死のループ

 冬月紗也華と会わなくなって、どれだけの月日が流れたのだろう。きっかけはなにだったか。彼女の好意に気付いたからか、クラスが変わったからか? いいや、言い訳だ。どうにも気まずくて彼女とは顔を合わせづらくなっていた。それでも、そろそろいいだろう。彼女と腹を割って話し合っても。そうする義務が自分にはある。心の中で決意を固めた矢先に、訃報を聞いた。

 友人の有希から電話で、「冬月が死んだ」と。

 八月一三日の出来事だった。

 ただ聞いて、ショックでなにも言えなかった。唖然として固まった。せっかく会おうと思った矢先のことだったのに。なにもかもが信じられなかった。

 茫然自失のまま四日後の葬式に参加した。こじんまりとした建物の和室に、親戚縁者が集まる。その中に紛れるように学生服姿の生徒も正座をしていた。クーラーは効いているはずなのに、なぜか暑く感じた。冷やせなのか気持ちの悪い汗が肌を伝う。仏壇の前には棺が見える。中には少女が入っているはずだ。何度も顔を合わせて遊び、語り合った幼馴染が。死んだのは彼女だ。分かっているのに逆のように思えてしまう。まるで自分が死んだような感覚が胸を貫く。とにかく生きている実感が湧かない。本当に冬月が死んだのかすら、確証を持てない。もしかしたら生きているのではないか。ひょっこり棺から身を起こして驚かせるつもりではないのか。うつむき、眉を寄せる。突然の出来事に気持ちが追いつかない。化かされているような感覚。いいや、どうせなら本当に化かされていてほしかった。彼女の死を嘘にしてほしい。祈るような心持ちで坊主の唱える念仏を聞いていた。

 葬儀を終えてからのことは覚えていない。うつろな表情で道を歩いて、家に戻った。部屋に入ると着替えもせずにベッドに横になり、目を閉じた。いっそ、なにもかもを忘れたかった。今日の出来事をなかったことにしたい。疲れ切った体は一瞬で眠りの底へと沈む。彼の意識は暗闇の中へ吸い込まれていった。


 けたたましい目覚まし時計のアラームが夜明けを知らせる。ベッドの上で青年は目を覚まして、不快げに眉を寄せた。うんざりと瞬きをしてみると、視界が戻る。目を横へ滑らすと、四角いさんで区切られた窓がある。ガラスが映す外の景色は夏らしく、鮮やかだった。空は青く澄み渡り、うっすらと雲がかかっている。なおもうるさい音を奏でる目覚まし時計。いい加減に近所迷惑だ。腕をだらりと伸ばして、ボタンを押す。音を殺してから身を起こし、頭をかいた。手のひらでも分かる程度に毛が跳ねている。寝癖だろう。整えなければならないと分かっているが、面倒くさい。それよりも眠気のほうが勝る。動きたくない。まだ寝ぼけたままでいたい。欲望に身を負かして、彼はベッドに沈んだ。早朝の涼しさをよいことに、快適な眠りに引き込まれる。

 彼は二度寝を決め込んだ。夢から覚めるために何度もまぶたを閉じ、寝直す。一瞬で深い眠りに落ちる感覚は気持ちがよい。だけど、さすがに何時間も寝ていると、眠気も覚める。

 いつの間にか昼になっていた。空は鮮やかさを増し、入道雲がもくもくと昇っている。太陽も天高く昇り、灼熱の光を放つ。さすがに暑い。汗ばんだ体を起こして、眉をひそめる。

 さて、今は何時だ? 目覚まし時計に目を向ける。デジタル時計であるため、時計の針はない。ただ数字のみが刻まれている。書かれているのは現時刻のみならず、現在の日付もだ。と、青年は瞠目し、我が目を疑った。

