ため息は深く
「いや~、流石天下のT商事さんだ。分かっていらっしゃる。はっはっはっ」
つい数週間前、デスターク・エビルフェイズの持ってきた見積書をぼろくそにこき下ろした大泉が機嫌良さそうに笑った。
見積書の内容はデスターク・エビルフェイズが持参したものとそれほど変わらない。しかし、渡会が同行しただけで契約はあっさりと締結のだった。
「いやね。ここのところをもうちょっと安くして欲しかったんですよ。このパーツはわが社の生命線でね。しかも、よそのパーツはしっくりこないから、あまり他社さんには頼みたくなかったんだよ。いや~、分かっていらっしゃる」
本当に分かっていらっしゃる、とお茶をぐいぐい飲む大泉。
「いや、こちらも失礼しました。このパーツが御社の生命線であることを前任者が山田に伝えていませんでしてね。本当に失礼しました」
「いやいや、いいんですよ。こうして無事契約できたんですから」
ははは、と二人揃って笑う。しかし、デスターク・エビルフェイズは笑う気になれなかった。ここの担当の前任者は海藤なのだ。
「じゃあ、我々はこれで。この度は本当にありがとうございました」
「はいはい。納期と数量は間違いなくお願いしますよ」
「勿論です。なぁ、山田君」
「はい。お任せください」
デスターク・エビルフェイズは、無理をして笑顔を作った。
お客さんのお帰りだよ、と大泉が上機嫌に言った。
「とにかく無事に契約できてよかった。おめでとう」
会社への帰路、渡会も上機嫌であった。自分の成績にならない仕事だったのに、我が事のように嬉しそうだった。
「は、はぁ……」
しかし、デスターク・エビルフェイズとしては腑に落ちないことばかりだった。
まずは海藤の奴が自分に意地悪をしていたこと。それ自体も腹立たしいのだが、そのことについて渡会が何も言及しないのも腹立たしい。
それとその渡会が同行してくれたことだ。彼にとっては何の利益にもならない仕事なのに、どうして骨を折ってくれたのだろうか。
「もうこんな時間か……。どうだね、山田君。このまま直帰ということにして飲みに行かないかね?」
この近くにいい店を見つけたんだ、と言う渡会。邪気のない顔。しかし、渡会の不可解な行動を考えると、その顔の裏側に何かあるのではないかと邪推してしまう。
「い、いえ……。今日は用事がありますので、失礼します」
「そ、そうかね」
渡会は残念そうに顔をしかめた。
渡会から逃げるようにして別れたデスターク・エビルフェイズは、当てもなくふらふらと街を流離い歩いた。時間的に会社へ帰るのも面倒だし、家に帰ったところでやることもない。暇を潰すように、ただ足が動くままに任せて歩いた。
街の雑踏には人が溢れていた。携帯電話をしながら早足で歩くサラリーマン。友達と喋りながら歩く学生。壁に寄りかかりながら誰かを待っている様子の女性。いずれもデスターク・エビルフェイズの知らない人ばかりだが、それぞれに世界があり、それぞれに目的があり生きているのだろう。
それに引き換え己はどうだ。デスターク・エビルフェイズはふと立ち止まり、ショーウインドウに映った自分の姿を見た。
恐怖の魔王からほど遠い姿。ただの草臥れたサラリーマン。
いや、姿形などはどうでもいい。デスターク・エビルフェイズとして、山田として、世界があるのか?目的があるのか?
「ない……のだろうな」
デスターク・エビルフェイズも山田も世界を持っていない。誰かの世界に小さな点として存在しているだけで、己の世界というものをまるで構築していない。難しく言えば、主体なく生きているということだ。社会や他人に必要とされているわけではなく、ただ動物の本能として生きようとしているだけで、日々の営みはそのための作業に過ぎない。当然、生きる目的などというものもない。
「人生なんて、そんなものさ」
それが虚しいことだと今のデスターク・エビルフェイズには分かった。しかし、神ならぬ身のデスターク・エビルフェイズには如何ともしがたかった。
「疲れたな……」
どれほど歩いただろうか。デスターク・エビルフェイズは草臥れてきた。運動不足のせいか、足が随分と痛い。ちょうど公園が見えたので休むことにした。
自動販売機で缶コーヒーを買い、噴水前のベンチに腰を下ろす。その動作で腰がぴりっと痛んだ。そういえば湿布薬が切れていたなと思い出した。
「はぁ……」
甘ったるい缶コーヒーを飲みながら、あるいはデスターク・エビルフェイズの人生と言うのは、湿布薬を買うためにあるのではないかと思ったりした。勿論、くだらぬ冗談のつもりなのだが、そんな目的でもあるだけマシなのかもしれない。
「何を考えているんだ」
くだらない。本当にくだらない。こんなことを考えるなんて、本当にどうかしている。
「はぁ……」
ため息をつくと幸せが逃げる、と聞いたことがある。しかし、それは嘘だ。ため息をつく人には初めから幸せなどない。だから逃げることもないのだ。
「ふぅ……」
隣からもため息が聞こえてきた。ふと見ると、若いお嬢さんが元気なく肩を落としていた。このお嬢さんも悩みを抱えているのだろうか。恋の悩みか何かだろうか。
不意にお嬢さんがこっちに顔を向けた。とても綺麗なお嬢さんだった。視線が合うと、お嬢さんはやや恥ずかしそうにはにかんだ。
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