第19話 笑顔でバイバイ
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エリコはここが夢なのか現実なのかがわからなかった。
意識はもうろうとしているし、トラックに乗っている感覚すらもない。
真っ暗な闇の中で漂っているかのような、不思議な浮遊感が自分の体を包み込んでいた。
ここはどこ――。
エリコは心の中でか細く言葉を吐き、意識体のような視覚で周囲を見渡した。
だが深い闇がどこまでも広がるだけで、なにも目にすることができなかった。
それよりも体がとても冷たい。
凍えるように寒い。
しかし、右手だけが、ほのかに温もりを感じ取ることができた。
そのわずかな暖を頼りに、エリコは途切れそうな意識を保ち続ける。
あたし――あの人を殺したんだ――。
それと同時に、自分が雅治を殺したことを思い出した。
相手を死に至らしめた直接的要因は、ドラコンによるブレス攻撃。
だがそのドラゴンを、ましてやインシェントドラゴン(古代竜)を召喚したのは自分である。
殺意がなければ最強クラスの召喚魔法など使わない。
むろん、殺した相手は同じ人間だし、良心の呵責があるのも確かだ。
だがそうするしかなかった。
雅治はただの転生志願者ではなく、魔法を解き放つ転生帰還者だったのだ。
しかも彼は文太郎に手を出すばかりか、無関係な人まで大勢殺そうとした。
もしあそこでとどめを刺さなければ、きっと同じ過ちが繰り返されていただろう。
今回に限らす、異世界では殺意も持って人を殺めたこともある。
自分を狙う盗賊や暗殺者、そんな無法者に手加減などはしていられない。
魔法を相手に解き放てば、それはさやから剣を抜いたも同じこと。
やらなければこちらがやられてしまうのだ。
それがエリコの転生した異世界であり、日常の陰にはいつも暴虐な死が潜んでいた。
雅治を殺めたことに起因して、自身に置かれた現状も把握した。
文太郎にかけられた暗黒魔法の解除。
聖剣の具現化。
戦闘に関連する魔法の発動、およびドラゴンの召喚。
これらで魔力は使い果たした。
自分にはもう魔法は使えない。
ごめんね、文ちゃん――。
あたしはもう、文ちゃんを守ってあげることはできないの――。
エリコは底なしの闇にさまよいながら、ある種の罪悪感に苛まれていた。
涙が出るという感覚はないのに、心の中ではしっかりと涙が流れている。
文太郎はどうしているのだろうか。
一人でトラックを走らせているのだろうか。
次から次へと現れる転生志願者たちに、一人で立ち向かっているのだろうか。
そう文太郎の身を案じても、それを確かめるすべはない。
消え入りそうな声で必死に呼びかけてみても、彼からの言葉は返ってこなかった。
おそらくここは、死後の世界。
魔力を一気に使い果たしたことで、生命エネルギーも事切れてしまったのだ。
やがてこの闇に飲み込まれ、意識もろとも消えてしまうのかもわからない。
エリコはそれでもいいと思った。
文太郎をゴールまで導くことはできなかったが、自分はやれるだけのことはやった。
あとは彼の力を信じて、どこか遠くから見守ることができればそれでいい。
だんだん眠くなってきた。
意識を保つこともつらくなってきた。
早く楽になりたい。
そんなとき――。
「エリコ――」
暗闇のずっと向こうから、自分の名前を呼ぶかすかな声が聞き届く。
「エリコ!」
名前を呼ばれるたびに、その声がどんどん大きさを増していく。
「エリコ! 頑張れ! 死ぬんじゃない!」
文太郎の声だ。
文太郎が自分を呼んでいる。
この右手に感じる温もりは、彼のものであるのだと確信した。
それとともに、エリコは暗闇の中に幻影を捉えた。
自分が伸ばした右手のすぐ先、そこに命の恩人がいる。
ゴンベイだ。
それは、タリア迷宮で最後に目にした、彼の後ろ姿。
何百万の敵に一人で立ち向かう、ゴンベイの力強い後ろ姿だ。
その背中が、「お嬢ちゃん、こっちに来い」、と優しく語りかけていた。
そんなゴンベイの声色は――。
文太郎の声そのものだった。
あたしはまだ死んでない!
