今日のところは
「で?この前の美人さんとは誰のことなんですか?私、兄さんに悪い虫がついていなか心配なんです」
ハンバーグが完成したのでこれから楽しい夕食……と思っていたのだが、このタイミングで秋穂が切り出してきた。マルヤスからの帰路、妙に静かだから安心していたのに。
「まぁ、そんなこと気にするな。それよりも折角の料理が冷めてしまう。食べよう食べよう」
「ええ、温かいうちにいただきます。でも、それはそれとして、この前の美人さんについて教えてください」
ハンバーグに箸を入れて、一切れ口に入れる秋穂。
「へぇ、アメリカに一年いてもお箸はちゃんと使えるもんだな」
「ええ。家では専らお箸でしたから。あら、美味しい。それはともかく、この前の美人さんって誰ですか?」
「ふ~ん。家では日本食だったんだ」
「はい。向こうでも日本食の材料が結構あるものなんですよ。いい加減に美人さんが誰なのか教えてください、兄さん」
「ああ、父さんなんか、味噌汁が飲みたいって駄々をこねそうだもんな」
「実際に言っていましたよ。本当に教えないとぶちますよ、兄さん」
くそっ!必死に話を逸らそうとしても、しっかり食いついてくるな、秋穂の奴。
「兄さんがそこまで頑ななところを見ると、よほど知られたくない人なんですね。恋人ですか?」
「馬鹿言うな!千草さんが恋人のはずがないだろう!畏れ多い!」
千草さんが恋人?何をとんでもないことを言い出すんだ!そんなこと天地がひっくり返ってもあり得ないし、千草さんに対しても失礼だぞ。
「千草さんって言うんですね……。どういう方なんですか?」
しまったぁぁぁぁ!とんでもないことを言ったのは僕の方だ!
「馬鹿……」
「兄ちゃん、単純やな」
カノンとレリーラが揃って呟いた。うう、反論の余地もありません。
「千草さんは……お友達です」
「嘘ですね。ねぇ?カノンさん」
「えっ?私?」
突然同意を求められて慌てるカノン。箸に挟んでいたハンバーグを落としそうになっていた。
「え、えーと……。うわっ、シュンスケ、今日のハンバーグめちゃくちゃ美味しいじゃない」
大きく切り分けたハンバーグを頬張るカノン。あからさまに怪しいぞ。
「とぼけないでください。それともその言動を兄さんが嘘をついているという証拠と受け取りますが?」
「う……」
「その沈黙は、肯定と言うことですね。レリーラさんは、いかがです?」
「え?オレ?」
今度は幼女に矛先が向かった。
「オ、オレは答えんぞ。さっき、姉ちゃんはオレのことを完全に無視したからな。今度はこっちが無視や」
完全無視や、と強がる幼女。そう言っている時点で、すでに無視できていないぞ。
「はぁ。残念ですね。ところでレリーラさん、好きな食べ物ありますか?」
「へ?好物け?そやな……から揚げとか好きやな。うん。肉やったらなんでも好きや」
完全無視と言っておきながら、秋穂の質問に簡単に応じるレリーラ。これだから幼女は。
「そうですか。私、から揚げ得意なんですよ。機会があれば作って差し上げますね」
「ほんまけ?優しい姉ちゃんやないか」
秋穂がまさかの太陽政策。それだけに僕としては顛末に嫌な予感しかしないのだが……。
「では、逆にお嫌いなものありますか?」
「オレ、蛸とイカとかがあかんねん。見るのも嫌や」
「そうですか。では、明日の夕食は、蛸のから揚げに、蛸の酢の物、蛸飯にしますね。そうそうお昼はたこ焼にしましょう」
「な、なんじゃと!それだけは堪忍!」
「明後日は、イカのから揚げに、イカ素麺、イカ飯なんかもいいですね。あ、イカ墨スパゲッティーも捨てがたいですね」
「うわぁぁぁぁ!やめてぇぇぇぇぇ!」
頭を抱えて悶絶するレリーラ。やっぱりそういうオチがついたか。それにしてもレリーラも単純な奴だ。
