36 “最期にティータイムを”
──一月十五日、夜。西方辺境、グシュタール教授の研究所。
僕は眠るミオの頭に手を当て、再度魔素流動の観測を行う。魔素防壁は使用しない。フウの整流が始まると、僕の視界には、失敗した初回の治療時に見たミオの人格である“翠緑色の宝玉”が再度姿を現した。
僕は実質的に彼女の魔素を直接操作していない。ハナと一緒に語りかけただけだ。大きな変化は期待してはいなかったが、その予想に反し、砕け散っていた欠片は周辺との癒着が始まっているように見える。心を壊す原因となる“針”を取り込んだまま。
“小さな宝玉”・・・ハナの姿はもうどこにも見えない。
──これで、本当に良かったのだろうか。未だにそう思う。そんなことを考えたところで、仕方がないことだけれども。
僕は慎重に意識を戻し、手を離す。そのまま横の椅子に身体を預け、盛大に溜息をついた。やはり、これだけでも相当疲れる。昨日は必死でそんなことを気にしている余裕などなかったが、二回も連続で他人の脳に潜れば、体力を使い果たしてしまうということにも納得がいく。
『どうかね?』
教授が僕に問う。
「治癒の兆しが見えます。人の心というのは、思っていたより強いものなんですね」
『そうとも。この子が“立ち上がるための手助け”をするに留めた君の判断、私は見事だったと思うよ』
僕の迷いを見透かしたように教授がそう言った。その横ではフウが手を胸に、改めて教授に言う。
「本当に、なんとお礼を言えばいいのか・・・」
『なに、私は僅かな知識を提供したに過ぎない。礼をするならば、実際にそれを行い、成功まで導いたユリちゃんにするべきだろう』
それを聞いた途端、フウは口をへの字に結び、横目で僕を見る。・・・そんな僕に礼を言うのが嫌か。まあいいさ。
「僕も、教授が言う通りの方法でミオの心に触れ・・・ハナの言う通りにミオを慰めただけだ。礼を言われるほどのことはしていないよ」
フウは少し驚いたようにこちらを向く。
「ハナと会ったの?」
「ああ。ハナはずっと、ミオを赦そうと努力していた。ただミオからは、ハナが認識できていなかったようだ」
フウはそれを聞き、悲しげな視線を僕から逸らした。あの善意の塊といってもいいハナが、自分を責め続ける妹を前に、ずっと手を出すことが出来なかった。その無力感は想像するに忍びない。
「ハナは言ってたよ。ふーちゃんも、べーやんも大好きだよって」
「・・・そう」
──────────
少し経ち、ティーセットを持ったベルタとバヤルが研究室のドアを開いた。
「フウ。背嚢に入っていたレッドベリーのジャムを少し貰ったぞ。茶に加えてみたらどうかと思って」
「・・・俺は、やめたほうがいいって言ったからな」
ベリーティか。ベルタにしてはなかなか珍しい工夫をしてきたようだけれど・・・バヤルの言動を見るに、うまくはいかなかったのだろう。一口啜ると、なんとも噛み合わない奇妙な甘みと酸味の組み合わせが口腔を刺激する。
「・・・この組み合わせが無理だってわかったことは、収穫ね」
「うっ・・・フウは前向きだな。いいことだ」
口を押さえながら感想にならない感想を述べる。
「悪くないと思うのだけど・・・」
僕も相当なものだと思っていたが、ベルタはそれ以上に味覚に鈍感なようだ。いや、少し僕らとは異なる、というのが正しいのか。彼女は軽くため息をつき、話を逸らすようにフウへ問いかけた。
「ああ、それで、フウ。きみとミオはアシハラへ帰るのか?」
「帰る?」
不思議そうな顔をするフウに、思わず僕が口をはさむ。
「ミオの処置が済んだんだ。王国にとどまる理由も多くはないだろう」
フウはカップを見つめ、少し揺らした。
「まあ、ね・・・でも、帰る理由も多くはないのよ。もう、わたしとミオの家も家族も、向こうにはない」
「あっ、そうだな。済まない・・・」
ベルタが少し焦るように謝るが、フウはそこまで気にしていないようだ。
「いいのよ。それに、王都に戻れば王国の臣民権ももらえるんでしょ?少しこっちで生活してみて、ミオと話して決めようと思うわ」
「そうか。なら、もう少しは一緒にいられるわけだな」
安心したようにベルタはその表情を緩ませる。僕は、やっぱりフウは強いよ、と思うが、口には出さないでおく。それなりに悲惨な自分の境遇を客観的に捉え、悲観しすぎるでもなく現実的な道筋を立てられる人は多くあるまい。
僕らの言葉が切れたことを確認して、バヤルが僕に言う。カップに手はつけていないようだ。
「ユリエル。昨日、アマルのおっさんに伝えた猶予は五日間だったよな」
「そうだな。あまりゆっくりもしていられない。明日の朝には出発したいところだ」
それを聞いた教授は、僕らに残念そうな表情を見せる。
『名残惜しいが、仕方あるまいね。今から私は消滅に備えて、後始末をはじめるが・・・君たちは風呂にでも入って、ゆっくりしていてくれたまえ。帰りも長旅なのだろう?』
そう言ってくれるが、僕はここに来てから教授が休んでいるところを一回も見ていない。
「教授は休まないのですか?」
『この身体には肉体的な疲れも存在せず、睡眠も必要としないからね』
「便利だな、俺も欲しいくらいだ」
バヤルの言葉に、教授は苦笑いをする。