 デジタル時計は八月一三日と示している。くっきりと写った数字を目に入れて、おかしいなとひとりごちる。葬儀があったのは一七日だ。本来なら今日は一八日であるはず。

 気にはなるがいい加減に喉がかわき、干からびそうだ。体の水分が持っていかれたようで、ふと力を抜けば倒れそうになる。さっさと立ち上がって、台所に駆けんだ。蛇口をひねって、水を流す。銀のシンクに水滴が飛び散った。青年は水切り籠からグラスを取り出す。一度洗ってから、水を注ぐ。三分の二まで入れてから、飲んだ。透明感のある味が喉を流れた。無味の中に麦茶のような味をかすかに感じた。余計な成分がないような純粋さで、お茶代わりにグビグビと飲めてしまう。

 何杯も水を飲んで、体に潤いが行き渡る。生き返ったような気分で、「はぁー」と雄叫びを上げ、空になったグラスを置く。流しっぱなしになっていた蛇口も締めて、台所からさろうとする。

 気分が上がってきたところで、アラームが鳴り響いた。台所と同じ場所にあるリビング。その角にある電話からだ。なんだと思いながらも動き出す。台に近づき受話器を取って、耳に当てる。

「はい、日向です」

 のんきに名乗ると相手が急くように、返してきた。

『大変なんだ。冬月さんが……』

 おのれの緊張感のなさが空気を読めていないように思えるほど、相手は焦っていた。それは友人である有希の声だ。電話越しで若干声が変わって聞こえるが、それは確かに同級生の青年のもの。

 それから相手は息を呑んだ音を出し、なにかに怯えたように声を震わした。

『死んだって……』

 聞いて絶望感が胸に落ちる。世界から音が消えた。手から力が抜け、受話器から離れ、腕をだらりと下げた。

 衝撃的な話。だが、既視感がある。そうだ、自分は冬月の死を知っている。つい先日、葬儀に参加したばかりではないか。もしや、いままでの出来事は夢で、あれは予知夢であったのだろうか。薄ら寒い感覚が背中を撫でる。寒くないのに震えていた。

 混乱しつつも、なにをどうこうとはできず、四日後の葬儀におとなしく並ぶ。焼香を済ませてお悔やみを聞いてから、彼女の家を出た。夜の重たさを背負って、静けさに満ちた町を歩く。彼はまっすぐに家に帰った。

 その日はなにも考えずにベッドに寝転がり、眠りについた。


 夜が退き、太陽が昇る。相変わらずうるさい目覚めし時計を止めてから、日付を確認する。薄灰色の画面に八月一三日と映っている。ついでに時刻を見ると、午後八時半のようだった。朝にしてはすっきりとした目覚め。なぜか頭が冴えている。今日、なにが起きるのかが読めているせいだろうか。

 彼は考える、現状を。

 第一に自分は同じ日を繰り返している。彼女の死を見届けてから、眠りにつくと、八月一三日に日付が巻き戻る。おそらく今日、昼になると電話がかかる。応じると有希が出て、冬月の死を知らせる。そう、彼女は死ぬのだ。昼前には必ず。阻止するのなら朝に内でなければならない。そうでなければ間に合わない。

 そう思うと途端に心が疾る。彼は勢いよくベッドを飛び出し、疾風のごとく速度で駆けた。

 玄関を出て、道路へ。地を蹴り、かっ飛ばす。彼女の家にたどり着く。玄関へ伸びる小道を通って、引き戸へ飛びつく。施錠のされていない戸を開いて、中に入った。すると、奥のほうからくすんだ印象を持つ女性が顔を出す。彼女は不思議そうな顔で玄関までやってきて、彼の顔を覗き見る。

「紗也華は?」

 彼女の母を見上げ、息を整えながら、問う。

 祈るような心持ちで返答を待った。しかし、母の解答は芳しくなかった。

「出ていったわ」

 聞いて、頭から血の気が引いた。

 家にいたのならまだ間に合うかもしれなかった。だが、外にいるのなら、探せない。今頃彼女はどこで、なにをして、なにに巻き込まれたのか。混乱が頭の中で渦を巻いた。

「彼女はどこに?」

 尋ねても母は答えなかった。彼女はなにも知らされていないようだった。

 これではいけない。彼は相手に背を向けて、家を飛び出す。道路を走り、あちらこちらへ顔を覗かせた。しかし、手がかりは得られなかった。目撃情報はおろか、その影すらも。

 そして約束の時間を迎える。青年は立ち止まった。ちょうどそのとき、胸ポケットが震えた。中に入ったスマートフォンから着信が走る。小さなタブレットを取り出し、画面に映った受信のアイコンをクリックしてから、耳に当てる。

