第178話「殺した」

 その場にはもう膜さえも見えなかった。晴明の言葉が脳みそを駆け巡る。身体が重く動きそうもないと思った途端、肩を叩かれびくりと跳ねた。

「千愛さん……」

「すまぬがちと手伝っておくれ。客人に頼むのは心苦しいがのう」

「何をですか」

 寄ってきた玉菜前と目配せをし、千愛が背後へ振り向く。倣って首を曲げたひかりは叫び声を上げた。あちこちに転がる狐狸と鬼の残骸。身体が四方にばらけたもの、膨れ上がっている皮膚。しめ縄の内側だけが美しく静寂を保っていた。

「な……ッ」

「怪我人を湯に浸けねばならん。子狸らを連れていってくれんかえ」

「……あ、わた……し」

「何をうろたえているの。千愛様の命令よ、さっさと動きなさい」

「嫌ッ、やだ! わたしはなんてことを……!」

 たった一人を求めて突き進んだ先がここか。自分を快く迎えてくれた妖怪達の亡骸の山だけなのだ。ハルはいない。プラスどころかマイナスになって、他人の大切なもの達を奪い取った。

「ごめ……なさい、ごめんなさい……ッ」

「安心せい。人は死が終わりと思っておろうがの、われらは常に輪廻の中におるものじゃ。またいつか巡り会えようぞ」

「だからといって死にたくはなかったでしょう。あの子達も」

 痛かったはずだし恐かったはずだ。それでもひかりただ一人を守るために肉塊となっていった。ひかりは耐えきれずに吐き出した。中身がなく、きつい胃液が喉を灼く。

「わたしが、殺して……」

「違うな」

 閉じた扇子がうなだれるひかりのあごをぐいと持ち上げる。真っ直ぐな両目が突き刺さり、顔を背けようとした。それを無理に引き戻して千愛が諭す。

「われが死ねと言うたのじゃ。いろは組においてあやつらの命を握るのはお前さんではない、われである。小娘ごときに生殺与奪など与えんよ」

「ですが……」

「調子に乗らないことね。あなたのために命を懸けたのではないわ、全ては総大将である千愛様のため」

 玉菜前の強い視線に泣き出したひかりを千愛は抱きしめてくれた。

「殺さぬ殺したは瑣末なこと。人は短い期間で命を測り過ぎるのじゃ、神は輪廻を知っておる。さあ手伝っておくれ」

「……はい」

 顔をくしゃくしゃにして鼻をすすりながら、ひかりは近くに倒れていた息のある者にそっと手をかけた。

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