第53話「残酷であれ」

「妖怪に操られてるんだとしても、センセーをあんな……あんなことにしたのは許さない!」

 マチネは誠から目を逸らし、奎介を睨みつける。ハルはその隙に窓から研究室へ滑り込み、自分のリュックを探した。小ポケットから何種類かのアロマを掴み取り、必死にその中の一つを探り出す。

「あった、これだ」

 紫のアロマだ、ラベリングは「解術」とある。これをどう使うのか、ジャスから聞いた説明を思い返した。

「これを気化させて奎介に吸わせるんだ、そしたら元に戻る。マチネの力ならできるだろ?」

「要らない。けいちんは今ここで死ぬの」

「操られてるだけだ、その必要はないし術を解けば敵方の情報を得られるかもしれない」

「ううん、そうじゃないの」

 熱風と冷風が吹き荒れ、マチネの頭上には雲ができ始めていた。眉を下げながら奎介へ話しかける。

「けいちん、約束は分かってるよね。ウチらは重要な機密を扱うから、一度でも妖怪に何かされたらその場で殺されるって。だからウチのこと、恨まないでよね」

「俺は、いい」

 無口だった奎介がようやく、口を開いた。開いたそこから黒いもやがかすかに現れ、空気に溶ける。覚悟はあるようだった。

「いいって言ったからね、ウチが正式にけいちんを殺すよ。本当に、やるからね」

 手を血に染めたことはないのだろう。震えていた。マチネが境界線を踏み越える前に、自分がやらねばならないのだろうと、ハルは自然に思った。いつだって汚れたことは妖怪の役目だったのだから。

 奎介は大地を歪めることをせず、マチネと向き合ったまま立っている。背後は取れる。いくつかの小瓶をパーカーのポケットにしまい込み、拳を握った。

「ハルちん」

「ちょっと待て、私がそいつを……」

「センセーの脳みそを食べて」

 唖然としてマチネの方へ振り向いた。目が合うともう一度、食べてと訴えかけてくる。その意図は瞬時に理解できたが、あまりに人らしくないと思った。

「記憶を、奪えって?」

「死んだ直後から記憶の消失は始まってる、直接壊されたならさらに進行は早まるでしょ。喋ってる暇なんかないんだから!」

「後から恨むなよ」

 奎介の横をすり抜ける。大きな手をかわして誠の身体へ手を伸ばし、岩の針から慎重に引き抜く。血と脳漿がぐちゃぐちゃに混ざり合って足元へ飛び散った。白濁している瞳を見つめ、まぶたを閉じてやり、手を入れて脳みそを取り出す。だいぶバラけてしまっているが、ひと思いに飲み下した。

 ──記憶の断片が糸を伸ばし、自分の脳へ絡みつくのが分かった。記憶を奪うという明確な目的を持って人を食べたのは初めてだった。記憶の糸はやがて脳の表面を突き破り、瞬間、二つの記憶が絡み合う。

『ヴぅ……』

 最初に見たものは死にかけた妖怪だった。

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