第35話「無意識の領域⑵」

 その先の景色は凄惨だった。正面の壁にハルが人間を喰らっている場面が大きく映し出されている。初めて会ったあの夜、見ていたのだ。自分はこんなにいやらしく笑うのかと思うと、羞恥で死にたくなった。髪と汚らしい部位だけを食べ残して骨をしゃぶる妖怪の姿はおぞましかった。

『そりゃあこんな姿見たら、誰だって恐怖するよねェ、ククク。恋慕はキミ自身が望んだ感情さァ、誘惑に負けないで真っ先に正解を選んだねェ。偉い偉い』

「主が自分を嫌ってるとこなんて見たくなかったが、仕方ないよな。私が悪いんだから」

『そんな哀れなキミには手を貸してあげよう』

「何をする気だ」

 目の前にひゅうと現れた姿にハルは目を丸くし、脳裏を様々な記憶が駆け巡った。今日見たがいつもと違かったこと、母と慕った姿の首を飛ばした光景と泥から覗く目。ハルの肌がぞっと逆立ち、あかりを模した格好のバクはクククと笑った。

「やっと気づいたのかい? 鈍い奴だねェ、呆れちまうよ。口調を変えて騙すのも飽きてたとこだ、バレなきゃ面白くない」

「お前ッ」

「まあまあ、落ち着きなよ。今からお前に破格の交渉をするんだからね、よく聴きな」

 拳を振り抜くが泥のようなものに変化して簡単に避けられてしまう。バクはニヤニヤとしながら話を進めた。

「死屍子がお前を気に入ったらしい。天明ひかりを汚したら、仲間に入れてくれるってさ」

「断る」

「ひかりを手に入れれば何でもできる、それに天明一族の血肉は美味いらしいじゃないか。死屍子はそんな上等なエサをお前に譲ると言ってるんだよ?」

「絶対に嫌だね!」

 ハルが爪でバクの喉元を貫いた。指の関節まで埋もれて、ぐちゅぐちゅと音を立てる。相変わらずバクはにやけた表情を変えない。ハルは目を閉じてひかりの怯えた顔を思い出した。

「……むしろ決心がついたよ。この身体が太陽に焼かれて朽ちたとしても、ひかりに嫌われるとしても、意地でもあいつを守る」

「愛してるから? 笑えるね」

「私もおかしくって吹き出しそうだ」

 喉の中で指を折り曲げた瞬間、バクの顔が苦しげに歪みごべッとおかしな声をあげた。ハルの舌先が血の噴き出す喉に迫る。

「私がこの世界の性質を理解したことを忘れた間抜けを、嘲笑ってやりたくてしょうがないよ」

 赤眼が歪んだ。

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