生きてる!
待ってて、文ちゃん!
エリコは心の中で奮い立ち、文太郎の手を強く握り返した。
そして、海の底から引き上げられるかのように、エリコの視界にひと筋の光が差し込んだ。
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文太郎の頭に葬式の二文字が浮かんだ矢先、エリコが意識を取り戻した。
それでも衰弱しきった様子で瞳もうつろだ。
安心できる状態とは言い難い。
「エリコ大丈夫か! 高速はもう下りたからな! 病院ならすぐだぞ!」
「あたしは大丈夫。病院も行かなくて平気」
「本当か! 本当に大丈夫なんだな!」
「うん、文ちゃんがあたしの手を握ってくれてたおかげ」
「そ、そっか……それならいいんだ……」
文太郎は今も手を握っていたことに気づき、よそよそしくそれを離した。
母親以外の女性と手を握ったのは、林間学校のキャンプファイヤー以来だ。
そんな小っ恥ずかしい話はさておき、文太郎は先ほどの光景が気になった。
エリコが雅治と剣を交えて戦っていたことである。
しかも決めの一手となったのは、とつじょ空に出現した巨大なドラゴン。
その口から吐き出された暴風雪が、雅治をカチンコチンに凍らせ、彼を奈落の底へ叩き落としたのだ。
自分の頭がおかしくなったのはわかっている。
見えてはいけなものがいろいろ見えたのだから、病院にも行こうと思っている。
しかし、直接エリコに尋ね、あのような事実はなかったという確証を得たかった。
「エリコ――」
と言いかけたところで、文太郎はその質問を急きょ取りやめた。
仮にだ。
仮にエリコが普通の人ではないとしても、彼女への想いは変わらない。
その想いが届かなかったとしても、自分が惚れた彼女の本質は変わらない。
だから文太郎はくだらない勘ぐりを捨て去り、旅路の終わりに向けトラックを走らせた。
そんなところにエリコがぽつりと口をひらく。
「ねえ、文ちゃん。あたしとの約束、覚えてる?」
「たしか、熊本城近くの交差点に用事があるんだったか?」
「うん。水道町の大きな交差点」
「そこに行けばいいんだな?」
「ただね、五時十五分の数分前に着くようにして」
「そんなギリギリの時間でいいのか? なにか用事があるなら、もっと早くに着いたほうがいいと思うぞ」
「ギリギリじゃなきゃダメなの。もっと詳しく言うと、五時十五分ちょうどに、信号の前で三車線を塞ぐようにして止まって。それがたとえ青信号であったとしても」
それを聞き、文太郎は困惑してコメカミをかいた。
用事もなにも、それではただの交通違反だ。
「それってまずいだろ……。お巡りさんに怒られるかもしれないし、ほかのドライバーにも迷惑がかかるんだぞ……。つーか、おまえの言ってる意味がまったくわからん……」
「いいから、あたしのお願いをきいて。十秒ぐらいだけ止まっていればいいから」
文太郎も地図で確認したが、水道町の交差点を通る国道三号線は、片側が三車線だ。
エリコの言うとおりにするなら、トラックを斜めにして車線を塞ぐことになる。
それに青信号でそんな危険なことをすると、大事故に繋がりかねない。
最悪、交通事故で人が死ぬ可能性だってある。
それでも文太郎は、その願いどおり、トラックで道路を塞ぐことにした。
エリコがなんの意味もなく、そんな無謀な行為を頼むわけがない。
きっとなにか、のっぴきならない事情があるはずだ。
ゆえに、善良な熊本市民を敵に回したとしても、お巡りさんにこっぴどく怒られたとしても、惚れた女の言葉は信じなければならない。
男気あふれるジェントメンとして当然のことである。