『よかった、繋がった』

 有希の声が鼓膜を揺らす。

『いいか、聞けよ』

 彼は焦ったような声で言葉をつむぐ。聞き慣れた死の知らせを。

 ぬるい風が吹き抜けていく。彼はただ、なにも言えぬまま立ち尽くす。

 そして青年は絶望と共に黄昏を迎えた。


 いつもと同じように葬式に参加する。クラスメイトと一緒に夏服姿で、畳に座る。隣にはちょうど、見知った顔がある。名は誰だったか。楓と聞いたことがある。長い髪を高い位置でまとめた生徒だ。彼女は冬月紗也華と仲がよかった。なにか知っているのではないだろうか。一縷の望みに思いを託すように、青年は小声で相手に話しかけた。

「冬月のこと、なにか知ってないか?」

 突然声をかけられて、彼女は肩を震わす。一瞬、目を見開くもすぐに落ち着いた表情になり、考え込むように視線を下げた。かすかな沈黙の後、楓はかすかに口を開いた。

「多分、冬月と最後に会ったのは、あたしだと思う」

 曇った眉に鎮痛な思いがにじむ。

 一方、日向は彼女の言葉に一種の希望を見出した。冬月が死ぬ前に会っているのだとしたら、なにか情報を得られるはずだ。暗闇の中で光を見出したような心持ちで、青年は返答を待った。

「でも、分からない。あの子、なにも言ってくれなかったよ」

 顔を上げ、遠くを見るような目つきになる。彼女は天井のあたりを見ていた。

「公園でただぼんやりとしてた。『なにをしてるの?』って聞いたんだよ。でも、なにも答えてくれなかった。いいえ、きっとなにもしてなかったんだと思う。なにもする気が起きなかった。だからああやって、ぼんやりとしてたんだよ」

 楓の言葉を聞いても、うまく飲み込めない。それがなにになるのか。彼女を救う手がかりになるのか。頭には雲のような疑問がよぎる。自分はいったいこれからなにをするべきなのか。この情報を生かさなければならない。そう自身を急かしても、現状は変わりそうになかった。

 とりあえず公園に足を運んだ。簡素な遊具の並ぶ、つまらない場所だ。かろうじてベンチがあって、休憩はできそうだが、それだけだ。こんな遊ぶにも中途半端な場所になにの用があったのか。いいや、用などなかった。ただ、そこにベンチがあったから休んでいただけなのだろう。自己完結をしてみたが、やはり意味などない。これではなんの解決にもならない。

 しばらくぼうっと突っ立ってみたが、なにも起こらなかった。頭の中は空っぽだ。考えもヒントも浮かばない。日向は首をひねりながら、歩き出す。公園に背を向けて、歩道へと足を進めた。

 帰り道、不穏な気配に鳥肌が立つ。振り返ると、黒い影が見え、すっと消えた。そちらへと赴く。ビルの陰のあたりだったはずだが、なにもない。ただ、アスファルトには一枚の札が落ちている。黒い字の刻まれた不気味な呪具。今にも禍々しいオーラを放ちそうなそれに触れる勇気はなかった。

 また不快げに眉をひそめたとき、足元で黒い毛の固まりがやってきた。黒猫だ。目を合わせる。青い瞳。急にあたりの温度が夜のように下がり、ぬるい風が吹き付ける。半透明のベールをまとったような雰囲気。異界に迷い込んだように錯覚する中、猫はふいと視線をそらし、去っていった。

 なおも日向は立ち尽くす。風は吹き止まなかった。


 謎が解けないまま四回目の朝を迎える。また時間が巻き戻る。デジタル時計を睨みつけながら、今日こそはとひとりごちる。そう、今日こそはなんとかして見せる。残り時間はわずかだ。

