兄さんへの想い
秋穂が兄である俊助と出会ったのは八歳、学年で言えば小学校二年生の時であった。
出会った、という表現で察しのいい人は理解したかもしれないが、秋穂は新田家の養子であった。
実父実母のことはまるで覚えていない。秋穂が乳幼児の頃に交通事故で両方とも亡くなった、と施設の先生は言っていた。しかし、顔もまるで覚えていない両親の死因など、薄情かもしれないが興味なかった。
だから秋穂には養子になるという抵抗感などまるでなかったし、新田の両親をすぐに受け入れることができた。
しかし、新田家にはすでに子どもがいた。それが兄の俊助だ。
最近になって、どうしてすでに子どもがいるのに自分を養子にしたのだろう、と疑問に思い、父に聞いてみたことがあった。
『いや~、母さんが女の子が欲しいって言うから、毎晩ハッスルハッスルしたんだが、なかなか子宝にめぐり合わなくてね。だから、秋穂を養子にしたんだ』
下品な表現に戸惑ったものの、もっと複雑な事情を話されると思っていたので、その単純な動機にやや拍子抜けしてしまった。しかし、秋穂は、そういう両親の楽天的なところを好ましく思っている。まぁ、時として腹立たしいこともあるが。
初めて兄に会った時のことは、今でも鮮明に覚えている。
施設に迎えに来た両親に伴われ、新田家の敷居を潜った秋穂。その玄関先で、兄は待っていてくれたのだ。
しかし、当時の秋穂は、初対面の男の子に緊張と警戒感を抱き、母の後ろにさっと隠れてしまった。あらあら照れちゃって、と言う母。
とりあえずお茶にしようか、と父が提案してくれてほっとしたのも束の間、兄は玄関下まで降りてきて秋穂の手を握ってきたのだ。
『僕の部屋にゲームあるんだ。一緒に遊ぼうよ』
ニコニコと笑顔の兄。思えばこの瞬間、秋穂の人生は変わったのかもしれない。その優しげな表情に、緊張を氷解された秋穂は、うんと力強く応じ、兄に手を引っ張られながら二階へとあがっていったのだ。
それからというもの、兄は秋穂の人生の全てであった。物事を考える基準は全て兄であり、兄がいない生活など考えられなかった。
と言っても両親のことが嫌いではない。勿論大好きである。だが、両親は両親であり、兄は兄である。秋穂の中では同じ家族ながら、まるで違う存在だったのだ。
あれは、そう、秋穂が小学校四年生の時だから、兄は小学校五年生の頃。近所の児童公園で同学年の悪童達に冷やかされたことがあった。
『もらわれっ子』
確かそのようなことをいわれた気がする。要するに秋穂が養子であることを馬鹿にするような発言だったのだ。今にして思えばどうとことない、そんなことを言う奴なんて鼻で笑ってやると思えるのだが、当時の秋穂は、堪らなく悔しく悲しく、その場に座り込んで泣きじゃくっていた。
そこに現れたのが兄であった。悪童達にランドセルを投げつけるやいなや、悪童達に飛び掛ったのだ。
『秋穂をいじめる奴は、僕が許さない!』
逃げる悪童達に見得を切る兄。その雄姿は、今も網膜に焼き付いて離れなかった。そう、秋穂の中で兄が特別な存在になった瞬間であった。
優しい兄。頼もしい兄。勉強もスポーツもできるかっこいい兄。大好きな大好きな兄。
ずっと、これからずっと兄と一緒にいたい。いや、いるのだと心に決めたのだった。
しかし、悲劇は突然やってきた。あれは、そう、秋穂が小学校六年生の時だから、兄は中学校一年生の時。
ただでさえ小学校と中学校で離れ離れになってしまったのに、輪にかけて兄と間に大きな溝ができてしまったのだ。兄が、兄が兄がアニメオタクになってしまったのだ。
原因は足利夏子。夏子は近所に住む一歳年上の女の子で、兄とよく遊んでいた。他の同年代の女の子よりも大人びた容姿で、それでいて活発な男の子のような性格をしていてためか、近所の子ども達のリーダー格であった。
秋穂もよく遊んだ記憶がある。しかし、それは兄が夏子と遊んでいるからであって、兄がいなければきっと遊ぶどころか、口を利くこともなかっただろう。
夏子はアニメや特撮が大好きで、小さい頃から兄を同胞に引き込むべく洗脳し続けてきた。一緒にそういう番組を見たり、ヒーローのごっこ遊びをしたり。その洗脳に要する期間がどれだけであったかは定かではない。秋穂は、そういう夏子に警戒感を覚えながらも、子ども相応の楽しみ程度にしか思っていなかった。
だが、中学校一年の夏頃には、兄は完璧なオタクになっていた。中学生にもなってアニメアニメの毎日。学校から帰ってきても、今までなら秋穂と一緒にキッチンのテーブルでおやつを頬張っていたのに、その頃からおやつを自室に持ち込んで夕方からやっているアニメを見るようになってしまった。夕食の後も、今までなら勉強を教えてもらったり、カードゲームやボードゲームで一緒に遊んだりしていたのに、オタクになってしまった兄は、自室に引きこもりアニメを見ているか、パソコンで怪しげなサイトを閲覧するようになってしまった。
別の世界の住人になってしまった兄。兄の世界と秋穂の世界は、完全に断絶してしまった。そしてその隔たりは、時が経つにつれ広がっていった。
いつしか兄は、アニメのキャラに惚れこんでしまい、等身大のポスターとか抱き枕とかを購入するようになり、秋穂の想像のつかない方向へと兄の病状は悪化していった。