『あまりお薦めすることはできないね。マナしか観ることのできない視覚を理解するのにも、物理的に紙一枚を動かすのにも、最初は数週間以上かかった。結構大変だよ。それに、本体と同時に複製体が存在すると、このような閉鎖空間ならばともかく、法の支配する外では厄介な問題も多いことだろう』
「あー・・・そうか。俺の複製を造っても、今のこの俺は俺のままこの身体でいるわけか。それじゃ意味ねえや」
笑い合う教授とバヤル。この二人は意外なほど仲が良いな。彼らの笑い声で目を覚ましたミオが上半身を起こした。
「あれ?おはよう?」
まあ、起き抜けでこの状況は少し混乱するかもな・・・。半疑問形で挨拶するミオに、ベルタがカップを差し出す。
「おい、ちょっと、それ・・・!」
「ありがとう、えーと、ベルタさん!」
僕が止める前に、ミオは勢いよくカップの中身を口に流し込む。その瞬間に動きが止まり、口いっぱいの液体を飲み込めないまま目に涙が溜まる。
「・・・大丈夫か?飲み込めるか?」
ミオは涙目のまま首を振った。ああ、桶持ってこなきゃ。
──────────
──一月十六日、朝。西方辺境、グシュタール教授の研究所。
僕らは荷造りを終え、研究所の前に立つ。ドアの内側では、少し寂しげな笑顔を浮かべる教授が僕らを見送りに立つ。こういうとき、なんと声をかければいいのだろう。僕が言葉に迷っていると、ベルタが教授へ声をかけた。
「本当に世話になった。できれば、私たちもあなたを消滅させるようなことをしたくはないのだけど・・・」
『いやいや。実に、実に楽しい二日間だった。私はこのように賑やかで楽しい最期を過ごせるなどとは、夢にも思っていなかった。君たちには、感謝しているよ』
「・・・教授」
そうだ。僕には、伝えなきゃいけないことがひとつあった。
「バルトリア博士が、一言、謝りたかったと・・・」
『・・・なんと、バルトリア氏はご存命でおられたか!』
「教授のことを教えてくださったのは、バルトリア博士とルクセンハイザー教授です。博士は残念ながら、僕らが会った後に・・・」
『そうか・・・伝書鳩のやりとりが突然止まってしまったからね、既に亡くなっているものとばかり思っていたが・・・。エーリカ君・・・ルクセンハイザー教授は、元気だったかね?』
「ええ、とても。立派なお孫さんもいますよ」
教授は目を閉じ、しみじみと頷く。伝書鳩のやり取りが途絶えたのは、低魔量地帯が上空にまで広がり、鳩がそれを突破できなくなったからだろうな。
『バルトリア氏と私が、雲の上で再会していることを願おう。・・・とすると、複製体であるこの私たちは、消滅したらどこへ行くのだろうね』
教授は少しだけ不思議そうな表情を見せるが、穏やかな笑顔で頷いた。
『では、それを実験してみるとしよう。頼んだよ。ユリエルくん』
僕は、姉を消し去ったこの手で、恩人すら消し去るのか。
手にした宝玉を石畳の上に置く。ナイフの柄を握る僕の右手が少し震える。左手で手首を掴み、思い切って、それを叩き割った。
・・・笑顔を湛える教授の影が薄らいでいく。やがてそれはただの煙となり、立ち消えた。
ひとつ深呼吸をする。僕はモノクルを調節し、魔素の観測を開始した。
「・・・今の所変化があるようには、見えないな」
「とりあえず、カルデラの縁まで移動しよう。何かわかるかもしれない」
ベルタの言葉に頷き、僕らは研究所をあとにした。
さようなら、グシュタール教授。
──────────
──一時間後。
僕はカルデラの縁にしゃがみ、“春の森”を眺める。どうにも、嫌な予感が走り始めていた。
ミオの治療前に、教授と話していた内容だ。
ウスデンに低魔量地帯が生じた理由。それは、環境魔素を研究所に集めた結果、周辺の環境魔素濃度が薄まったというものだ。
教授に相談したい。でもその教授は僕が自分の手で消し去ってしまった。
僕が嫌な汗を流しながら考え込んでいると、頭の中に“言葉”ではない・・・言葉の原型・・・?言葉の“意味そのもの”が流れ込んでくる。幻聴を疑ったが、周りを観ると全員が青ざめた貌で空を見上げる。
僕も上を見る。竜が、カルデラに向かって急降下をしてきていた。
頭に流れ込んでくる言葉の原型が強くなる。その意は。
“にげて” “いますぐ” “ここから”
「バヤル!馬車の準備を!」
「おいッ!何だ今のッ!」
「何でもいい!多分なにかヤバいことが起きる!」
「急いで!ミオも!」
慌ただしく馬車を走らせる後ろで、竜が飛び込んできた勢いのままカルデラの底へ消えていく。少し経つと、聞いたこともない低い音が、地の底から響いてくるのがわかった。
「くそッ!何だよ!何だよこれぇ!」
「僕が知るかッ!」
こういう時に一番冷静なのはベルタだ。
「火山で地面から音がするんだ!噴火しかない!可能な限り急いで
まったくもってその通りだが・・・なのだが・・・ウスデンの山腹には・・・
「冷涼なる月光一族・・・!」
「そうだ!おっさんに伝えなきゃやべえぞ!」
僕は急いで環境魔素を周囲に保持する。後ろを見ると、カルデラの縁に消えていく“春の森”が、うねる地面に飲まれていく瞬間が目に焼き付いた。
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