた感情であるという。


 あまりにも答えづらい悩みということもあって、男は押し黙ってしまった。


「ごめんなさいね。こんな話をして。でもあなたたち人間の世界では、そういう人とは変わった『性』も受け入れられているんでしょう? 男の体で女の心を持った人とか、その逆のとか。男でも女でもない精霊は、人間に恋する精霊の性は、何て名称になるのかしらね」


 確かに、その『性』に対して、なんて名前をつければいいのだろう。

 昨今ではLGBTだなんて呼ばれ方もしているが、俗に言うオカマとかオナベとか、そういう存在とはまるで違う。


 であれば、この精霊の『性』に、どんな名前をつければいいのだろう。すっかり考え込んでしまった男は、唸りながら頭を下げると、とあるものが目に入った。


 『オカマ』でもなければ『オナベ』でもない、とすれば――



「ヤカン、とか……」


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