これ以上、兄の病気を悪化させてはならない。そう決心した秋穂は、兄を監視することにした。
秋穂が唯一心許せる兄がらみの女性である楠木美緒と共に、怪しいアイテムが増えていないかチェックする一方、未成年お断りの本に関しては容赦なく破棄していった。そういう日々が三年ほど続いた。
そういう秋穂の地道な努力を神様が認めてくださったのか、思ってもみないチャンスがやってきたのだ。
父がアメリカへ転勤することになったのだ。かなりの長期になるようで、当然子ども達を連れて行きたいと打ち明けてきたのだ。海外での生活に密かな憧れがあった秋穂は大いに喜んだ。
それにまさにチャンスであった。アメリカに行けば、日本のアニメなどない(実際にはアメリカにもあると知ったのは渡米した後のことなのだが、当時の秋穂は知る由もなかった)。兄のオタクも治る、と確信したのだ。
ただ問題はひとつあった。すでに兄は地元の名門進学校への入学を決めていたのだ。そこを蹴ってアメリカへ行くか、それとも日本に残るか。父はその判断を兄に委ねのだ。
秋穂は信じていた。きっとアメリカに一緒に行くと。きっと兄も妹と離れ離れになって暮らすのは寂しいに違いないと。しかし……。
『僕は行かない。日本よりも日本のアニメの少ない国なんて行けるはずもない』
兄は即答した。やっぱりそうか、と大笑いする父。俊ちゃんはお料理できるもんね、と見当違いな感想を述べる母。この時ほどこの楽天的な家族を恨めしく思ったことはなかった。悲しさと怒りに満ちた秋穂は、兄に飛び掛り、マウントポジションでフルボッコにしたのだった。
その日からしばらく、秋穂は兄と一言も口を利かなくなった。自分が怒っていることを思い知らせるためだ。しかし、兄はちっとも堪えている気配などなく、相変わらずアニメアニメの毎日だ。
ここで秋穂は、重大な決断に迫られた。秋穂には、兄と一緒に日本に残るという選択肢もあった。だが、海外で生活をしてみたいという希望があったので、この機会を逃がすわけにはいかなかった。
秋穂は決断した。アメリカに行こうと。兄も一度思い知ればいいのだ。一ヶ月、いや一週間、妹に会えないことがどれほど寂しいことかということを。
そういう決意のもと、アメリカに旅立ったのだが、思い知らされたのは秋穂の方だった。アメリカに到着して三日もしないうちに、兄のいない生活がどれほど苦痛かと気づかされたのだ。
さりとて今更日本に帰国することもできず、秋穂は苦手なパソコンを駆使し、兄とメールのやり取りを始めた。本当には寂しくて堪らないくせに、いかにアメリカでの生活が楽しいかを書き綴り、兄がアメリカに行きたくなるように仕向けようとした。だが、一日十通程度の控えめなメールでは効果がないらしく、兄は一週間に一回ぐらいのペースで返信してくるだけだった。
その一方で、美緒と頻繁に連絡を取り、兄の病状悪化阻止にも努めていた。効果があったかどうかは分からないが。
そして、アメリカに来て一年半。秋穂は帰国するチャンスを得たのだ。父は仕事で忙しく、母もそんな父の世話と監視があるので、一人での帰国となった。人生初めての一人旅行で不安もあったが、久々に兄に会える喜びの方が圧倒的に勝った。
兄さんに会える。その言葉を幾度も反芻し、久々の再会のシーンを夢想した。
きっと優しい兄は、空港まで迎えにきてくれるだろう。秋穂の重い旅行鞄を軽々と持ち上げ、しばらく見ないうちに大きくなったな、とか言ってくれるのだ。
そう。この一年半の間に秋穂は随分と成長した。身長は伸び、胸だって大きくなった。自分で言うのも恥ずかしいが、女らしくなった。
きっと兄は、秋穂のことを妹としてではなく、ひとりの女として意識するだろう。ひょっとすればこの一ヶ月、同じ屋根の下で暮らすのだから、何かあるかもしれない。でも、それは仕方のないことだ。義理の兄妹である前に、男と女なのだから。
秋穂は、入国窓口を抜けるまでの間、何度も何度も兄との再会のシミュレーションをし、家に帰ってから起こるかもしれないことについても、心の準備をしっかりしていた。
なのに、なのに、なのになのになのに!
兄は迎えに来ていなかった。空港にも、空港駅にも、乗換駅にも、最寄り駅にも、バス停にも、マルヤスにも、ノジマドラッグにも!
なんて薄情なのだ。こんな兄ではなかったはずだ。アニメか?アニメのせいなのか?
怒りと悲しみに震える秋穂は、帰宅するとすぐさま行える折檻はないかと考えながら、なつかしい我が家への道を急いだ。日差しも強く、止め処なく汗が流れ落ちる。
ようやく我が家に着いた頃にはすっかりと汗だくになっていた。折檻の前にシャワーを浴びよう、いやシャワーしながら折檻しようかなどと考えながら、玄関の鍵を開けた。
ただいま、兄さん。
玄関先で待っていたのは確かに兄であった。だたし、金髪美女と銀髪幼女と自宅廊下で重なり合っている状態。しかも、兄と初めて出会った思い出の玄関で。
この時になって秋穂は、ある事実を失念していたことに気がついた。兄にはすでに同居人がいるのだ。父の知り合いの娘とかいう異国人。それがあの金髪美女か?だとすれば、あの幼女は誰?しかし、あまりの衝撃的光景に思考がまるで追いつかなかった。
秋穂の視界は静かに暗転していった。
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