第208話「愛された物語」

「今日は大人しいんだねェ、キミ」

「流石に何度も抜け出したら、いい加減本気で捕まりそうだしな」

 それに痛みはないものの、やや右足と背中の違和感が残っている。肌が突っ張っているような感覚だ。シロウサギが周りを飛び跳ねるのを手で払って、ハルはベッドで寝返りを打った。

「ねェ、暇?」

「暇だな」

「漢字の練習はァ?」

「……まあ後でいいだろう」

「悪い子だァ、アリスとは大違いだねェ」

 布団を頭まで引き上げる。途端にぼふんと衝撃がかかって喉に空気がつかえた。むせたのを笑い飛ばすシロウサギに拳を振りかざすが、鎖がピンと張る。

「ククク、怒ってる怒ってるゥ」

「用事がないならどっか行ってくれ。さっきまで出かけてただろ」

「アリスを捜しにねェ」

 そういえばずっと気になっていたことがある。

「その人は何でいなくなったんだ」

「聞きたいのォ?」

「別に。話したくないならいい」

 素直じゃないなァ、と嘲笑われた。ふんと鼻で返してぼんやりと天井を見つめる。畳の上に置かれたベッドは軋んで、ハルを留めていた。標本にされた蛾のようだ。

「ボク達はねェ、皆に愛されて生まれたのォ。昔から大切に大切にってェ、読み継がれてきたんだァ」

「童話だな。私もついこの間読んだよ」

「アリス、素敵な子だったよねェ?」

「そうだな。随分と威勢がいいとは思った」

 自分達は物語から想像して現れ出たものであり、帽子屋やアリスもシロウサギと同じなのだという。

「ボク達は皆の常識になるくらい愛されたよォ。知らない人はいなかったァ、でもそれがアリスには耐えられなかったんだねェ」

「愛情が嫌になったのか」

「んー、ちょっと違うなァ」

 不意にシロウサギが部屋中を飛び跳ねた。身軽にあっちの壁からこっちの床へと動き回り、最後にトッとハルの上へまたがる。一人と一匹は言葉を交わさず、指先さえ動かさない。

「……ボク達は同じだよォ」

「それは、アンタと私がか。それともアンタとアリスや帽子屋が?」

「ククク……さァね」

 しゃらりと金の鎖が揺れた。振り子のように懐中時計が視界を行き来する。ハルはスッと視線を上に戻す。

「帽子屋に返してやったらどうなんだ」

「アレは盗られてると勘違いしてるだけだよォ」

 空気を切って懐中時計が円を描いて一回転する。腹の重みが消えたと思えば、そこにシロウサギの姿はなく、お札まみれの天井だけが映っている。

「……あいつめ」

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