壊れゆくセカイ

変化する日常

 「う……ううん」


 「まぁ、兄さん。すっかりとお寝坊さんですね。仕方ありませんわね、目が覚めるまで燃えるような熱いキッスを……」


 「はいはい!起きる起きる。起きますよ」


 ある種の殺気に跳ね起きた僕。その枕頭には不機嫌そうにあからさまな舌打ちをする秋穂。うん。いつもどおりの光景だ。こうして毎朝毎朝、これが日常だと確認するのが日課になっていた。


 ニセシュンスケとの壮絶な戦いの後、僕は非常に敏感になっていた。何か世界に変革が起こっているのではないと……。


 しかし、今のところ、それは杞憂だった。ニセシュンスケ戦以前の変わらない日常がかれこれ一週間続いている。これだけ時間が経過すれば一安心してもいいのではないかと思う反面、どうにも胸騒ぎというか、嫌な予感がしてしまうのであった。


 その原因ははっきりとしている。ザイだ。世界を混乱に陥れている張本人。あの薄気味悪い風貌を思い起こすだけで背筋に寒いものが走った。ニセシュンスケはいなくなったが、まだザイがいるとなると油断するわけにはいかなかった。


 「ま、あまり深く考えても仕方ないか……」


 少なくともこちらからできることはなにもないのだ。まだ居座ろうとする秋穂を追い出しながら、今は注意を怠らないようにするしかないのだと思った。




 「……おはよう」


 「お、おう。おはよう」


 僕がキッチンに入ると、すでにカノンがいた。僕の姿を見ると、カノンは小さな声で挨拶をして、そのままそっぽを向いた。僕もどうにもカノンの顔を直視できず、彼女の正面に座りながらも、普段は読まない新聞を手にしていた。


 「なんやなんや。二人揃ってその意識しあった態度は。妬けるねぇ。ひゅーひゅー」


 カノンの横で下手な口笛を鳴らしながら冷やかすレリーラ。そんな冷やかしをするもんだから、カノンは赤面し、俯いてしまった。


 そうなのだ。ニセシュンスケ戦以後、明らかに変わったのは、カノンとの関係だった。僕はカノンへの熱いを思いを露にし、カノンもそれに応えてくれた。明確に口にこそしなかったが、お互いに対する愛を確認しあったようなものだった。それが今更になって恥ずかしくなりつつも、相手を意識せずにいられないという状態であった。


 「愛は偉大やなぁ。あんだけ反発しあっていた二人がいつの間にかお互いを愛してしまったんだから、世の中分からんもんやな」


 コンロの前で鍋の火加減を見ている秋穂を意識してか、小声で冷やかし続けるレリーラ。確かに秋穂には聞かせられんな。


 「先輩……いい加減にしてください」


 「別にええやん。好きなんやろ、兄ちゃんのこと」


 「先輩、いい加減に」


 「ええんやで、ここで熱いキスをしても。オレが許しちゃる」


 「先輩、殴りますよ」


 「殴られてもええよ。可愛い後輩のためや。愛に生きる後輩のために、オレは犠牲になろう」


 「おい、レリーラ。お前、言っていることが滅茶苦茶だぞ」


 「おーおー。顔を赤くして。乙女なんやね、カノンも」


 僕の突込みを無視して、カノンをからかい続けるレリーラ。このままでは本当にカノンがレリーラを殴りかねないぞ。


 「レリーラ。そのへんにしておけ」


 「兄ちゃんも遠慮せんでええで。ここでぶちゅーって熱い口づけをしても……」


 「聞き捨てなりませんわね」


 凍てつくような声が降りかかってきた。秋穂だ。落ち着いた動作で味噌汁の入った椀を並べていくが、絶対零度と称される眼差しは、終始怒りに燃えたままレリーラに向けられていた。


 「誰と誰が熱い口づけをするんですか?教えていただけますか、レリーラさん」


 「いや……あの、その……」


 「ぜひ教えていただきたいものですわね。教えていただけないのなら、今晩のおかずはタコのカルパッチョにしますわよ」


 「た、タコはいやや……。でも、こればかりは教えられん。今晩のおかずは我慢する」


 「強情なことですこと。分かりましたわ。今晩のおかずはとんかつにいたしましょう」


 「ほんまけ?どうしたんや、アキホ姉ちゃん。女神にでもなったんか?」


 「その代わりと言ってはなんですけど、今日の買い物手伝ってくださいませんか?」


 「なんや、そんなことか。ええで。どうせオレはずっと家におるわけやし」


 「ありがとうございます。では、今日の夕方五時にマルヤスの鮮魚売り場でお待ちしておりますわ」


 「え?」


 「何かの拍子にタコやイカの水槽に落ちてしまうこともあるかもしれませんけど、それは不幸な事故です。さてさて、今日のお買い物が楽しみ……」


 「か、確信犯やんけ!兄ちゃん、カノン。何とかしてくれ!」


 レリーラが必死の形相で助けを求めてきたけど、僕もカノンも無視をした。僕達をからかった罰だ。カノンも同じことを考えたのだろう。僕と目が合った瞬間、くすっと笑った。




 このように普段の日常を過ごしながらも、僅かばかりの変化があった。カノンとの関係もそのひとつであり、もうひとつ、僕にとっては重大な変化があった。


 千草さんへの感情である。


 僕は、ニセシュンスケとの戦いの中で、千草さんの僕への思いというものを知ってしまった。彼女が僕にほのかながら好意を持っているのではないかとは思っていたが、あそこまで情熱的で積極的なものであったとは思いも寄らなかった。


