第75話「あまりにも」
叩き落とされた手を呆然と見つめる。しかし黒い霧の向こうへひかりが消えたのにハッとして、後を追おうと一歩踏み出した。あちこちに細かくできた怪我がみしみしと切り口をひらいたが、それもすぐに癒えていく。
「嫌だ、行くな──」
『あらあら。すれ違ってしまったみたい』
足が止まった。誰よりも精巧だと自負する耳を疑う。ぎこちなく振り返った先に、色素の薄い髪がさらりと揺れた。
「母、さん?」
「すっかり大きくなったのね、久しぶり。とても大人びて見えるわ」
「どうして」
初めに飛び出した言葉は疑問だった。
「ひかりを置いていった理由は何だ! あいつに寂しい思いをさせてまで、私を拾ったのはなんでだ」
「会いたかったとは言ってくれないの?」
「ああ、そうだな。それはまだだ、アンタが私の質問に答えてからにしようか。さァ教えてくれ、私達が知りたかったことを」
妖怪が倒れている中を静かに歩み寄ってくる。やはり気配は完璧に消されていた。四年前に誕生日を祝ってくれた日と同じ笑みであかりは語りかける。
「この繰り返しを終わりにしたいからよ。千年おきに現れる死屍子を、天明の子とアマテラスが封じ込める現実を……おとぎ話にしたいの」
「私は馬鹿だから、分からない」
「もう二度と死屍子封じをやらなくていいようにしてしまうの。あなたはいい子だから、私のお願いを聞いてくれる?」
小さく首を傾げながら問いかけてくる。心の奥底からの安らぎを感じて、ハルは自分が十二歳の子供になってしまった気がした。首輪を指でなぞり、今の存在を確認する。日の女神と少女を守る駒だ。
「内容によるな」
「あなたには簡単なことだわ。アマテラスとひかりに死屍子封じをやめるよう説得してほしいの。いえ、少し違うかしら。あの子達はこれがなければ儀式ができないものね」
「それ……勾玉の、装飾具か」
胸から提げられた薄黄身色の勾玉は、艶やかな表面に淡い光を帯びている。ぽうっと輝いている勾玉を大切に胸へ抱いて、あかりはハルを見据えた。
「これを私から取り上げないでと言ってくれる? 目的を達するためにはこれがどうしても必要になるから……。あなたにも悪い話ではないと思うけれど」
「いいところも見えてこないが」
「ふふ、大切なことだと思うわ」
いつの間にか触れられる場所まで近づいていたあかりがハルの耳元へ唇を寄せた。懐かしい匂いが肺に広がり、驚くほど落ち着いた気持ちになった。
「ひかりを自由にできるのよ」
「自由……?」
随分漠然とした利点に眉をひそめる。一度顔を離してから愛おしそうにハルの前髪を撫で、次の言葉を紡いだ。
「あの子は天明一族に生まれたことを恨んでいるわ。この重役に押し潰されそうになっている……そうでしょう?」
「そうかもな」
「私が今、死屍子封じを終わらせれば、ひかりはただの女の子になれるの。妖怪を祓う家業も継がなくていいし、好きに生きても誰も文句を言わないわ」
「それが、私に関係あるか」
「知ってるのよ?」
声の調子が変わり、威圧感がハルを包んだ。鼻先が触れそうなほどの近距離で、あかりが微笑むのが分かる。
「好きな子を守りたいのよね、ハル」
あまりにも、魅惑的な言葉だった。
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