 焦る心の隙間に入り込むように、あることが頭をよぎる。一日を終わらせる前、自分は黒い影を見ていた。黒い猫も。

 まさか、まさかな……。その可能性に思い至って馬鹿らしくなって、口の端をつり上げる。

 現代日本だからありえないと分かってはいるものの、可能性は否定できない。気になって仕方がなかったため、現場へ戻ってみることにした。

 日向は交差点にやってきた。歩道へ来て、三回目の昼間に電話を取った場所で立つ。じっと立ち尽くしている内に太陽が昇る。灼熱の光の下、汗をじっとりとかきながら、時間を待つ。焦れるような気持ちを抱えて待っていると、胸ポケットに入ったタブレットが震えた。アラームが鳴り響く。スマートフォンを手に取りつつ、ビルの奥へ視線を向ける。黒い影が視界に入った。本当に現れた。口をあんぐりと開けて、立ち尽くす。あやうくスマートフォンを落としそうになった。

 とりあえず、スマートフォンのアイコンをタッチして、受信を拒否する。有希には申し訳がないが、連絡の内容は知っている。そう何度も幼馴染の死など聞きたくもない。それよりも重要なものがある。

 日向は地を蹴り、走り出した。すると影も背を向け、走る。逃げるそれを追いかけると、相手は林へと駆け込んだ。それを追いかけ、自身も突入する。そこは薄暗い場所だった。シャープな針葉樹で日差しが遮られ、陰鬱な雰囲気が漂っている。足元に生えた草も邪魔くさい。駆ければ体を撫で、肌を刺激する。熱いような痒さを感じながらも、足を止めなかった。

 幸い、相手の足は遅かった。目の前で無様に転げそうになっている。こちらはスマートに走れたため、着実に距離が縮む。そして、影に追いつき、肩に触れた。途端に相手は体を震わし、背中まで伸びた髪が跳ねた。影がびくびくと振り返り、顔をこちらへ向ける。ようやく相手の顔を見る。それは左の目を前髪で覆った女だった。

「お前は……!」

 瞠目し、声を出す。

 名を思い出すのに時間がかかったが、彼女のことは知っている。小夜子だ。クラスの中でも目立たず、教室の端で常に本を読んでいる。長く伸びた黒髪も相まって、陰鬱な雰囲気が漂っていたのが印象に残っている。

 対する小夜子は目を泳がせ、あわあわと汗をかく。

 こちらとしても驚きを隠せないが、彼女が冬月を害したのなら、容赦はしない。彼は引き締まった顔つきになった。眉と目を釣り上げ、睨みつけるように、彼女を見据えた。

「違う。私じゃない」

 彼が咎めるよりも先に、彼女が慌てだす。

 だが、その言葉はボロを出しているようなものである。焦るということは心当たりがあるということ。手応えを感じ、喜びを得るよりも先に、怒りがこみ上げてきた。

「お前なんだな?」

「だから違うって言ってるでしょ。私は呪術師じゃない!」

「呪術師?」

 それらしさは感じていたが、まさか本物とは。

 気が抜けて、彼女を取り押さえる手も緩む。それをチャンスに女が逃げ出す。だが、完璧には逃さない。日向は一歩で距離を詰めると、力強く彼女の腕を掴んだ。

「離してって!」

 腕を振り回して暴れる。

 日向は動じない。

 彼女の腕を掴んだまま、動かない。

 相手も、無駄な抵抗だと察したらしい。足を止め、肩を落とす。すっかりおとなしくなり、気落ちした様子でこちらを向く。うっすらと水を張った目で、彼を見上げた。

「私じゃないのよ……!」

 振り絞るような声だった。

 実にいたいけな態度だが、信じきれずにいる自分がいる。

 本当に彼女は無実なのか。呪術師なのだろう。呪い殺すことなど、容易いはずだ。

 しかし、冷静に考えると、自分はなにも情報を得ていないことに気づく。いくら可能とはいえ、人を殺すなど大胆なことが、目の前の女にできるのか。凄まれただけで怯え、逃げ出そうとする女に。

