第17話 夏の夜雨…ライン撤退作戦の悲劇

「もともと足回りが不調を抱え出してたところに、泥でとどめを刺され立往生。仕方なくシャーク中戦車を給油に行かせた……というシナリオに確かにしたが、本当にひどいぬかるみだ」

 小雨が降る中、フレッドは足元を見つめ呟いた。

 崖下で“立往生”しているスコーピオンの周りに、少々歓迎の演出を施していたら、すっかり森には夜が訪れていた。敵を待つ間、しばしそのまま車外で小休止を取る。戦車の上に置いたランタンに羽虫がぶつかる。フリードリヒスハーフェンで手に入れた缶詰を各々黙々と頬張っていく。当然缶の中に雨水が溜まっていくが、それでも狭い戦車内で食べるよりは気が紛れていい。たとえ肩を濡らし、足を泥にのまれ、上下から水攻めを受けているような状況でもだ。

「冷製ポトフができそうね」

 マリーが野菜の缶詰をスプーンでほじくりながら肩をすくめる。

「焚き火でも起こせないかしら」

「熱湯なら、そこのボイラー内にあるぞ」

 豆の缶詰を頬張りながら、スコーピオンの黒い胴を指す。夏の夜雨の中でも、細い煙突から白い蒸気が二筋、砲塔の後頭部をかすめながら、ほっそり立ち昇っている。

「遠慮しとくわ。私がもらっちゃったら、スコーピオンがお腹を空かすもの」

 母親かよ、と静かにツッコミを受けるが、女史はそりゃそうでしょ、と真顔で応じた。フレッドは思わず苦笑いを浮かべる。カールは魚の缶詰を開けながら、冗談めいたやり取りをする二人を黙って観察する。その脇にたたずむニメールが、ぶるっと体を震わせた。

「大丈夫、ニメールちゃん? 寒くない?」

 しかし、小さなレジスタンスリーダーは首を横へ振って笑顔を見せた。

「寒いのは平気なのです。ただ、少し武者震いがしてしまいまして」

 ニメール同様、早々に缶詰を食べ終わったシモンが、戦車にもたれかかりながら無言で少女を見つめる。

「これからスコーピオン一両で、連合王国軍の戦車隊を相手取ると思うと、緊張するやら興奮するやらで、心臓がばくばくなのです」

「アドレナリンが出てる証拠だ。運動能力と集中力が向上する。ある程度の興奮は良いものだ」

 フレッドが落ち着いた口調で言って微笑む。焦がれていた英雄からのスマイルに、ニメールの心拍数は一段と上がった。

 一方、マリーはにやにやして尋ねる。

「そう言うフレッドは、全然アドレナリン出てなさそうね。大丈夫なの?」

「指揮官が熱くなっては、勝てるものも勝てん。指揮官が冷静であれば、無駄死には出ないんだ。そう、本当に……」

 声がしぼむ。続いて深く嘆息した。ニメールが驚いて将軍を見上げ、カールはじっと彼の顔を見すえる。シモンは微動だにせず耳だけ傾け、マリーは缶詰を頬張りつつ首を傾けた。

「何かあったの……?」

 しばらく言いづらそうに唇を引き結んでいたが、四人の注目に耐えきれず、もう一度ため息をつくと、ようやく口を開いた。

「あまり楽しい話題じゃないが――。1944年の初春、西部戦線での話だ。知ってるとは思うが、その頃の西部戦線は戦略的な敗北の連続だった。前年6月に合衆国軍を主体とした連合軍が、ガーリーのノルマンディーより大兵力で上陸。水際の防衛線はすぐに破られたが、これ以上の進撃は許すまいと第七装甲師団を率いて火消しに回った。シモンはその頃から一緒だったな、だからもう分かってるだろうが――何とか半年ほどは沿岸部に押し留めていたものの、時間とともに国力の差が歴然となってきてな……年が明けるとパリスも奪還され、ぐいぐいライン川へと押し戻されていった」

 マリーが缶詰をほじくる手を止める。

「撤退に撤退を重ね、もとい公式には“転戦”を重ね、我々装甲師団は、ついにライン川に到達してしまった。もう川を渡って逃げるか、川を背に玉砕するか、二つに一つだ」

「出てたのは、川の西側での死守命令じゃないの?」

「もちろん、あの総統はそう命じたさ。だが、総統がいかに魅力的なちょび髭を生やしていようとも、師団の勝利にも将兵の生存にも貢献しない。そんなでくの坊を大切にして、自分たちが命を落とすなんて、まったく非合理的だ……と部下の前で実際に言ってやった」

