第三話

「おや桐生嬢、消しゴムが落ちたのであるぞ」

「ありがとうございます」

「では友人になろう」

「結構でございます」

 桐生嬢はなるほど名家のお嬢にふさわしい言行の持ち主であった。常に優等生然として、教室内の皆からも一目置かれる存在であった。

 豊かな黒髪はいつ目にしようと艶めいており、指先まで神経の行き届いた所作、美しき姿勢は見る者の心を奪わないことがなかったのである。まあおそらく彼女に最も心を奪われていた存在は、常日頃から彼女の後ろに席を取る私であっただろうが。

 つまりは何を言いたいのかというと、学生生活を共に過ごして早や一月、私は、桐生嬢から一部の隙すら見出しえなかったのである。

「だがしかし待っておるのだ桐生嬢、いずれ私はそなたの化けの皮をペリペリとめくって、その本性を暴き出してやるのだ……!」

「まだ言うか」

 そんな私をしかし、隣の席の友人は冷ややかな目で見つめておった。最長不倒という、桐生中学の中でも随一の体力を持つ女史であった。体操では一、二を争う成績を残している。

「先日の試験において声高々に『我と勝負せよ!』と桐生女史に挑んだ挙句、見るも無惨な結果で敗退したのは何処の誰であるか」

「だ……だって、あそこまで優秀であったとは知らなんだもん!」

 桐生嬢はあらゆる勉学やその他実技において抜群の成績を誇っておった。歴史や国語等の座学は言うに及ばず、選択科目であった外国語を履修し、家事や裁縫、図画の技術も抜きん出ていたのである。最長不倒は体操において一、二を争う成績であると述べたが、その一、二を争う相手こそが桐生嬢であった。

 中でも特筆すべきは音楽である。声楽やその他あらゆる楽器に通じており、教室内の皆は彼女の歌声や演奏に聴き惚れるばかり。これにおいてのみは私も初めての授業で格の違いを思い知らされたので、あえて勝負を挑まなかったほどである。決して逃げたわけではない。本当だぞ? 本当であるぞ?

「一体、いつになったら桐生嬢は私に心を開いてくれるというのか……」

「いい加減諦めてみる頃合いではなかろうか」

 私の内より漏れた言葉を拾い、最長不倒は諭すような口調で言葉を継いだ。

「この一ヶ月、事務連絡以外に桐生女史が自発的に口を開いたことがあったであろうか。彼女は別に友人なぞ必要としていないのではないか?」

「いやしかし」

「お主は桐生女史を孤立した存在と見做して積極的に交流を求めているのであろうが、その実、彼女は孤立ではなく孤高の存在であって、心からお主を必要としていないのかもしれぬぞ。笑顔になって欲しいなどというお節介は、ただただ彼女にとっては迷惑以外の何物でもないのかもしれぬぞ」

「……」

「事実、桐生女史は誰に頼らずとも生きてゆけるほどの家格と才覚とを備えておる」

 そのようにして、最長不倒は自身の桐生嬢に対する認識を締めくくった。そしてそれは私の中に薄々と存在していた懸念を明確に言語化したものに相違なく、私は何も言い返せなかったのである。

 んが。

「桐生嬢、そなたの執事を名乗る者からお弁当が届けられたのであるぞ」

「ありがとうございます」

「では友人になろう」

「結構でございます」

 最長不倒の認識には間違いが存在した。私はとても自分勝手で、そして我儘な若者なのである。

「桐生嬢、我が家の近くに相生の松というのがあってだな、つい先日観光地化するための整備が終わったそうなのだ。是非とも共に参ろうではないか」

「結構でございます」

 私は、桐生嬢にその鉄面皮をペリペリと剥がして笑顔になって欲しいなどというそんな優しさを、これっぽっちも持ち合わせていなかったのである。

 私が、桐生嬢の笑顔を見たい。

 それだけである。

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