 だからこそ怪しいといえるのだが、今は安易な決めつけは避けるべきだ。

「本当よ。私と彼女には接点がない。なにもない」

 強調するように、小夜子は訴える。

 確かに、そうだ。クラスの中で彼女は空気だった。挨拶を交わすこともなければ、落とし物を拾って届けるといったイベントもなかった。小夜子は誰とも深く関わったことがない。

 ただ一つ、確かめておきたいことがある。だから彼は口を開く。慎重に顔色を伺うように、言葉にした。

「お前、俺のことが好きか?」

「はぁ!?」

 思いもよらぬ質問に瞠目し、大声を出す。

 まさに思いもしなかったといった態度だ。

「あんた、自分がモテるとでも勘違いしたわけ?」

 眉をしかめて、蔑むように彼を見やる。

 この様子からして本当に好意はないらしい。確信を得たように日向は口角を釣り上げた。

「なによ、気持ち悪い」

 口をへの字に曲げ、苦言を呈する女。

 凍てつく視線をぬるりと交わして、彼は礼を言う。

「いいや、なんでも。ただこれで分かった。お前には呪いを使う理由がない」

 彼女からしてみればわけが分からない。だが、本人への気遣いなどする気がなかった。

 恋愛関係の嫉妬もなければ、特別仲がよかったわけでも、悪かったわけではない。ならば、冬月を殺したのは小夜子ではないと断言できる。

「さあ、さっさと行っちまえ」

「なんなのよ、もう」

 相手を開放して顎で出口を指すと、彼女は忌々しげな表情で睨みつけてくる。

 なお、文句の言葉は告げずおとなしく口を閉じ、小夜子は距離を取った。それから後ろ向きに数歩進んでから、前を向いて走り出す。遠ざかっていく影を見送ってから、彼も歩き出す。かくして日向は林を抜けた。


 普通の道路に出て、トボトボと歩道を進んだ。わけの分からない場所だったが、適当に進むと見慣れた場所にやってきた。足が赴くままに行けば、冬月の家が見えてくる。クリーム色に塗装を施された壁と、真っ赤な屋根が特徴的な建物だ。小道を進んで、玄関の前に立つ。

 時刻はすでに午後三時を回っている。彼女の死の知らせはきちんと届いていることだろう。とりあえず、インターフォンを押して見ると、すぐに扉は開いた。中から女性が出てくる。いつにも増してくすんだ雰囲気がする。くたびれたシャツにあせたジーンズ、ほつれた髪も相まって老けた雰囲気がする。

「日向さん……」

 憔悴し切った面持ち。泣きそうな目。眉を垂らし、口角を下げ、眉間には深いシワが刻まれている。

「待っていたわ」

 言われるがまま、中に入った。

 居間に通され、畳に上がる。

 両者はちゃぶ台を挟んで向き合った。台の上には茶碗が置いてあり、中には薄緑の液体が入っている。湯気が出ていないことから、冷えているのだろうと伺える。喉はかわいていたが、手を出す気は起きなかった。正座を保ち、両手をじっと膝の上に置いて、構えている。

「仲良くしてくれて、ありがとうね」

 女性は眉を垂らしたまま、微笑んだ。できるだけ明るい顔をしようと心がけているようだが、それがかえって彼女の持つ幸薄さを強調しているように見えた。

「それは、俺だってそうです」

 日向はうつむきがちに返した。

 いちおう茶を飲んでもいいと促されたが、まだ手を出さない。

 下を向いたまま黙り込んでいると、母が机の下に手を入れて、なにやら手紙を取り出した。

「あなたに託したものみたい」

 白い封筒だった。日向くんへと丸みを帯びた字で書かれている。冬月紗也華の文字だ。理解した瞬間、体を疾風のような衝動が貫いた。

「俺に?」

 目を丸く開いて、彼女の顔を見る。相手は静かにうなずいた。

 女性が封筒を差し出す。戸惑いながら受け取った。厚みは薄いがなぜか重く感じる。まるで歴史的価値のある陶器を収めた箱を持ったように。

 すぐには蓋を開けたなかった。人前で手をつけるのは申し訳がないような気がして。

 それから茶菓子を差し出されたため、おとなしく茶と共に食べた。出されたものをきちんと消化してから、部屋を出る。靴に履き替えて、玄関の敷居をまたいだ。外気に身を晒すと爽やかな風が吹きつけた。気温はすっかり下がっていた。じき、日が暮れる。

