恋人未満

 高校が始まった。ブレザーの制服をばっちりと着こなして、電車に乗って、学校に通う。通学路を歩く途中、カップルの姿を目撃した。皆、同じ制服を着ている。中学生でも付き合っている子がいるという話を聞いた覚えがある。臨海学校なんて痴話喧嘩をして泣いていた子がいた。そのときは特に考えもしなかった。けれども、高校になると皆、大人びて見える。誰も彼もが恋愛をし、青春を謳歌している。その甘酸っぱい流れに私は一人、置いてけぼりを食らっていた。しかも生徒には見知った顔がなくて、心細い。

 唯一、知っているといえるのは、淡い髪色をした青年だ。制服を校則ギリギリに着崩している。やや癖のある髪型も相まって、軽い印象を受ける。勉強よりも運動が好きで、学校の成績も並以下という偏見がある。ボロクソに言っているが、嫌いなわけではない。むしろ好きだ。いちおう念を押しておくと、恋をしているわけではない。相手に対する感情はラブではなく、ライクだ。

 彼の名前はヒロシ。ヒロシとは長い付き合いだ。小学・中学と同じ学校に通った。近所に住んでいたことも相まって、放課後は一緒に遊んだ。商店で駄菓子を買ったり、互いの家に遊びに行ったり、空き地に秘密基地を作ったり。退屈な人生の中で彼の思い出は夕日のように輝いている。

 彼なら、いいかもしれない。ヒロシとなら付き合える。だからあるとき、彼に向かって言ったのだ。

「恋人の振りをしてみない?」

「いきなりどうした、血迷ったか」

「うん。きっと私はおかしい」

 幼馴染は幼馴染。なにか踏み間違えない限りは恋人には発展しない。一緒にいることが当たり前だから、特別な感情を抱いていることにすら、気づかないのだ。実際に私は彼に好意を向けたことはない。恋心を抱いた記憶もない。それでも彼と付き合いたいと思った。嘘でもいい。ただカップルだと周りを騙せればそれでよかった。


「なるほど、事情は分かった」

「いいでしょう。あんたもどうせ一人なんだし」

 ヒロシは男友達が多い。ただ、女子にはモテていた記憶がなかった。小学校・中学校でも目立っていたのは勉強も運動もできる美男子だ。彼らに女子の人気が集中していた。好きな人は誰とアンケートを取ったら、見事に二分されていた。

「別に損はしないでしょ。あんたも私が好きなんだし」

「おい、自分で言うか」

 焦ったように言う。

 私は表情を変えなかった。

「それで、どうするの?」

 ぶっきらぼうに問いかける。

 彼はやや間を空けた。

 だが、答えを出すのに時間はかからなかった。

「いいよ」

 あっさりときっぱりと、彼は頷く。

 その答えを聞いて、肩から力が抜ける。やはり持つべきものは友達だ。これで私の高校生活にも変化が訪れる。少なくとも表面上はバラ色に見えるだろう。私は心の底からほっとしていた。


「手始めになにからやる? やっぱりデート?」

「キスは?」

「それはまだ早い」

 そうね。

 いちおう中身はただの幼馴染。いくら振りとはいえ、一気に近づき過ぎた。

 今のは冗談だ。私だって本気で彼とキスをしたいなんて、思っていない。

「放課後、一緒に帰りましょう」

 きっぱりと言うなり、背を向ける。

 私は歩きだし、空いた扉をくぐって、教室を後にした。

 彼とは別のクラスだ。ヒロシが商業科に対して、私は普通科。将来の夢がないため、とりあえず勉強をしている。彼はどんな勉強をしているのだろう。高校のパンフレットもよく読まずに、近所の高校を選んだから、よく分からない。その時点で私の高校生活の失敗を暗示している。でも、受験をして受かってしまったのだから仕方がない。

 はぁと重たいため息。廊下の真ん中で立ち止まって、窓を見る。映る空は曇っていた。春にも関わらず不穏な天気。これでは私に青春も訪れまい。まあ、これから変わっていけばよいのだ。前を向き、歩き出す。私は自分の教室へと戻った。


 それから疑似カップルとしての日々が始まる。互いの関係は良好だったから、恋人を演じるのに抵抗はなかった。さすがに人前でベタベタやる気はないし、アーンとか、関節キスだとか、見せつける予定もない。とりあえず肩から力を抜いて、自然に振る舞った。