 尤も、千草さんの口から聞いたわけでも、態度で示されたわけでもない。あの世界でのことは、あくまでも千草さんの潜在的な願望が妄想となり、それをニセシュンスケが改変しただけなのだ。しかし、それでもあれが千草さんの思いであるのには間違いなかった。


 日常の生活に戻って改めて思うと、僕は千草さんのことをよほど苦しめていたのだろう。そして、あるいはこれからも彼女を苦しめていくかもしれない。


 そう。僕の好意の対象は、今は千草さんからカノンへ移っていた。ニセシュンスケの作り上げた妄想世界でのこと知らない千草さんは、今までどおり僕に接してくるが、その度に僕は申し訳ない気分になり、苦しくなった。彼女の狂おしいまでの本心を本人の与り知らぬところで知ってしまいだけではなく、今となっては彼女の好意に応えることができないのだ。


 「最近の新田君、元気ありませんね」


 千草さんが心配そうに声をかけてくる度に、僕は取り繕うように愛想を振りまいてしまう。それがわざとらしく見てるのか、千草さんは一度も得心してくれなかった。カノンが戻ってきてくれて嬉しいけど、僕の日常が僅かながら変化してしまったこと認めざるを得なかった。


 「俊助。あんた何かあったの?」


 そんな日々が続いたある日の放課後。僕は美緒に呼び出された。


 「何かあったって……。それはこっちの台詞だ。わざわざ体育館裏なんかに呼び出して。一昔前のヤンキー漫画か」


 「そうやってはぐらかす手口。何かあった時の俊助がいつも使う手よね」


 流石幼馴染を自称するだけのことある。なかなか鋭いところを突いてくる。


 「単刀直入に言うわ。千草さんが心配しているのよ。最近の俊助、元気ないって」


 別に元気がないわけではない。千草さんを目の前にしてしまうと、以前とは別の意味では動揺し、直視できなくなっているだけだ。


 「私は全然気づかなかったけど、さっきのはぐらし方を考えると確かに様子が変よね。千草さんの方が先に気づくなんて、ちょっと悔しい」


 美緒が下唇を少し噛んだ後、それで、と言葉を続けた。


 「何があったの?」


 「何もない、以上だ」


 僕はさっさと立ち去りたかった。これ以上の美緒との会話は無益だし、痛くない腹を探られてぼろを出してしまうわけにもいかなかった。


 「待ちなさいよ!」


 美緒が僕の手を掴んだ。カノンに勝るとも劣らない馬鹿力だ。か弱い僕では振り払うことができなかった。


 「いつだってそうよ……。俊助ははぐらかしてはぐらかしてはぐらかして……」


 美緒は何故だか泣いていた。涙を見せられては、立ち去るにも立ち去れないじゃないか。


 「気がついているんでしょう?私の気持ち。幼馴染というほどの距離感じゃないのに、幼馴染と言い張ってずっと付きまとってきたんだから、気がつかないほうがどうかしているわよね」


 僕は返答できなかった。美緒のいくことがまったくそのとおりであり、そのことはニセシュンスケにも指摘されたことだった。


 「ちゃんと言葉にしなきゃ駄目?今日呼び出した目的は違うけど、この際だから……」


 「美緒。やめておけ」


 「俊助?」


 「言ってしまうと、後に戻れなくなるぞ。お互いに」


 「それってどういう意味?」


 「言っても今以上の関係にはなれないってことだ。それどころか、お互い気まずくなるぞ」


 告白の断り文句としては最低かもしれない。でも、今ここではっきりと言わないと、将来的に美緒を今以上に傷つけてしまうかもしれない。僕はもうはぐらかすのをやめた。


 「しゅんすけ……」


 「すまん」


 美緒の手の力が緩んだ。僕は美緒の束縛から逃れた。


 「そっか……。そうだよね。はぐらかすってことは、私に異性としての興味がないってことだもんね」


 「美緒……」


 「俊助、最後の一つだけいい?」


 「一つだけ?」


 「俊助のばかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」


 美緒の渾身の右ストレートが僕の頬をえぐった。壮絶な痛みと共に、ひとつの問題に決着がついた気がした。僕の日常が間違いなく変化しつつあった。

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