第280話「君が」
社地は彼女の顔を一度も見たことがなかった。はんなりとした口調と声、気遣ってくれる優しさだけを頼りに夫婦の契りを交わしたのだ。薄暗い黄泉比良坂の中に射した輝きのようで、手を触れると温かい。半分死人である社地家の血を持たないおとめのそれが心の支えでもあった。
「おとめ……なのかい?」
「そうどすえ。あてが、あんさんの妻どす」
丸っこい瞳が社地を覗き込む。スサノオを宿していた時はあれほど軽快に動いた身体が、今は指先の感覚さえ消えてしまった。倒れた彼を抱き上げて、おとめはふわりと笑った。
「あんさんのお眼鏡にかなうやろうか。こんな埃やらで薄汚れてしもて堪忍なあ」
「素敵だ」
精いっぱいの声を振り絞る。柔らかな輪郭と目元のおかげか、安らいだ表情がよく似合った。しかしほろほろと零れる涙がそれを瞬く間に塗り潰す。
「もう逝ってしまうん?」
「そう……だね」
声に混じるかすれた空気音がそれを訴えている。末端の筋肉はすでに固まり始め、心臓の鼓動は弱まっていた。自分でこうもはっきりと死期が分かってしまうといっそ清々しいものだ。社地の心情は静かだった。
「あんさんとこれだけ長い間、一緒におれてえらい幸せや。そやけどあては欲張りやさかい、もっと長くと思てまう」
「おとめ……」
子供の時、器になる前の自分が見たかった陽の光はそれそのものではなかった気がするのだ。暗い場所から出られない毎日で、人恋しかったのかもしれない。
護り通せた君が。
「私の、光」
輝きが消えていく。視界が再びあの暗闇に戻ってしまう。今にも泣き出しそうなのを堪えた声が囁いた。
「ずっと、あてらのそばにいておくれやす」
熱の失せた肌におとめの温もりが移る。真っ黒な世界になり、何も分からなくなった。まるで時間が止まってしまったような、無限の虚が続いている。なんと呆気なく味気ないものだろう。
『本当にここへ堕ちるのか』
主の声が意識全体に反響する。社地を遠巻きに見つめる数多くの気配はきっと、先に根の国へ降りてきた魂達だ。以前から慣れきっているその目を受けながら、彼はただ揺蕩った。
『お前は器じゃねえだろ』
スサノオの声には獣が唸るような威嚇の色が混じっていた。遥か遠くから聞こえる嗚咽とともに、呼び声が届く。
「ひなたはん……っ」
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