第300話「護りたかった君へ」

「分かってます。これは後悔じゃなくてわがままです」

 子供達の笑い声や人々の息遣いがひかりの胸の中で響く。この日々を眺めているとやはり人間も愛おしく思えた。しかしここへ来る度、押し殺していた苦悩が溢れ出す。

「わたしは人間を見捨てられなかった……。でもハルと一緒にいたかった、やっぱり好きだったので」

「だからそれを書き留めているのね」

「はい」

 バンドでまとめられた便箋を胸に抱き締める。パンパンに膨れ上がったそれは古びたインクと新しいものの匂いが混ざり合い、すんとひかりの鼻を通り抜けた。それを扉の前に置いて、深く息を吸い込む。

「これは未練の証です。また会えたら話したいことがいっぱいあって……十年も、こんなに膨らませてしまいました」

 彼女はいつか会えるかもしれないと言っていた。しかし今思えばそんな未来はありえないのだ。

 人間達は心の支えがなくては生きていけない。だからこそ妖怪を生み、アマテラスや他の神々を創り出した。本当に人類の終わりが訪れるその日までハルが自由になることはないのだろう。

「……それでも、わたし達は対をなすもの。わたしにはあの子以外いませんから」

 出来ることならばこの現世で、護ってあげたかった。それが叶わない今、ひかりに出来ることはせめて、穏やかな春の夢を見られるように現世を保つことだ。

「母さん、ひかり。いつまでそうしてんだ、帰ろうぜ」

「そうね」

 自動車の運転席から顔を出した光明が呼びかける。先にそちらへ向かったあかりが呟いた。

「天明家の責務を果たしましょう。この世を守る神職として」

「もちろんです」

 伝えたい言葉はもっとたくさんあった。少し冷たい指先や鮮やかな赤眼が愛しくて懐かしかった。思い返せばすぐにハルの姿が目に浮かぶ。真っ直ぐな目がいつもひかりを見ていた。

「また来ますね」

 立ち上がって歩き出した時、きいと後ろで音がした。振り向いた先の光景に目を丸くしたひかりはふと微笑む。薄く開いた扉に春の風が吹き込み、桜の花びらをさらっていった。


 誰もいなくなった祠の扉、その前に置かれた便箋が一枚めくれ上がって几帳面な字が見え隠れする。

 ──拝啓 護りたかった君へ

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