 周りの人間はきっと気づかない。気づいてもスルーされるのがオチだ。それでも仮初ながら恋人がいるという事実は、私に安心感を与えた。

 本音を言えば、これから変わっていくのがベストだ。幼馴染の関係から恋人へ。付き合えば変化が訪れると踏んでいた。それを期待していた。それなのに私たちの関係はちっとも変化が起きない。それらしいことをしていないせいだろうか。

 街を歩いていても、友達として一緒に遊んでいるのと同じ感覚だ。デートと言われなければ気づかない。一緒に部屋に遊びに行っても、ゲームをしたりポテトチップスとコーラを食べるだけで終わらせてしまう。

 なんてつまらない。やはり彼を異性として認識できない。だらだらとぬるい関係を続けるに従って、私の心には諦めが浮かび始めた。


 また、学校に通う。授業を真面目に受け、昼食をヒロシと一緒に食べて、放課後に突入する。

 私は所属する部活に文芸部にした。別に創作が好きなわけではない。楽でまったりと時間を過ごせそうだったら、選んだだけだ。運動部は運動が苦手だから論外として、演劇部は人前に出る自信がないからNG、吹奏楽部も肺活量が必要で腹筋をしなければならないと聞いたら除外した。

 部員は少ない。昨年はまだ数人いたらしいが、全員卒業してしまった。今、部室にいるのは部長の男子高校生と私の二人だけだ。今、私はパイプ椅子に腰掛けて、淡々と小説を読んでいる。ジャンルは文学作品で。筆者の考えがつらつら羅列されている。なにが面白いのか分からないが、とりあえず目に通している。

 小説に没頭していると急に部長から声がかかる。

「できたよ。どう?」

 原稿用紙を数枚差し出された。四〇〇字詰めの原稿を十枚。その程度なら数分で読み切れる。もっともななめ読みなんてしていると、「もっとじっくり楽しんでくれよ」と叱られる。だから今回はしっかり、一字一句目に焼き付けるように、目を通す。

「どうだった?」

 期待にきらめく瞳がこちらに向く。

「恋愛小説ですね」

「それ感想じゃなくない?」

 部長は大げさに驚いた。

「私の感想に期待するのが間違いなんですよ。読んでもなにも感じなくて、文章がうまいかどうかしか言えないって、分かってるでしょ?」

「でも、好きでしょ。恋愛」

「うーん」

 首をひねる。

 しばし口を曲げて、沈黙した。

 恋愛、恋愛か……。興味はある。だからこそヒロシと付き合っている。しかし、実際のところ私は恋の駆け引きをしたいわけではなかった。ほしいのは見栄だけ。高校生活が充実している・置いてかれているわけではないと証明したいだけだ。

「部長はなんで恋愛が好きなんですか?」

「いや、普通ニヤニヤしない? 互いを思いやってる男女とか。尊い関係とか。壁になりたくね?」

「なりません」

 壁ってなんだ。塗り壁でもあるまいし。

 真顔で答えると彼はがっくりとうなだれた。それから「分かってないなー」と間延びした声で言っている。すぐに目をそらし読書に戻ったから、よく聞こえなかった。彼も独り言として吐いているだけで、伝えたいとは思っていないのだろう。

 幼馴染では駄目なら部長はどうだろう。彼は整った顔立ちをしている。オタク趣味こそあれど、外面は普通の好青年だ。特徴がなくてつまらないけれど、相手にするのは悪くない。実際に私を男でも女でもないノーマルな存在として接してくれているし。

 いやいや。首を横に振る。女として見てくれない時点で脈もなにもあったものではない。やはり先輩は駄目だ。相手にならない。バカな発想を引っ込め、私はふたたび文章を目に追う作業に戻る。話は全く頭に入ってこなかった。


 その夜、ある夢を見た。懐かしい。恐怖に包まれた体験。神社から外れたところで迷って、助けを求めた。声は届かない。誰も助けてくれない。視界が暗くなっていく。このまま誰の目にも留められないまま信じていくのだろうか。絶望が心を浸した。そのとき、誰かが手を掴んだ。

「ほら、こっちだよ」

 誰かが手を引いた。私は言われるがままついていく。するとあっという間に外に出た。そこはまだ境内で足元には砂利が敷き詰められている。

「ここまで来れば大丈夫だよな?」

 柔らかな声が聞こえる。それは真横から放たれたものだった。

 ゆっくりとそちらを向く。隣に立っていたのは同年代の少年だった。色白の肌に鳶色の瞳。少し長めの髪はいい具合にかっこよくて、似合っていた。紺の浴衣を着ている。粗い生地にとんぼの模様が淡く刻まれていた。遠くから太鼓の音が聞こえる。雷鳴のように私の耳に届く。

