第76話「恐れ」
この人は全て分かっていると感じた瞬間、目の前の笑顔が恐ろしく思えた。自分が生身をさらけ出して荒野に立ちすくむ被食者のような気がした。口元はカチカチと牙を鳴らすばかりで、一向に返す言葉が出てこない。
「説得くらいならあの頑固なアマテラスも許してくれるはずだわ。ね、受けてくれるかしら」
「そんなの……直接、本人達に言えばいいのに。私を挟む意味が分からないよ、母さん」
「会えなかったんだもの、仕方ないわ。私の支度ができた頃にはもう日が落ちていて、ひかりは走り去ってしまったから」
もう会いに来るつもりはないのだと悟る。ハルはたった一人でこれほどの決断を迫られている危機に冷や汗を垂らした。どちらへ転んでも、片方へは裏切りになってしまう。
「わ、私はあの人達を裏切れないようにされてる。だから私にそれを頼むのは無理があるよ、また今度本人に……」
「首輪ね。確かに痛い目には遭いたくないはずだわ、彼女は結構気が短いから、いつお仕置きされるか分からないのね?」
「そうなんだ。なぁ、ひかり達に会って話し合おう」
「ダメよ、それだけは」
強い否定に息が詰まる。物腰の柔らかかったあかりはいなくなり、よく似た別人がそこに立っているように感じた。
「彼女達はね、遠い祖先に呪われたせいで自らの意思を奪われているの。ひかりはそこから逃げ出そうと必死にもがいているわ、でも大人になるにつれて染まってしまうでしょう」
「アンタ、自分は違うって言いたいんだな」
「ええ」
胸に手を当ててうつむきがちにまぶたを閉じる。その奥に大切なものをしまい込むようにして、あかりが穏やかに語りかけた。
「アマテラスには千年より前の記憶がなく、存在の真偽が危ういわ。そして使命には従順なはずの天明一族から現れた反抗者。さらに、仲間というものを知った死屍子……。状況はすでに変わりつつあるのよ。私はイレギュラーとして、この時代のうねりに賭けたいの」
「聞いてもいいか」
あかりの目の奥に強固な想いを汲み取り、ハルはふと冷静になった。怯えていた自分の姿を見下ろす感覚に襲われ、身体の熱が冷めていく。自分なりの行動理念に立ち返り、それをもとに口を開いた。
「死屍子が二度と現れなければ、この国はどうなる」
「まず、今みたいな混乱が永遠になくなるわ。天明の血を引く者達もただの人間として暮らしていけるし、アマテラスも仕事が一つ減る」
「妖怪は?」
「大丈夫、消えたりはしないのよ。大暴れはできないかもしれないけれど、ちゃんと生きていけるわ」
「だったら、母さんは」
その時初めて、あかりは弱い顔を見せた。ハルが静かに問いを繰り返すと、目を伏せて呟いた。
「私だけは、いなくなる」
「そうか。母さん、答えが決まったよ」
恐れはなかった。
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