第30話:白い闇
その日は、朝から雪がちらついていた。
皆、口々に白い息を吐きながら、防衛の準備を進めている。
石垣の積み上げや進軍経路への油沼の設置など、正規軍は元より、傭兵や冒険者達もフル稼働で働いていた。
「アリシアさんは、ずっとまさると一緒に戦ってきたんですか?」
「まさる?ああ、ゼウス様の事ね。そうね、私が十歳の頃からお付きしてますよ」
石垣前に溝を掘りながらフェリクスが聞くと、豚の胃袋に入った油を流し込みながらアリシアが答える。
「えーっと、いう事は、今十六歳?」
「そうですね」
「僕と一緒だね」
「あら、そうなんですか」
仲良く会話している二人をを横目に、ステファニーが装備の確認を進めていると、後ろからゼウスが近づいてきた。
「ステファニー……さん」
「あ、まさ……ゼウス様、ステファニーで結構ですよ。どうされましたか?」
戸惑うステファニーの横まで来ると、ゼウスは近場の岩に腰を掛ける。
「今の、まさる……だったか、他の者にも何回か言われたのだが、私はそう呼ばれていた時期があるのだろうか?」
灰色の髪に積もる雪を払いながら、ゼウスは尋ねる。
「そうですね……」
僅か一月ほどの出来事とは言え、彼女にはとても大切だった思い出を、紐解く様に胸に手を当て、静かに語り始めた。
「六年ほど前です。あなたは、魔王を倒す勇者として、この国に召喚されました。その時、あなたは『さとう・まさる』と名乗っていました。
「君は私と、どういう関係なのだ?」
「私は勇者様を補佐する僧侶として、共に特訓の日々を送っておりました。……そして」
言おうかどうか迷うう様にひと呼吸おくと、ステファニーは改めてゼウスを見つめ、続きを口にした。
「そしてある日、隣国カーリアの差し金で誘拐されそうになった後、現れた魔王カラックから、私はあなたに命を懸けて守っていただいたのです」
「そうか、それで俺は死んだのか」
ゼウスは呟くと、その後は自らの装備を黙々と点検し始める。
やがて暫くすると、ふと思い出したように口を開いた。
「俺がこの世界に来てから、……君が言うには一度死んでからか、暫くしてある人の夢を見る様になった。起きた時には顔も忘れているのだが、その人がとても大切な人だったと言う事だけは、ずっと心に残っている」
そして作業の手を止め、ステファニーへと顔を向けると、
「多分、それは君の事なのだろう。今も君を見ていると、とても心が安らぐ」
と、優しい目で彼女を見つめた。
不意の言葉に、ステファニーは頬を赤く染めると、俯いてしまう。
「まさる、記憶は戻ったの?」」
その時、丁度溝彫りをしていたフェリクスが戻って来た。
彼の中ではもう完全にゼウスがまさるになっていたし、ゼウスも最早否定はしない。
「いや、まだだ」
「早く戻して、姉さんを嫁に貰って」
「フェリクス? 何言ってるの!」
更に顔を赤くすると、ステファニーはフェリクスを嗜める。
「そうだな。その前に、片付けなければならん奴がいるが」
そう言うと、ゼウスは砦から東の方向、雪で霞む先を睨むと、点検を済ませた剣を腰に戻す。
「今度は、私もお供いたします」
頬を赤く染めていたステファニーは、その呟きに静かに頷く。
「僕も行くよ」
フェリクスもゼウスが睨む方を向くと、言葉を続ける。
遠くで指揮官が休憩の合図を叫ぶと、周りで作業を続けていた者達が集まって暖を取り始めた。
三人が砦から立ち上る煙を見上げると、そこには厚い雪雲が広がっており、これから更に雪が強くなるであろう事を予感させた。
この世界においても、冬の日照時間は短い。夏ならばまだまだ明るい時間帯であるが、辺りはすっかり暗闇に包まれ、砦のあちこちでは、松明が灯り始めている。