 その折、どーんと花火が打ち上がり、闇には鮮やかな花が散る。

 そう、その日は祭りの日だった。私は慣れない大人とはぐれて、おかしな場所に来てしまった。別に神隠しに遭ったわけではない。単に迷っただけ。影が薄いせいで大人は私がいなくなったことに気づかない。

 気づいて助けてくれたのは隣にいる青年だけだ。

「ほら、気をつけて帰れよ」

 からかいまじりに言って、背中を押す。

「うん。ありがとう」

 応えて一歩を踏み出す。

 ゆっくりと慎重に。

 そうして私は家族の元へ帰っていった。

 以降、彼の姿を見ていない。彼はどこへ行ったのだろうか。そもそも、どこに住んでいたのだろうか。ひょっとしたら都会に住んでいて、祭りのためにわざわざ田舎まで足を踏み入れたのだろうか。そんな物好きな。くすりと笑う。

 でも、もしも彼が物好きだったら、私たちはまた会える。ふらりと田舎に訪れたところに会いに行く。その日が来るのを待っていた。でも、一向に彼は姿を見せない。祭りの日も、初詣も。ずっとずっと。

 時間が経って、思い出が薄れても、あの日の神社の出来事だけが忘れられない。彼の存在は心に焼き付いている。あの少年は私にとって暗闇に差し込んだ光のような存在だった。


 なにも起きないまま日々は流れて、冬になる。大晦日は家でおとなしく過ごした。食卓にはおせちとおしるこが並ぶ。生臭いおかずには目も来れず、甘い汁物に食らいつく。伸びる餅を髪切り、小豆色の液体を喉に流し込む。ああ、甘い。だけどさっぱりとしていい味だった。

 こたつの中は温かくてブラックホール並の吸引力がある。いつまでも四角い箱の中に収まって、だらだらとしていたい。そんな衝動に駆られるけれど、ふと初詣に行っていないことに気づく。さっさとお参りをして、おみくじを引かなきゃ。

 すっとこたつから抜け出して、玄関に行く。靴に履き替えて、扉を開けた。

 幸い、外は晴れていた。雪が降り積もっているわけでもなく、日の光は温かい。私服のまま神社までの道を歩く。そうしてたどり着いたその場所には、ある程度の人がいた。かつての同級生の姿はない。皆、別の場所へ移ってしまったのか。少し寂しさを抱きながら、手水舎の前にやってくる。ひしゃくを用いて身を清めてから、歩き出す。神殿にたどり着き足を止めるや、五円玉を賽銭箱に投げた。鈴を鳴らしてから礼をして、手を合わせる。今年は……なんでもいいや。まともな青春を送れれば、なんでも。

 おみくじも引いていったが、大げさに悪いわけでも良いわけではなく、反応しづらい結果だった。

 そのままおみくじを持ち帰ろうとしたとき、急に後ろから声がかかる。

「彼氏と一緒じゃないんだ?」

 初めて聞くはずなのに、なぜか懐かしい感覚がした。低く落ち着いた声。彼はいったい……。振り返り、目を見開く。そこに立っていたのは整った顔立ちをした青年。色白の肌に鳶色の瞳。やや切れ長で吸い込まれそう。その格好は黒いコートで、なんだかオシャレな雰囲気がした。よい美容院を知っているのか、長めの髪をスタイリッシュにカットしている。

 彼と知っている。目の前に立つ青年と浴衣を着た少年の面影が重なる。

 心臓が止まるかと思った。ただただ衝撃を受けて、息を呑む。口をあんぐりと開けて、固まってしまった。

「また、君と会えてよかったな。でも残念だな。君には先着がいたんだ」

「彼は、そんなんじゃ……」

 冗談交じりに口にする彼。

 慌てて否定しようとしたが、口が回らない。

 心臓が激しく音を立てる。鼓動が速まる。顔が熱くて冬なのに汗ばんだ。

「ああ、大丈夫。君が心配することはなにもない。今年はたまたまこっちに着ただけだよ。もうきっと、来ることはないだろうね。だから俺のことは忘れても構わない。会わなかったことにしてもいいんだよ」