 アプローチを抜けて、庭を後にする。白線の内側を歩きながら下を向いて、封筒の蓋を開ける。中には一枚の便箋が入っていた。白い紙がひらひらと揺れる。表を向けてみると、細かな文字で彼女の文章が刻まれていた。


『私はなにをすればよかったんだろう。どうやって生きればいいんだろう。なにもない。ただ死にたいだけ。心にはなにも浮かばない。書きたいことなんてないのに、遺したいものなんてないはずなのに、もう消えてしまいたいのに。それでも書かずにはいられない。ほかでもないあなただから。どうか届いてほしい。気付いてください。あなたに全てを託して私は降りる。あの屋上から。あなたといつか上った、あの場所から』


 読み終わって、しばらくの間はなんの言葉も浮かばなかった。ぼうぜんと紙を持った手を下ろす。

 まったくもって飲み込めない。理解するには何度も読み直さなければならなかった。ただ一つ、分かった。冬月は死にたがっている。彼女と関わりが薄れたことで、気づく機会を逃した。否、それが死の原因の可能性すらある。

 思うと急に悔しくなってきた。日向は拳を握りしめ、震わす。指の爪が皮膚に食い込んで、傷ができる。チクチクとした痛みが走ったが、気にならなかった。

 どうして気付いてあげられなかったのだろう。どうして離れたりなどしたのか。彼女は幼馴染として大切に思っていた。だからこそ、彼女の好意に耐えきれなかった。元の気安い関係に戻りたい。彼女の熱を持った視線から逃げて、避け続けた。その結果がこれだ。

 それまで最も近くにいた者は自分だ。ならば必然、彼女の死の原因は自分になる。それなのに、その可能性から目をそらした。自分ではないと言い聞かせ、他人に理由をなすりつけようとした。最低だ。

 冷静に考えると冬月はよく不安を口にしていた。将来のこと、どう生きればよいのか。高校を卒業した後は。この先の人生のこと。様々な懸念が雪のように降り積もっていた。生きる意味が分からない。どうして自分は生きているのか。なぜ生きなければならないのか。打ち明けられないまま憂いは降りて、絶望として彼女の胸に襲いかかった。そしてある拍子に飛び降りる。自分の意思の赴くままに、自由に空気に身を任せて。

 開放されたかったのだ。不穏な人生から、暗鬱な毎日から。

 その中で唯一の希望が自分だとしたら。

 ああ、自分は彼女になんと言えばいい。まるで顔向けができない。むなしさが胸を満たす。知らなければよかったと思ったが、それは単なる現実逃避にほかならない。ほかでもない自分だけは知らなければならない。受け止めなければならない。彼女に想われていた者としての義務がある。

 きっと、冬月は賭けていたのだろう。日向が気付いてくれないかと。止めてくれる者はいないかと。そんな節を手紙から読み取れる。

 今はすでに終わった後だ。ビルの屋上を目指したところで、なにも得られない。余計に心が傷つくだけだ。それでも、また時を巻き戻せば可能性はある。口元を引き締め、眉を釣り上げ、彼は見上げた。クリアになった瞳に空が映る。あたりはすっかり暮れている。空はかすかに藍色を帯びていた。薄闇に染まった町には明かりがつき始めた。かすかに沈みゆく景色の中に、白銀の星々が繊細な光を放っていた。


 そして日向は五回目の八月一三日の朝を迎えた。

 今日はいつにもまして目が冴えている。身を起こすなり即着替えて、家を飛び出した。玄関でスニーカーに履き替え、扉を開ける。引き戸のレーンを踏み越えて、外に身をさらす。日のまぶしさに目を細めながらも、決してまぶたを閉じず、彼方を見据える。彼は勢いよく地を蹴り、走り出した。

 場所は分かっている。幼いころに冬月と一緒に上ったビルの屋上だ。彼女とはそこで遊び、町を見下ろした。わーいと声を上げた幼い声と、町を一望したときの感覚を覚えている。地上に建つ家々は小さく、群生していた。上から眺める自分たちはまるで超越者になったような気分だった。