しかしその僅かな明かりさえも、吹雪が舞い始めると全てを消し去り、手を伸ばした先さえ見えない白い闇へと変えて行った。
「おい、こっちに明かりくれ! なんにも見えねぇ!」
「あっても雪が光って先が見えねぇよ!」
「くっそ、これじゃあ見張りが足りねぇ、応援寄越してくれ!」
砦の両端にある物見塔では、監視役の兵士が怒号を上げながら辺りを見回している。
石垣に配置されていた傭兵達は砦内で待機中だ。魔物とはいえこの吹雪の中、進軍は無いだろうと判断された結果である。もし、この吹雪の中で大群が鉢合わせれば、同士討ちの地獄絵図が繰り広げられるだろう。
それ故に、見張りの役割はより重要なものとなっているのだが、どうにも手が打てない状況に、兵士達は焦りばかりが増していた。
「追加の見張りだ」
ゼウスはアリシアと何人かの傭兵を連れ、共に左側の物見塔へ赴くと、塔の見張りに声をかける。
「ありがてぇ! 下から周囲の警戒を頼めるか?」
「わかった」
厚手のマントに身を包んだ傭兵達は、二組に分かれると、交代で塔の周囲の警戒に当たった。
一方、右側の塔へは、ステファニーとフェリクス、そして数名の傭兵が追加の見張りとして向かっていた。ゼウスと一緒に戦うと話してはいたものの、そこは所詮雇われ傭兵、戦力のバランス的にこういう配置にならざるを得なかった。
「こんな吹雪で敵来るの?」
「どうでしょうね、って、フェリクスやけに軽装ね。寒くな……あぁ」
僧侶のローブの上から更に皮製の外套を被っているステファニーは、フェリクスの背中がぼんやり赤く光っているのを見て、ひとり納得した。
吹雪の中、物見塔へ向けて暫く歩いている途中、ふいにフェリクスが声を上げる。
「姉さん!」
ステファニーは、その声の意味を既に理解していた。
塔の前方から、以前感じた気配が迫っている事を全身で感じ取り、肌が泡立つ。
「急ぎましょう!」
ステファニーは一言返すと、塔へ向けて走り始めた。
「向こうが本命か。お前らは下がっていろ」
ゼウスは、眼前に立つ敵を前にしながら、もう一つの塔に現れた気配を感じると、周囲の傭兵を下がらせる。
「私がハズレと思われるのは、いささか心外ですねぇ。」
収まり始めた吹雪の先に立つ影は、怒りと言うよりは嬉しそうな声で答えると、ゆっくり歩みを進めて来た。
「貴様……」
「こうして再び相まみえる事が出来るとは、シルヴァス様に感謝の祈りを捧げねばなりませんねぇ」
塔からの灯りが届く様になると、歩いて来る影が徐々にその姿を現す。
そこには、こんもりと盛り上がった外套を身にまとう何かが立っていた。
「それは流石に着込み過ぎだろう」
「ヴァンパイアとて、寒いものは寒いのです。少々お待ちください」
そう言うと、上着を一枚一枚脱ぎ始める何か。
やがて姿を現した中身は、黒で統一された衣装に大きく張り出した白い
まだ僅かに舞い続ける雪と同じ色の髪を、肩まで靡かせながら、赤く光る両眼をゼウスへと向ける。
「お待たせしました。前回は名乗りを上げておりませんでしたので、改めまして。
右手を胸元に添えると、ダリウスは恭しく腰を折った。
「前に斬り捨てたと思ったのだが。あと、名前が長い」
「敵役がすんなり退場しては、あなたも張り合いが無いでしょう。今宵は存分にお付き合いいたしますよ」
両手を構えると、十の爪を伸ばし、鋼鉄の刃へと変える。
「あまり手間はとれんのでな、早めに片付けさせてもらう」
そう言うと、ゼウスは剣を鞘から抜き、両手で構えた。
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