そして、時刻は夕方の五時十分。
水道町の大きな交差点が見えてきた。
タイミング的にはバッチリだ。
サイドミラーで後方の車を確認し、接触事故を起こさないよう、ゆっくりと右へハンドルを切る。
トラックは斜めに走行し、手はずのとおり、信号前で三車線を塞ぐことに成功した。
運も味方した。
交差点への進入方向の信号は赤なので、これなら後続車への迷惑は最低限で済む。
車内のインパネで時刻を確認する。
五時十四分。
エリコの指定した、五時十五分まであと一分だ。
しかし――。
「おいコラ! どぎゃん止めかたしとるったい!」
「きさん! 交差点のド真ん中でなんしよる!」
「はよどかんか!」
「あんまなめとっと、うち殺すぞ!」
信号待ちの後ろでは、善良な熊本県民の皆様が、たいへんお怒りのご様子。
雨あられとクラクションが鳴り響き、暴力的な言葉がたくさん飛び交っている。
このままではフルボッコにされそうなので、文太郎はしかたなく運転席を降りた。
そして、信号待ちの皆様に向け、大きな声でこう呼びかける。
「熊本県民のみなさーーーーん! こんにちわーーーーーー!」
文太郎が山びこスタイルで手を振っても、彼らから「こんにちわー」は返ってこない。
あたりまえだ。
とりあえず呼びかけを続ける。
「俺は遠路はるばる北海道からやってきた、菅原文太郎と申しまーす! なにせ熊本に来るのは初めてなもんで、緊張してハンドル操作を間違えちゃいましたー! だからみなさん、そんな血管ぶち切れそうな勢いで怒らないでくださーい! 本当にすみませんでしたー! それと、熊本っていいところですよね!」
地元民でないことをアピールしつつ詫びを入れ、最後に熊本をヨイショしたところ、ブーイングは嘘のようにピタッとおさまった。
やはり彼らは善良な熊本県民だった。
文太郎はほっと安心し、ひとまず運転席に乗り込んだ。
時間を確認する。
五時十四分五十秒。
残り十秒だ。
エリコは口をひらくこともなく、助手席の窓から横断歩道の左側に目を向けている。
ガラスに反射する彼女の瞳は、まるで黄昏を見つめるかのように物静かなものだった。
そのはかなさを色濃く湛えた眼差しで、彼女はなにを考えているのだろうか。
その視線の先には、いったいどんな答えがあるというのだろうか。
約束の時間が残り数秒に迫る中、文太郎はエリコの背中に無言で問いかけ、そして、彼女が見据える先に自らの視線を重ねた。
五時十五分。
車道の信号が青に変わり、横断歩道の信号が赤となる。
すると――。
「待ってー」
そんな声をあげながら、横断歩道の左から女の子が飛び出してきた。
その小学校一年生ぐらいの女の子は、コロコロと転がるボールを追いかけている。
海水浴で使うような、スイカ模様のビニールボールだ。
横断歩道の信号は赤なので、この子が車に轢かれてもおかしくはなかった。
しかし、文太郎のトラックが片側三車線を塞ぎ、盾の役割を果たしている。
次の瞬間――。
「ちょっと! 危ないわよ!」
大声でそう叫び、一人の女性が慌てて女の子を追いかけてきた。
その女性は、キョトンとする女の子を抱きかかえ、即座に歩道側へ踵を返していく。
それを見た文太郎は、息をするのも忘れ、あんぐりと口を開けて固まった。
なぜなら――。
その女性がエリコにそっくりだったからだ。
いや、そっくりさんどころではない。
ポニーテールの髪型、顔つき、声、体型にいたるまで、エリコ本人としか思えないほど瓜二つだった。
違う点があるとすれば、こちらのエリコはTシャツにジーンズ姿。
あちらのエリコさんは、白地に花柄のワンピース姿。
それ以外は、鏡に映したかのようにまったく同じだったのだ。