 幼い日の青い思い出が脳を駆け巡る。日向は奥歯を噛み締め、前に進む。

 終わらせない。終わらせてたまるものか。彼女との未来を掴み取る。そのためならば、この身が砕けても構わない。もう二度と振り返れなくてもいい。もう二度と、失いたくないものがあるから、そのために失うものがあってもなにも怖くはなかった。

 頼む、間に合ってくれ。

 心の底から声を上げて、走った。

 ビルにたどり着いた。入口から中に入る。不審な目をしたフロント係の視線をかいくぐり、奥へと入る。しかし、目の前でエレベーターの扉が締まった。仕方がないため、階段を使う。一段一段上って、出口を目指す。

 疲労が蓄積し、息が切れた。足が痛い。運動部ではなかった身からすれば、堪える。弱音をはきたかったが、ぐっとこらえた。ふたたび奥歯を噛み締め、拳を握り締める。腕を激しく振って、また一歩と階段を駆け上る。

 立ち止まるわけにはいかない。走らなければならない。間に合わなくなるから。

 懸命に足を動かし続けると、先が見えてきた。開いた扉から光が差している。彼は最後の一段を上がり切った。そして何者かに導かれるように狭い通路から抜け出し、屋上へと体を押し出された。

 階段を抜けると一気に視界が晴れた。青い空と、青々とした山々が彼を出迎える。涼やかな風が頬を叩き、朝らしい爽やかさを感じた。

 日向は前を見てようやく足を止める。視線の先には少女がいた。白いワンピースの背中で、さらりと髪が揺れる。彼女は静かに振り向いた。整った目鼻立ち。色白の肌も相まって今の彼女はひどく儚げに見えた。

「来てくれたんだ」

 少女は花のような小さな唇をほころばせた。

 果たして誰の導きか、二人はようやく巡り合う。

 日向は口を閉じたまま、一歩を踏み出す。なにを言えばよいのか、説得の言葉を探す。頭の中は混沌としていて、うまく引き出せない。ただ一つ、思うことはある。吐き出さなければならない言葉は一つしかない。日向は深く息を吸い込んだ。顔を上げて、唇を開く。声を張り上げて、叫んだ。

「死ぬな!」

 瞬間、少女の瞳が揺れた。うっすらと潤った瞳に、真剣な顔をした青年が映っている。彼もまた眉を寄せて、悲痛な顔をしていた。

「もう二度とお前の心の声から耳をそらさない」

 思いだなんて言わない。

 遠ざけたりはしない。

 恋愛関係にならずとも、自分も彼女と同じだ。日向は冬月を大切に思う。それだけは確かなのだから。

「俺はここにいる。ずっとここに、そばにいる。だから、行くなよ。勝手に、遠いところまで。もし、それでも行くっていうのなら、俺も追いかける。お前と同じところまで行ってやるから」

 眉をハの字に曲げ、彼は笑みを向けた。

 うまく笑えているか分からない。いざ、面と向かって話すと、胸がひどく痛んだ。これまでの彼女を遠ざけ続けた日々を思う。それは実に空虚な時間だった。そんなこと、しなければよかった。もっとハッキリと伝えればよかった。向き合えばよかった。

 だけど、分かったのだ。喪って初めて気付いた。いなくなってほしくない。ずっとそばにいてほしい。それだけが確かなことだった。

 少女の瞳は震える。唇を震わし、声にならない、声を上げる。その表情は崩れかかっていた。それでも彼女は顔を上げ、微笑みを向けた。

 層序は逃げない。青年はそっと迫り、彼女の繊細な手を取り、掴んだ。

「もう二度とこの手は離さない」

 冬月は目をそらさなかった。

 ただ万感の思いでうなずく。

 顔が崩れる。眉を垂らし、潤んだ瞳から大粒の涙が溢れる。

 濡れた頬を拭うように穏やかな風が拭いた。さわさわと木がそよぎ花壇の花が揺れる。春に似た香りが鼻孔をかすめた。

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