 穏やかに語りながらも、その瞳は真剣な光を帯びていた。

 私は口をゆっくりと閉じて、そのまま動かせない。なにも言えなかった。彼の本心が分からないから。もしも本当に会いたいと願っていたのなら、可能性はあった。けれども、彼はあえて詩的な表現をして笑いを取っているようにも見える。それに彼とはもう二度と会えない。その事実に胸を締め付けられるような痛みを覚えた。

 私がいつまでもじっとしていると、彼はすっと横を通って、すれ違う。

「じゃあな。まっすぐ帰れよ」

 手を振り歩き、石段を下る。

 鳥居をくぐった彼の姿は道路の奥へと消えていった。

 その姿が見えなくなって心に冷たい風が吹き抜ける。急に寂しさを抱いた。


 家に帰ってからも彼の姿が頭から離れない。電撃的に再会して、あっさりと別れてしまった。もっと話がしたかった。感謝の気持ちを伝えたかったし、これからのことを伝える余裕もほしかった。それなのに彼は想いを振り払うように去ってしまう。

 悔しいし悲しい。

 彼への未練が止まらない。頭の中が彼でいっぱいだった。自分には仮初とはいえ相手がいるのに。幼馴染とも友好的な関係を続けているのに。知らず知らずの内にやってはならないことをやっているような気がして、心にほんのりと罪悪感がよぎった。

 私たちの関係は歪だ。偽物のカップルを続けているだけで、なにも楽しくはない。私がヒロシを好いているのは、あくまで幼馴染としてだ。もしも仮に恋人になったら、元の関係には戻れない。気軽に笑い合える、バカな遊びもできるような関係に。

 思い出が遠ざかる。過去が自分から離れていく。空に散った枯れ葉。花吹雪のように視界を埋め尽くすそれに手を伸ばす。ああ、私はいったいどこへ行けばよいのだろう。


 冬休みが明けて、学校が始まる。

 商業科の教室に遊びに行くなり、ヒロシの席に近づいた。彼は男友達に囲まれている。彼らとのおしゃべりと打ち止めて、一旦こちらを向く。

「今日、あんたの家に行く」

 きっぱりと告げて、背を向ける。

「おい、待てよ。それだけか?」

「それだけ」

 背に声がかかったから足を止める。

 また短く言ってから、歩き出す。

 扉をくぐって廊下に出る。彼は私を引き止めなかった。

 そして放課後、予定通りにヒロシの家に遊びに行く。近所にあるから特に苦労はしない。どこにでもあるような三角屋根。本来は大きな花壇があるだろうが、今は雪を被っている。一面、雪に覆われたような景色の中、池だけが生存して、ぽっかりと穴が空いたように見えた。

 玄関の前に立って、呼び鈴を鳴らす。家の内側から足音が聞こえる。こもったそらはこちらまで迫る。目の前で扉が空いた。私服を着たヒロシが視界に飛び込む。厚手のトレーナーにジーンズ。カジュアルで適当。センスの欠片もないけれど、そんな彼の姿には安心感があった。

「ほら、早く入れよ」

 ヒロシに促されて、中に入る。

 彼の部屋に案内されその領域に足を踏み入れ、私はカーペットの敷かれた床に座った。そこはいかにも男子らしい空間だった。壁際には暗褐色の本棚があり、中にはぎっしりと漫画が入っている。勉強机の上には教科書が積み重なり、傍らにはパソコンも置いてある。ベッドは淡い青色で、毛布が床に垂れ落ちていた。勉強机と対角線上にはテレビが設置されている。その近くの床には大きめのゲーム機が置いてあった。

 壁は清潔感のある白。その上のほうには丸い時計。まっすぐな針が一定の感覚で時を刻む。しばらくは私たちは無言だったから、針が動く音だけが目立った。

「あんた、私を女として見てないよね」

「ああ」

 おもむろに切り出す。彼は否定しなかった。

「だから接しやすかったんだ。色気もなにもない関係だから、ずっと続いてる」

 私は淡々と言葉をつむぐ。彼は静かに話に耳を傾けてくれた。

「ごめん。私、わがままだ。あんたと付き合いたいなんて、ただの見栄なのに。カップルになればなにかが変わると思ってた。青春してると感じたかった。でも、こんな関係空虚だよね」