「え、言ったの!?」

「言ってやったさ」

 よく撃たれなかったわね、と目を丸くする。ところが、フレッドは笑って肩をすくめた。

「それどころか、拍手喝采だったよ。祖国の家族を想うやつはいても、祖国の玉座を守ろうというのはそういないからな。それで我々は、死守命令に気が付かなかった振りをして、ライン川に残された数少ない橋から、雨降る夜分に総退却することにした」

 時期は早春。歴史上ガーリーとプロイスの自然国境を成してきたライン大河は、アルプス山脈の雪解け水と、一週間降り続いていた長雨で、大増水していた。

「早速師団の戦車部隊が橋を渡って、ライン川の東へ脱出を開始した。戦車の上には歩兵も可能な限り大量に乗せた。できるだけ短時間で二万人弱の将兵全員が渡り切れるようにな。最初は首尾よくいっていたが、突然、夜の雨雲の下、連合軍の強行的な空襲が始まった。上陸作戦後およそ六か月間、あちこちで散々煮え湯を飲ませてきたせいか、一挙手一投足監視されていたのだろうな。我々第七装甲師団の退却を察知して、川の西側から東側まで満遍なく爆弾を降らされた。そして、運良く残っていた橋も、ことごとく破壊されたんだ」

「じゃあ、橋の上の人たちは……」

「冷たいライン川に真っ逆さまだ。しかも、星明り一つない完全な真っ暗闇。知覚できたのは、父なるライン川の轟々という唸り声に、東西の川岸と川の中から響いてくるつんざくような悲鳴の数々。それだけだ。それ以外、何も分からない完全な闇……。しかし、西の川岸に留まっていては再度空爆されるか、さもなくば敵陸上部隊の夜襲か包囲を受けるやもしれん。だが、橋は破壊された――そうしてパニックになった将兵らは、無我夢中で前進した」

「前進って……橋がなくなったんだから、向かう先はライン川でしょ? しかも増水中の」

「そうだ。音で分かってはいた。通常のライン川とは明らかに様子が違う。そもそも長雨で流域の降雨量が増していたし、雪解けの季節だ。そんなことは誰もが理解していた。けれど、俺自身を含め、その時は得も言われぬ恐怖心が勝ってしまった。――この結果は知ってるだろう?」

「ええ……そうね。その後に第七装甲師団に最新鋭の重戦車ティーゲル・ドライの優先的配備が決まったものね。つまり、その撤退作戦で、それだけ戦車を失ったと――」

「戦車だけじゃない。俺が統制を取るべきところ、至らず、多数の将兵を死なせてしまった。ライン川の濁流の中でな……」

 あまりあの川には近づきたくない、特に雨の日には……。顔を青くして肩を震わせる。川面から無数の手が伸びてきて、引きずり込まれる気がするから――。そう締めると、深く嘆息した。


 このライン川撤退作戦はシンプルな総退却であったはずだが、敵軍と環境に追い詰められた極限状態が将兵の理性を奪い、第七装甲師団は戦力を半数近く失う壊滅的な自滅を演じた。

 この退却戦後、そもそも死守命令に違反して撤退を決断したマンシュタイン将軍に、上層部は銃殺刑を言い渡すつもりであったが、首都の司令部へ緊急召集された彼は、亡くなった部下たちへの後悔の想いを心の奥底で痛いほど抱きつつ、表では開き直って弁解し、一命どころか、立場まで保った――ライン川を渡ったから半数の犠牲で済んだのです、と。事実、総統命令の通りにライン川の西に留まって無事だった部隊は一つもなかったし、結局マンシュタインの第七装甲師団が戦争末期最大の戦力として、黒の森作戦を皮切りに歴史に残る大逆転劇を繰り出すことになるのだから、皮肉なものだ。


「それが教訓なのね。そして雨が嫌いな理由?」

 マリーが気づかわし気に覗き込むと、フレッドは一つ首肯した。

 ところが一転、にやりと笑みを浮かばせる。

「しかしまあ、陽気なオーストライヒ人にならって明るい話をするならば――」

 技師をちらと見やると、即座に、ヴィーンっ子ね、と訂正される。

「失礼。“ヴィーンっ子”にならえば、俺もこの悲劇的な事件から、嬉しい出会いがあった」

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