第9話 孔雀

「ガーリーと言えば、あのエロイカことボナパルト将軍に、新しい異名がついたようなのです」

 マリーが首を傾げポニーテールを右へスライドさせる横で、フレッドは眉間にかすかに皺を寄せた。

「ああ、聞いた。俺の不快な異名に対抗してきたな」

「不快な異名って……不敗の大蠍?」

「そうだ。何が不敗だ、ライン川に沈んだ部下たちに、ずっと責められている気分だ」

 右手が忙しなく前髪をかき上げ、心底からの不愉快さを露にする。マリーが控えめに苦笑を浮かべ、ニメールの方を向く。

「で、エロイカの他に、どんな異名がついたの?」

 名誉元帥はソーセージをもぐもぐしながら、数度首を縦に振る。それから口の中身を飲み下すと、いたずらっぽく笑った。

「マリーさん。蠍の天敵ってご存じです?」

「えー? ……高電圧?」

「いや、それは大体の生き物がそうなのです」

 電気工学者の天然回答にツッコミを入れ、軌道を修正する。

「天敵なので、生物なのです」

「……人間?」

 不機嫌な表情をしていたフレッドが、思わず吹き出す。皮肉屋な彼には、ブラックジョークがツボなようだ。が、マリーは冗談を言ったつもりはないようで、急に吹いたフレッドの横顔を不思議そうに見上げた。

 ニメールは、個性の濃すぎる大人二人を前に咳払いし、首を横に振る。

「ち、違うのです。孔雀なのです! Leル・ Davidダヴィッド紙が、シュトゥルムガルトの戦い終盤で、ボナパルト将軍が電光石火の機動力を発揮して、かの前進連隊に損害を与えたことを讃え“天翔ける孔雀”と評したのです。“不敗の大蠍”への有力な対抗馬として、この異名、ガーリーでは早くもすっかり定着したようなのです」

 へえー、とマリーが半端なあいづちをうつ。フレッドは何度か前髪をかき上げると、付け足すように口を開いた。

「シュトゥルムガルトの戦いに限らず、そもそもボナパルト将軍と彼の率いる第二機甲師団は、機動性の高さを最大の強みとしている。そして、ボナパルト将軍は……今のところ、主要な敵指揮官の中で俺との対戦経験が最も豊富だ。1944年の頭くらいに初めて戦って以来、もうすぐで二年近くになる。ライン撤退以前、ガーリー国内を転戦してた際には、彼の部隊に戦術を駆使して対抗していたが、合衆国軍の圧倒的な物量も相まって、結局は何度も戦略的撤退を強いられた。黒の森作戦でやっと勝てたと思ったが、ボナパルト将軍の師団の一部は、こちらの包囲を食い破って逃げていた。それで、今年の8月には黒の森で危うくスコーピオンを撃破されかけるし、この前はアレクが餌食になった。思い返せば、たしかにボナパルト将軍には幾度となく辛酸を舐めさせられている。天敵と言われても仕方ない。そんな彼の指揮の特徴である機動性と、俺との対戦成績を踏まえて“天翔ける孔雀”なんだろうな。まったく、嫌なことを思い出させる名だ。輪をかけて不愉快だ」

 そう言って元帥が鼻を鳴らす。と、マリーが純粋な瞳で横から見上げた。

「ウルムでブレナム公も苦手な相手だって言ってたけど、ボナパルト将軍はそれ以上の天敵なの?」

 フレッドは即座にうなずく。

「ブレナム公への苦手意識は、結果的に盤上のものに過ぎんかった。くせ者ではあったが、実際戦った結果は二戦二勝で、今や捕虜にしている。しかし、ボナパルト将軍は実戦において、たしかに負けたことはないが、いつも勝ちきれんのだ……。二年間戦って一度も完勝できていない相手は、今のところ彼だけだ。他に戦った指揮官は、概ね一年を待たずみんな死んでしまうか、捕虜になってしまった。ああ、最近じゃ更迭されたのもいたな」

 唇の端をねじ上げて笑う。ニメールが真剣な面持ちで呟く。

「“天翔ける孔雀”は、恐るべき相手なのですね……」

 しかし、フレッドは前髪をなで上げつつ、再度口を開く。

「まあ、とは言え、たしかに機動力は一流だが、戦術は二流、戦略は三流で正直俺には及ばないと思ってる。だからこそ、あまり強敵とは思ってなかったんだが、あらためて現実を振り返れば、警戒すべき相手と言わざるを得ない、ということだ。それに、戦術・戦略は優秀な参謀を部下に持てば、それで事足りる。もっとも、ガーリー軍にそのような人材が果たしてどれほど残っているか、疑問ではあるがな」

 およそ一年前、自らの手でガーリー軍を含む西部戦線の連合軍を撃滅し、花の都パリスまで押し入った人間の言葉は説得力がある。ニメールは、今度は満面の笑みを浮かべ、力強く首肯した。一方、元帥の右隣でコーヒーをすするマリーは、彼の珍しく自信満々な様を、珍獣を見るような目をして見つめていた。

 フレッドは何食わぬ顔でコーヒーカップを傾けると、目を閉じたまま口を開く。

「目は口程に物を言う、とは言ったものだが、ぜひ口に出してほしいものだな。マリー」

 名を呼ばれ、技師ははっとする。ニメールが元帥と技師を交互に見つめた。マリーは一つ嘆息しカップを置く。

「一々気にし過ぎよ。単に自信満々なフレッドが珍しかっただけだわ。と言うか、意味深な皮肉を吹っ掛ける前に、自分の普段の振る舞いを反省しなさいよ。ほんといっつも暗いんだから。絶望節のフレッド、っていう異名がないのが不思議だわ。……もう、本当に普段からもっと自信を持ってくれればいいのに。相応の実力があるんだし」

 逆ギレのようにも思えるお節介に、フレッドは感ずるところがあるのか、特に反論せず黙って頭を数度かいた。

 ニメールが二人を見つめ、唇をゆるめる。

「なんだか、マリーさんと元帥って、お姉ちゃんと弟みたいなのです!」

 フレッドが傾けたコーヒーカップの中で勢いよくむせ返し、マリーは目をかっ開く。

「冗談じゃないわよ! 私にとって弟は、フリッツただ一人なんだから! こんな皮肉屋で拝金主義で悲観的な男に、お姉ちゃんだなんて呼ばせないわ!」

「安心しろ。こっちから願い下げだ。お前さんみたいな天然で能天気な楽天家には、現実主義的かつ合理主義的な俺の姉は務まらんよ。血が違い過ぎる」

「言い草が気になるけど、結論は一緒だしまあいいわ。それより、おでこにまでコーヒーが飛んでるわよ」

 カップを口に運びつつ横目に見上げて指摘すると、うん? と唸ってフレッドが袖で額をこする。それを見て、マリーは、ああもう、袖でこすったら汚れるじゃない、と言って辺りにタオルを探すが、合理主義者は、黒いスーツなんだからコーヒーの染みなどできんよ、ともっともらしく返す。

 そんな姉弟のような微笑ましいやり取りを、ニメールがにやけながら見守っていると、社長室の扉が控えめに叩かれた。

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