懺悔~前編~

 カノンが消えた……。僕はその事実を自分の中で咀嚼できず、カノンが消えた、とうわ言のように繰り返し呟いていた。


 「兄さん、昨日から騒々しいですよ」


 秋穂に声をかけられ、僕はようやく我に帰った。秋穂が心配そうに見下ろしていた。


 「秋穂……カノンが消えた……」


 「カノン?誰ですか、それ?またアニメのキャラクターですか?」


 レリーラが消えた時と変わらぬ反応だった。やはり秋穂の記憶からもカノンの存在は完全に消えていた。


 「違う!カノンだ!昨日、いや今朝も……」


 今朝?今朝、カノンいたのか?そう言えば、どうして今日はカノンと一緒に帰ってこなかったんだ?そもそも一緒に登校したのか?カノンの記憶はあるのに、今朝カノンがいたどうかの記憶があやふやだ。


 「秋穂、今朝カノンと飯を食ったよな」


 「兄さんいい加減にしてください。どうして私がアニメキャラと朝食を共にしないといけないんですか?気持ち悪い妄想はやめてください」


 「そうじゃない、そうじゃない……」


 妄想?そうだ、妄想だ。カノンが僕の妄想の産物だとすれば、消えたとしても『創界の言霊』の力で復活させることができるのではないか。僕は猛然と立ち上がり、トイレに向かった。


 「兄さん、どうしたんですか?お腹が痛いんですか?」


 ドア越しに秋穂の心配する声が聞きながら、僕はモキボを出現させようとした。しかし、念じても力んでも祈ってもモキボは発生しなかった。


 「あ、あれ……」


 まさか僕自身の『創界の言霊』の力が失われたのか?ま、まさか……。そうだとすれば、僕にもはや打つ手がないじゃないか……。僕は絶望のあまり、膝から崩れ落ちた。




 「で、この腑抜け状態なのかい?」


 遠くで夏姉の声が聞こえる。なんで夏姉?ここは家のはずなのに?ま、どうでもいいか……。


 「そうです。不本意なんですが、私はとんとアニメに関しては無知なので、皆さんのお力を拝借したいんです」


 不機嫌そうな秋穂の声も聞こえる。あぁ、秋穂はいて当然か……。


 「そう言われてもねぇ。カノンなんてキャラクター知らないなぁ。悟は知っている?」


 「うむ。ありそうでなさそうでありそうな名前だな。しかし、俊助君の琴線に触れそうなアニメでそんな名前のキャラクターはないな」


 「歩くアニメ百科事典の悟が言うんだから間違いないだろう。でも、たとえそういう名前のキャラがいたとしても、俊助がここまで塞ぎ込むなんてね。清純キャラだと思っていたのに、実はビッチだったぐらいのショックかな?」


 「うむ。正妻ルートにいかなかったアニメもなかったよな……」


 何を話しているんだ、夏姉、悟さん。声こそ聞こえるが、まるで頭の中に入ってこなかった。どうせ、どうでもいい会話だ。


 「ああ、兄さん、お労しい。アニメのことでそこまで苦しむのならアニメなんか消えてしまえばいいのに」


 アニメ……。違う、カノンはアニメのキャラクターじゃない。カノンは、カノンは……。消えていない。消えていないはずだ。


 「こりゃ、どうしようもないな……。しかし、この腑抜けっぷりは異様だね。そこまで思い入れが強いのかね」


 腑抜け?思い入れ?僕はそこまでひどい状態なのか?


 長年僕を見てきた夏姉が言うのだからひどい状態なのだろう。でも、どうして?カノンが消えたことがそこまでショックなのか?


 ショックなのだ。激しくショックなのだ。理不尽に暴力を振るわれても、我が家のエンゲル係数を飛躍的にあげるほどの大食いでも、僕の中で肥大化したカノンの存在を否定することができなかった。


 きっと僕は、カノンのことが……。


 「うん?どうしたんだい、紗枝ちゃん」


 紗枝ちゃん?紗枝ちゃんいたんだ……。僕は虚ろな眼差しで紗枝ちゃんらしき人物を捜した。視界の端に、今にも泣きそうな顔をした紗枝ちゃんがいた。


 「紗枝ちゃん?」


 僕はかすれる声で言った。兄さんが一時間二分ぶりに喋った、と喜色を露にして抱きつこうとする秋穂を手で制しながら、僕は紗枝ちゃんを凝視した。


 「……先輩!?」


 僕の視線に気づき体をびくっとさせる紗枝ちゃん。紗枝ちゃん、どうして今にも泣きそうなんだ?どうして僕の視線を恐れているんだ?


 「先輩、ごめんなさい!」


 突然席を立ち、逃げるようにして部屋を飛び出した紗枝ちゃん。


 「紗枝ちゃん!」


 僕は確信した。紗枝ちゃんは、何かを知っている。


 虚ろな状態から脱した僕は、全力で紗枝ちゃんを追いかけた。




 俊足の僕と紗枝ちゃんでは走力の差は歴然であった。僕は玄関で靴を穿こうとしてまごつている紗枝ちゃんに追いついた。


 「紗枝ちゃん!君は何を知っているんだ?ひょっとして、カノンのことを覚えているのか?」


 僕はまくし立てた。紗枝ちゃんは僕から視線を背けたが、意を決したように口を開いた。


 「お話しますから、外に出ましょう」


 僕は振り返った。心配そうな表情で夏姉と悟さんが、険しい表情で秋穂が、それぞれキッチンから顔をのぞかせていた。


 「うん。外で話をしよう」


 僕は秋穂達に断りを入れて、紗枝ちゃんと外に出た。


 二人でしばらく無言のままてくてくと歩き、近所の神社まで達した。夏休みに秋穂と一緒にいった神社だ。打ち合わせたわけではないが、自然と僕達の足は境内へとむかった。


 「ちょっと座ろうか?何か飲む?」


 鳥居を潜ってすぐのところに、休憩用のベンチと自動販売機があったので僕は足を止めた。紗枝ちゃんは首を横に振りながらも、ベンチには座った。


 僕はとりあえず二人分の缶ジュースを買い、紗枝ちゃんの隣に座った。紗枝ちゃんはずっとうつむいていた。


 「紗枝ちゃん、答えてくれ。君はカノンのことを知っているんだな?」


 僕の問いかけに顔をあげた紗枝ちゃん。すると、彼女の顔はみるみるうちに歪み、大粒の涙をぼろぼろとこぼした。


 「ごめんなさい!ごめんなさい、先輩!」


 小さな子供のように声をあげて泣き叫びだした紗枝ちゃん。


 「カノン先輩が消えたのは、たぶん私のせいです」


 やっぱり紗枝ちゃんはカノンのことを知っていた。しかも、私のせいってどういうことだ?


 「紗枝ちゃん!どういうことなんだ?」


 ごめんなさい、ごめんなさいと繰り返しながら、うわんうわんと泣く紗枝ちゃん。


 「紗枝ちゃん!泣いていちゃ分からないよ!」


 イライラが募った僕は、つい声を荒げてしまった。紗枝ちゃんの泣き声がぴたっと一瞬止んだが、すぐにさっきよりも大きな声で泣き出した。僕は声を荒げてしまったことを反省し、紗枝ちゃんが泣き止むのを待つことにした。

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