「おい、エリコ……。あちらのエリコさん、おまえにしか見えなかったんだが……」
「文ちゃん、もうトラックを走らせてもいいよ」
「そ、そうだったな……」
あまりの衝撃で忘れていた。
トラックは青信号で道路を塞いでいるのだ。
後続車からはクラクションも鳴らされている。
文太郎は交差点を抜けたのち、進路を変えて熊本城の駐車場にトラックを止めた。
ここに来た理由は、観光の大型バスを駐車できるスペースがあるからだ。
この場において、丸太を積んだトラックはとんでもなく異質。
だがそんなことは言っていられない。
エリコにいろいろ訊かねばならないことがある。
「おい、エリコ……。さっきのアレはなんだったんだ……。あちらのエリコさんは何者だったんだ……」
「あの人は、あたし。あたし本人なの」
エリコはうつむきながら口をひらいた。
その声色には、うら悲しげな感情が滲み出ている。
「でも……おまえはここにいるじゃないか……。本人が二人いるのは、どう考えてもおかしいだろ……」
「あの人は、あたしから見ると過去のあたし。その過去のあたしは、あそこで文ちゃんのトラックに轢かれて死ぬはずだった」
「まさかそれって……トラック転生なんじゃ……」
「それを自ら望んだわけじゃないけどね。でも、結果的にあたしはトラック転生で異世界に転生した。そして、あたしは文ちゃんを守るために未来からやってきた」
そう言って、エリコは自身の手のひらに視線を落とした。
なぜかその手は半分透き通っている。
いや、よく見ると、彼女の体すべてが透き通っている。
「そろそろ時間かな」
「時間ってどういうことだ……。時間ならまだたっぷりあるんだぞ……。丸太の納品は明日まででいいことになってるんだ……」
「ううん、そうじゃなくて、あたしは異世界に帰らなきゃいけないの。だって、あたしの役目はもう終わったんだから」
エリコの体はさらに透き通りはじめた。
髪や肌、服の色彩までが抜け落ち、まるで水で描いた絵のようにおぼろげだ。
「おいエリコ! 待ってくれ! 行かないでくれ!」
文太郎の必死の訴えに、エリコは無言で首を振る。
そんな彼女の頬に、ひと筋の涙が伝わり落ちた。
「帰りはじゅうぶん気をつけて。文ちゃんならきっとできるよ。あたしにできることはここまで。文ちゃん、バイバイ」
エリコは顔を上げると、運転席を向いてニッコリと目を細めた。
そのくったくのない瞳からは、絶え間なく涙が滴り落ちていた。
「あれ、おかしいな――。なんか、涙が止まらない――。文ちゃんとは笑顔でバイバイしたかったのに――」
その言葉とは裏腹に、エリコは顔をくしゃくしゃにして泣いていた。
肩を小刻みに揺らし、涙を拭うその姿は、もう僅かな輪郭を残すだけとなっている。
文太郎には異世界とやらはよくわからない。
それが本当に存在しているのかもわからない。
しかし、エリコがこの場からいなくなろうとしているのは確かだ。
そんな彼女に、どうしても伝えておかねばならぬことがある。
「俺はまだ告白だってしてないんだぞ! 俺はエリコのことが好きなんだ! 嫁さんにしたいほど大好きなんだ! だから行かないでくれ!」
「ありがとう、文ちゃん――。本当にありがとう――」
文太郎の伸ばした手から遠ざかるように、エリコは空気に溶けて消えていった。
車内には夕陽が差し込み、彼女のいた助手席を儚く茜色に染めている。
文太郎はハンドルに頭を乗せてうなだれた。
いつまでも、いつまでも、ただそうして涙を流し続けた。
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