第85話「新たなもの」

「ぼくはもっと広い世界を見に行くんだ。だからあいつについていく、もう決めた」

「誰のことだ」

 翠は先ほどまでハルのいた場所を指し、いつの間にか影を消したことに気づいて辺りを見渡した。ハルの姿は今、ジャスの術によって黒猫に変えられている。ハルは不満げにジャスのスーツで爪を研いだ。

「いない……!」

「馬鹿なことを言ってないで、早くアマテラス様に謝るんだ。それに勉強はどうした。俺の息子が無能だなんて認めないぞ」

「ぼくはトンビから生まれた鷹だよ、どっちが使えない奴だろーね」

「言わせておけば、好き勝手!」

 父親の手が真っ直ぐ上に伸ばされ、翠は頭を抱えて逃げ出そうとした。反対の手でそれを阻まれて顔色が変わる。

「お待ちなさいッ」

 アマテラスの鋭い口調に父親は我に返ったらしく、いきなり翠の頭を掴んで地面に引き倒す。そして自分もひれ伏しながら、必死になって謝罪の口上を述べた。

「愚息が大変申し訳ありません、お許しください」

「いえ、彼には彼の思うところがあるのでしょう。思想とは人に許された自由なのですから」

「寛大なお心に感謝します」

 翠が苦しそうにもがくのも無視して頭を下げ続ける態度が頭に来る。ハルは猫のまま飛び出していき、頭を踏みつけて背中の上でこれみよがしに首元をかいた。金属の首輪がかしかしと音を立てる。

「あっこの、くそ猫め! どけ!」

「やめてパパ、猫なんかに当たり散らすとか見苦しいよ」

「誰のせいだッ」

 猫のハルを追い払う間に手の中から抜け出した翠は人の形をしたハルを捜している。本人はジャスの足元へ逃げ帰って知らぬ顔をし、大あくびをしてみせた。翠がアマテラスへ問いかける。

「黒い髪で赤目の人、見てない? そいつについてくって決めたんだけど、どっか行っちゃったよ」

 アマテラスが黒猫を睨む。すると抗議するように鳴き声が返ってきて、しばらく考え込んだ。

「そんなに外へ出たいと言うならば、いいでしょう。このアマテラスが連れ出して差し上げます。新たな眷属としてあなたを迎え入れましょう」

「やだよ。ぼくはあいつじゃなきゃ嫌だ」

 プライドを激しく傷つけられた様子のアマテラスにハルは首をすくめる。後でどんな大目玉を食らうか分かったものではない。その一方で女神より自分が選ばれたことが少し嬉しくもあった。

「……ハル」

「にゃあ。──ここだよ」

 ジャスが黒猫の頭に液体を一滴垂らした途端、人型のハルが姿を現す。アマテラスの前へジャスとともに並び立ち、翠と向かい合った。

「二人はわたしの配下です。この者達とわたしに同行しますか、青葉翠」

「うんっ!」

 子供らしい無邪気な返事と同時に、今まで静かだった聴衆が沸き立った。陽気な口笛なども聞こえてくる。先ほどまでの険悪な雰囲気はどこへ行ったのか、豹変した人々の態度に翠が顔をしかめた。

「そういうとこ、ほんっと嫌い!」

「世の中を見て回るうちにそのような気持ちもなくなるでしょう。あの子には人に対する慈しみを持たせなければなりませんね」

「私は案外、翠の考え方も嫌いじゃないけど」

 アマテラスの前に並んだ翠とともに壇上を見やる。鎮座している彼女は微かに微笑んでいた。

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