「秋穂。それぐらいにしておけ」
「そもそも兄さんが悪いんです。正直に話してくださらないから」
「ぼ、僕のせいなのか!」
「ま、今日のところはよしとしましょう。それに美緒さんに聞けば分かることですし。あ、明日の夕飯は私が作りますからね」
「蛸やないよな?イカやないよな?頼むからそれだけはやめてや……」
すがるように秋穂の服の袖を引っ張るレリーラ。うふふ、と不敵に微笑む秋穂。秋穂の標的から外れた瞬間からいつものように飯をかっ食らうカノン。うん。この一ヶ月、なんとかやっていけそうな気がした。
「はぁぁ。なんか疲れた……」
風呂からあがった僕は、その疲れきった体をソファーに投げ出した。夕食後はたいした波乱もなく、秋穂も早々に部屋に引き下がったので、いつもの平穏な時間が訪れたわけだが、逆に気が緩んでしまったのか、どっと疲れが押し寄せてきた。アニメもゲームも、パソコンの電源もつける気になれず、とりあえず風呂に入ってみたものの、余計に疲れを倍増させてしまった。
この調子が一ヶ月続く。さっきはなんとかやっていけそうな気もしていたのが、よくよく考えてみれば夏休みといえどもやるべきことは多いのだ。特に八月の末にはまた同人誌即売会があるので、その準備もそろそろ始めなければならない。今回は五月の時のように原稿を落とすわけにはいかないのだ。
「どうしたのよ、ため息なんてついちゃって」
声がしたので振り返ると、パジャマ姿のカノンが立っていた。母さんのパジャマはサイズが大きすぎたのか、袖から手がでていなかった。
「疲れただけだ」
「妹さんのこと?」
カノンがグラスに麦茶を入れると、僕の隣に座った。ちゃんと僕の分も入れてある。こいつ、最近になって居候らしく気が利くようになったな。
「私はちょっと苦手だけど、可愛い妹さんじゃない。シュンスケにちっとも似ていない」
「当然だ。あいつは養子なんだ」
「養子?ああ、そうなんだ。ごめん」
「謝ることじゃないさ」
本当に謝ることではない。秋穂自身も、小さい頃は随分と気にしていたが、年が長ずるにつれまるで気にしないようになっていた。
「でも、なんであんなにビンタされても怒らないの?普通怒るわよ」
いつも恒常的に僕に暴力を振るっている女に言われるとは思っていなかった。だが、そのことを指摘されると何をされるか分かったものではないので黙っておく。
「妹だからな。養子という気兼ねで遠慮されるよりも、ビンタの一発や二発喰らって方が余ほど兄妹らしい」
「……シュンスケって、エムって奴?」
「待て待て!そうじゃない!そういうのじゃないからな!」
冗談よ、とけらけら笑うカノン。お、おちょくったな。
「いいところあるじゃない」
カノンが肘で僕の突いた。瞬間、ふわっとシャンプーかボディーソープのいい香がした。ちょっとドキッとしてしまった。
「どうしたのよ?本当に疲れているんじゃない?」
カノンが顔を覗き込んできた。ち、近い!また赤松千尋とのことを思い出すじゃないか!しかも、千草さんの時よりも近いぞ。
だが、不思議と僕はこの状況から逃れようとはしなかった。カノンのやや潤んだ瞳、カノンの形のいい唇をまじまじと見つめていた。相変わらず綺麗な済んだ目をしているし、唇は微かに震え、息が顔に当たる。
カノンも、真っ直ぐに僕を見つめ返すしている。な、なんだ。この状況……。
「……。私、寝るわ」
急にカノンが顔を引っ込めた。
「お、おう。僕も寝る……」
「う、うん。じゃあね」
先にカノンがリビングから出て行った。
「ゆっくり休めよ」
僕はカノンが視界に消えてからようやく立ち上がった。とろんとした眠気がじわりと襲ってきた。
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