捕らわれた妹
「どうしたんですか?」
秋穂は、電話を終えた山田がびくんと体を震わしたので、兄との電話で何かあったのではないかと思った。
「いや、何でもないよ。ちょっと寒気がしただけ。それよりも、痛くないかい?」
「大丈夫です」
現在秋穂は、三丁目の放棄された工事現場のどこかにいる。凶悪な山田に捕らわれているという設定なので、手を後で縛られているのだが、実際には縛るという表現がおこがましいほど緩く縄をかけられている状態。痛いどころか、痒いところをかくことができるほどであった。
「携帯電話、返しておくね」
山田がそう断ってから、秋穂の鞄に携帯電話を戻した。
「兄さんは来るでしょうか?」
秋穂は不安げに山田を見上げる。
「心配しなくてもいい。彼はきっと来る」
山田の表情は自信で満ち溢れていた。公園で見せていた疲れ切ったサラリーマンの顔は、完全に消えていた。
公園で出会った山田は全体的に力なく、日本のサラリーマンの哀愁をひとりで背負っているような物悲しさに満ち溢れていた。互いのため息を聞き、目が合ってしまったのを契機に山田が声をかけてきたのだ。
『どうしたんですか?お嬢さん』
普段なら見知らぬ男に声をかけられても警戒し、無視しただろう。しかし、山田の全身からにじみ出ている悲哀は、秋穂の警戒心を解かし、いつしか山田に兄とのことを話していた。
山田は黙って秋穂の話を聞いてくれた。だからついつい調子に乗って、兄との隔たり、兄への怒りを愚痴のように吐露したのだった。
『お嬢さんは、お兄さんのことが好きなんだね』
一通り話し終えた時、山田は断定するように言った。この人は私の兄への想いを理解してくれている。それが嬉しくて秋穂は激しく首肯した。
『でも、お兄さんもその留学生も、お嬢さんに悪意があるわけじゃないでしょう?それに苛々したり、不愉快に思ったりしちゃいけないよ。いや、違うかな。思ったりしても、それを表にしちゃいけないな。お嬢さん自身、そう思っているんでしょう?』
山田は流石に大人であった。自分自身にも非があるということを、秋穂はちゃんと理解していた。そのことを山田は見抜いていたのだ。
そうなのだ。すべては兄を独占したいという秋穂の我が侭から端を発しているのだ。そんなことは分かっている。分かっているけど、兄への止め処なく溢れる想いは、どうしようもないほど膨らんでいくのだ。
『兄さんとは一年半離れ離れでした。だから、その分ぐらいは、取り戻したんです。そう考えるのは悪いことですか?』
一年半。秋穂は兄の愛情に飢えていた。だから、アメリカに帰るまでの間、その一年半分の愛情をしっかりと受けておきたかったのだ。
『悪くはないよ。きっとお嬢さんは、お嬢さんからお兄さん向かっている愛情と、お兄さんからお嬢さんに向かっている愛情の間に温度差があり過ぎることに腹が立っているんだろう。その気持ちは私にもよく分かる……』
山田は急に悲しそうに俯き、朴訥とした口調で話し始めた。
『私もね、会社では頑張っているんだが、どうにも認められなくてね。ああ、こちらがいくら頑張っても、必要とされていないんだなぁ……って』
ふう、と山田は大きなため息を入れた。
『以前はね、まお……じゃなかった。ある組織を仕切っていてね。うん。随分と大きな組織だったよ。今の会社なんか比べ物にならないぐらいのね。え?その組織を辞めたのかって?うん。まぁ、辞めたことになるんだろうな。で、その組織でもね、私は頑張っていたさ。でも、部下は言うことを聞いてくれないし、挙句には罵詈雑言を投げかけてくる……。もうね、嫌になったね……』
山田の目元がきらりと光った。そして、ずずっと鼻を啜った。
『私から言わせれば、お嬢さんの悩みはね、大したことないと思うんだよ。いや、誤解しないで欲しいんだけど、その……、悩みというのは同じような悩みでも個人によって違うというのは承知しているよ。でもね、お嬢さんの話を聞く限り、お兄さんはお嬢さんのことをとても大切にしているよ』
『そうでしょうか……』
『そうだとも。大切にしすぎているぐらいじゃないかな?』
そうだろうか?山田の発言は適格であったが、こればかりは違うと思った。秋穂がそのことを言うと、山田は悲しそうに眉を下げた。
『だったら、ちょっと試してみるかい?』
『何をです?』
『お兄さんがお嬢さんのことを大切に思っているかどうか』
そこで山田が提案したのが、狂言誘拐であった。
山田が兄に電話をしてから五分ほど過ぎた。兄がどこにいるのか分からないが、五分で駆けつけられるはずがないことは承知していた。しかし、それでも五分という時間は待つ身にとってはとても長く感じられ、兄は来ないのではないかと不安になってきた。
「飲むかい?」
山田が紅茶の紙パックを差し出してきた。建前上縛られている秋穂を気遣って、ストローが挿してあった。
「ありがとうございます」
ちょうど喉が渇いてきたので、とてもありがたかった。
「あの……余とか魔王とか言っていましたけど、あれは……。それに兄さんとカノンさんを知っているような感じだったのは……」
山田が兄に電話している時、どうも話し方に迫力がなく妹をかどわかした凶悪犯らしくなかったので、秋穂は別の一人称を使うように指示をした。すると山田は、自分のことを余かと魔王とか言い出したのだ。しかも、その後の発言を聞いていると、兄とカノンのことを知っているような口ぶりだったのだ。
「気がついていたかね、お嬢さん。君のお兄さんとカノンとは多少の因縁があってね。勿論、私とお嬢さんが出会ったのは単なる偶然だよ。世の中は狭いものだね」
「どういう因縁なんです?」
カノンはどうでもいいが、兄が関わっているとなると捨てていけない。場合によってはすぐさま狂言誘拐を止めなければならない。
「残念だけど、それは言えないな。お嬢さんは、お兄さんが来るかどうかだけを考えていればいいんだよ」
口調こそ優しいが、有無を言わせない力強さがあった。
「秋穂っ!」
遠くから秋穂の名前を呼ぶ声がした。間違いなく兄の声だ。
兄が、兄が来てくれた……。そのことだけが嬉しくて、秋穂は憚ることなく涙を流した。
「ほら、来てくれただろう」
山田は優しく言った。
「秋穂!」
ガラスの抜けた窓越しから兄が近づいてくるのが見えた。中庭を挟んだ反対側の回廊にいるようだ。もうすぐ来てくれる。
「兄さん!」
秋穂は叫んだ。あらんかぎりの力を振り絞り、秋穂は大きく叫んだ。
「秋穂!!そこか!」
兄の声が反響する。秋穂は今すぐにでも走り出したい衝動に駆られた。
「お嬢さん。当初の予定ではここで私は退場する予定だった。しかし、相手があの少年とカノンとあっては、そうもいかなくなってしまった」
「え?」
「悲しいかな、私は落ちぶれても魔王なんだよ。主役達が来た以上、戦わなければならない」
たとえお嬢さんのお兄さんであってもね、と山田は残念そうに呟いた。
「それってどういう意味……」
「しばらくお休み、お嬢さん」
お兄さんに助けてもらうんだよ、と言って山田がぱちんと指を鳴らした。秋穂は急激な睡魔に襲われた。
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