 ヒロシは否定しない。きっと彼も私と同じことを思っていたからだろう。

 また、口を閉じると話が途切れる。重たい沈黙が部屋に下りた。ストーブの稼働音が鼓膜を揺らす。冬らしい張り詰めた空気。乾いた雰囲気。それでもなぜか気分が落ち着いている。いつまでもこうしていてもいい。黙ったままでいい。でも、それではいけない。今ここで答えを出さなければならない。だから私は顔を上げた。唇を動かし、言の葉をつむぐ。

「私きっと、恋をしてる」

 か細い声が漏れた。

 ヒロシはピクリと眉を動かす。

 その表情はなにを指すのか。安堵したのか寂しいのか。そんな複雑な色が見え隠れしている。

 私も今、ほっとしている。ようやく打ち明けられた。

 淡く誰かを思いながら、彼へ向かって、言葉を発する。

「その人とはきっと会えない。でももしも会えたら、思いをきちんと伝えたい。できるのならまた、会いたい」

 それが正直な思い。

 幼馴染に対してとは違う、男に対しての思い。胸をときめかし、焦がす思いは、確かに私の中にも存在する。


 また、長い沈黙が走った。

 言葉は放たれない。

 これ以上はいらない。もう答えはついたようなものだから。

 私が穏やかな心境え座り込む中、彼はおもむろに立ち上がる。彼の姿を目で追い、見上げた。

「デートに行こう。それで最後にしよう」

 ヒロシはすっと微笑んだ。柔らかな声を浴びて、私もまたうなずいた。


 その日、その足で町に出かけた。さらさらとせせらぎの音が聞こえる。こんもりと積もった雪の上、硬めの絨毯を踏みしめているような、不思議な感触だ。まだ雪がちらつき、ときおり鋭い風が吹く。露出した肌が赤く痛むが、彼と一緒ならさして気にならない。むしろ温かい。だけどそれ以上には発展しない。切ない関係。でも、それでいいのだと思った。彼は彼だからいい。幼馴染だからこそ、安心できる。彼と一緒に過ごす日々はとても楽しかったのだから。

 ちょうど昼だ。喫茶店に入ってフレンチトーストとコーヒーを注文する。お冷を伸びながら注文を待つ。その間、些細な話をした。学校のことだとか、文芸部の活動のことだとか。くだらない記憶にも残らない時間。そんな日々を積み重ねて私たちは成長していった。そして、このさらりと流れる一瞬を大切にしたいと思った。

 ほどなくして品が届く。淡い黄色のパンにナイフを通し、サイコロのようにカットした固まりを口に運ぶ。淡い甘みが口に広がる。蜂蜜の味がほどよく主張してくる。コーヒーを流し込めばその甘味も消える。すっときれいな後味。

 それから私たちは外に出る。近くにはそれらしい娯楽施設はない。だから、適当に公園などをぶらつく羽目になる。雪を被った公園。遊具は使い物にならない。代わりに雪による小山ができている。小学生はそこに集まって、スキーをしたり、遊んでいた。

 少しはそこに混じってもいいかと思えてきた。ここにやってくると童心に帰る。たまには駄菓子を買ってみようかな。

 そう思った通りに私は商店に入る。棚に入った駄菓子をかき集めて、会計を済ませて、外に出る。淡々と道を進みながら、一つずつ消費していく。この味が懐かしい。甘くて美味しい。香ばしい。雑な感想を述べる。

 そしてそれを消費し切ったとき、日は暮れる。さすがは冬。まだそんな時刻ではないだろうに、はやくも夜に突入しようとしていく。

 暮れた空。茜色の光を浴びて、私たちは向き合う。横断歩道の手前。信号待ちのために足を留めていた。

 一日が終わる。この段階になってなお、私たちの関係は変わらない。神社で会った青年に対する気持ちも変わらない。私はその人に恋をしている。その情熱的な思いが心の底に溜まって、離れない。

「じゃあ、さよなら」

 爽やかに笑う。

 すっと繋いでいた手を離す。

 彼が歩きだした。ヒロシの影が長く伸びる。アウターを着た後ろ姿が遠ざかっていく。彼の姿が町の奥へと消える。

 また会える。次の日も、またその次も。高校を卒業してからも、きっと。私たちの関係は変わらない。それなのに、そのはずなのに。

 唇が震える。心の中から熱い感情がこみ上げてくる。目の前が霞む。鼻の奥がツンとした。

 ああ、どうして今日が永遠の別れのように思えてしまうのだろう。

 灼熱の夕焼けを背に私はそこにとどまり続けた。その姿は影絵のように見えたことだろう。そして日は沈み、空は藍色に包まれ、夜を迎えた。

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