第114話「海神と根の国」
武士の姿が消えると同時に遠くの狼煙や地面に転がった朽ちた刀などもなくなった。街はひっそりと静まり返る。やがて社地がハルの方へ歩き出したその背中に、野次馬から声が飛んできた。
「この街の商売を潰しやがって!」
それには構わずハルを抱き上げ、大丈夫かと聞いてくる。ぐったりしながら頷いて、一気に騒がしくなった罵声に顔をしかめた。
「言いたい放題させてて、いいのか」
「庶民に我々が主の偉大さは理解できませんので。何を語ろうが無駄でありましょう」
「というか、一人で歩けるよ」
「お客様に無理をさせるわけには。どうかそのままでお願い致します」
ハルは気恥ずかしいような気持ちになり、黙って身体の力を抜いた。おとめが半歩後ろをついてくるのになんだか申し訳なく思いながらも、正直に言えば身体がだるかった。
「スサノオ様は海のカミサマなのか。てっきり死んだ世界の主だと」
「間違ってはおりません。主は海神、嵐神であり豊穣神でもあらせられます。その一方で母イザナミ様の役職を引き継ぎ、黄泉津大神としても存在しておられるのでございます」
「ふーん」
他者との記憶が海で繋がっているのは、妖怪が海の底から生まれてくるものだからなのかと考えてみる。しかしそれより気になったのは、武士の行く先だった。
「あの霊はどこに行くんだ」
「イザナギ様に封じられた黄泉比良坂の階下層でございます。わたくしどもの暮らすあの狭間が黄泉比良坂となっております」
「本当にすぐ下があの世なんだな」
「ええ。根の国での手伝いの一つとして、わたくしどもが狭間の管理をしているのでございます。主の許可が下りるとああやって大岩を開き、妖怪を封じるのですよ。特異点にたどり着くことさえ不可能なほどの奥底へ」
その微笑みにゾッとした。あの時身体が動かなくてよかったのだと今さら自分の不調に感謝する。武士は二度と日の目を見ることはないのだろう。先の知れない闇に沈んで、どうなるのか。
「ひかり様の札を使うのは気が引けましたので、神職達の助けが間に合って本当によかったです。ありがとう、おとめ」
「旦那の窮地に駆けつけるのんは妻として当然やん」
おとめが柔らかく笑いかける。仲のいい夫婦だと眺めながら、胸の傷を撫でる。まだ皮膚までは治りきっていないが、穴自体は塞がっていた。
「よしよし、いい感じだ。御札のおかげで治るのが早くて助かるよ」
「あてらは死屍子に近いさかい、妖怪には技がよう馴染むやろう。大事に至らんでよかったなぁ」
おとめの話し方に記憶の海がさざ波を立てる。誠の破損した記憶なのか、ハル自身が忘れた記憶なのか、いまいち釈然としなかった。
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