半袖を着て汗をかき、手で仰ぎながら、疎ましげに空を睨む。

 清々しいほどまでの青さに苛立ちを隠せない。

 そこから降り注ぐ太陽にも。


 どうして夏は暑いのだろうか。

 わけもなくイライラしてしまう。

 ベタつく肌も不快だ。


 いっそ曇ってくれればいいのに。

 そりゃあ憂鬱な気分にはなるが、日差しが遮られるのなら、私にとってはハッピーだ。


 第一、真白という名前の時点で夏とは相性が悪い。

 周りにも冬のような女だと呼ばれている。

 誰に対しても冷たくてマイナスオーラを全開にしているって。

 ひどい言い草というか失礼だけど、合っている。

 私は寒色が似合うし、暑さが嫌いだ。

 太陽に照らされると雪のように溶けてしまう。

 外出するなら日陰を歩くし、涼しい方が好ましい。

 だからさっさとこの季節も過ぎ去って欲しいと願うのだ。


 それなのに、どうしたものか。

 スマーフォンを睨みつけて、固まる。

 液晶に映し出されるとは友達からのメール。


『一緒に遊ぼう。来年は三年生よね? 遊んでる場合じゃないよね。今年が最後のチャンスなんだよ? 分かる?』


 メッセージを見て、はあ……と溜息。

 断ったら押しかけてくるんだよね。彼女のことだから。

 思い浮かべたのは同級生の顔。

 夏休みを利用して長い髪を茶色に染めて、ポニーテールに結んだ女子高生だ。

 コミュ力はあるから友達も多く、誰に対してもよく接するから、皆からの好感度は高い。

 私にも仲良くしてくれるわけだけど、ありがた迷惑なところはある。


 まあ、いいか。

 断ってややこしいことになるほうが、もっと面倒だ。

 雑に付き合って、ノルマでもこなして帰ろう。

 意を決して立ち上がり、準備を済ませて、出発した。


 バスに乗って目的の場所に到着。

 そこはプールだった。

 なぜよりにもよってここなのか。泳がないと言ったのに。

 観るだけでいいかな。

 水着を用意したのはいいものの、できるのなら家で過ごしたい。

 いやここも屋内だからなんだけど。いちおうは涼しいし。

 つまり、なるほど……条件を満たしている。

 言い訳ができない状況に追い込まれたような気分だ。

 ひょっとしたら彼女って策士なんじゃないか。


 とりあえず、プールサイドで南国気分を味わいながら、自由に過ごす。

 結局、泳がなかった。

 友人の遊びに付き合うだけで、一日を終える。


 その折、ふと視界を横切る何者か。

 彼はいったい……目で追った。

 整った顔立ちに黒髪の青年。

 このあたりでは見かけない顔だけど、それは自分が知らないだけか。

 気にしないことにした。


 次の日も遊びに誘われる。

 プールが駄目なら図書館とばかりに。

 だけど、ここでやるといっても宿題でしょう。

 ハッキリ言って、無駄なんだよね。

 頬杖を付きながら、そっぽを向く。


 そうした中で影が接近。


「どうも、こんにちは」


 声をかけられて振り返る。

 そこには好青年が立っていた。

 プールで見かけた誰かと同じ顔。

 ああ、彼かと脳内で結びつける。


 わざわざ声をかけに来るなんて、よほどの物好きな軟派な男か。

 ここはさっさと追い払いたい。

 そんなことを考える私とは対照的に、友人は勝手に盛り上がっている。


「わー、一緒に座って。ねえねえ」


 キラキラとした目を彼に向け、腕を引っ張って、隣に着席させる。


「ねえ、聞いて。彼女全くつれないのよ」


 友人が私を指して、アピールする。


「夏なら遊びでしょ。色々と誘っているんだけど、全部つまらなさそうな顔をするの」

「真面目なんじゃないか?」


 きょとんとした顔でこちらを見る。


「それが、そういうわけでもないのよ。彼女、勉強だってやらない。不真面目なのよ」

「不真面目で悪かったわね」


 確かに成績は悪い。

 なにせやる気がないのだから。

 やればできると言われてはいるけど、やらないのが自分だ。

 だって、面倒臭いし。

 中学校ではそれなりに頑張ったけれど、そのときに燃え尽きてしまった。

 以降はこの有様である。


「私なんて所詮はそんなものよ。期待するほうがバカじゃないの?」

「そんなんじゃ駄目でしょうが」


 叱りつけるように彼女は言う。

 そんなこと言われたってやりたくないことを強要されたくはない。

 どうせ大学には進まないし、勉強なんて適当でもいいじゃないか。


「それはいけないな」


 すると彼のほうも便乗してきた。


「最初から出来ないと決めつけるのはよくない。やればできるんだ。全力を出さない間にあきらめてはいけない。そう、君はやればできる。それを証明してみないかい?」


 熱く語りだす。

 たちまちとなりにいる少女が引く。

 私も少し、うざいと思った。

 なに、この人……?

 初対面の相手になにを言っているのかしら。


「えーと、ナツくん?」


 ナツというんだ、彼。


「そういえば夏が嫌いと言っていたな」

「そうだけど」


 肯定しておく。


「それはよくない。夏にはいいところがある。それを君に伝えなければ、消えられない」

「ちょっとなによ。なにをするつもり?」


 私はそんなことは望んでいない。

 今年も家でぐーたら過ごすつもりだった。

 自分にとっての楽園を壊されるような気配がして、身震いする。


「僕が夏の良さを示す。君は夏を好きになるんだ」

「それ提案じゃなくて強制でしょ?」


 目を見開いて突っ込みじみた言葉を吐く。

 ああ、もう嫌。頭を抱えたくなった。

 なんでこんな人を連れてきたのよ。

 友人を恨みたくなる。


 だけど、起きてしまったことは仕方がない。

 この暑苦しい人間の対処は誰かに任せて、自分は逃げよう。

 そう思い、鞄を片手に退出。そそくさと外に出た。


 それからというもの、友人からの誘いはばったり途絶える。

 代わりにナツいう謎の青年が頻繁に姿を見せるようになった。

 例えば補習帰りの道の上だったり、アイスが売っている商店だったり。

 とにかく彼が出没する。

 そのたびに撒いていたのだけど、いい加減にこちらの堪忍袋も限界だ。


「いい加減にしなさいよ。しつこいのよ、あんたは」


 肩をいからせて、主張する。


「ああ、すまない。君を怒らせるつもりはなかったんだ」

「その気はなくても私は迷惑なの。その時点であんたは悪い。分かってるんでしょうね?」


 にらみつけるように彼を見上げる。

 これぞ、クラスメイトが震撼する氷の目付き。

 なおも相手は気にせず笑顔で接してくる。


「お詫びになにか奢ろう」

「そんなんで解決すると思ったら大間違いよ」


 あくまで突っぱねたい私。

 ところが彼がおごってくれるのがコンビニスイーツだと判明し、あっさりと勝負を下りた。

 結局、彼に奢られ、私はおとなしくスイーツを食べながら付き合う羽目になった。


「なんで夏が嫌いなんだ?」

「暑いからよ」


 ベンチで腰掛け、話を続ける。


「当然、あんただって嫌い」

「なんでだよ」

「暑苦しいから」

「俺のどこがそうなんだ」


 そりゃあ、初対面の相手に説教してくるところとか。あれは引くわよ。

 よほそ親しいか信頼関係がある者同士でなければ、ドン引きされる。


「じゃあ分かった」


 急に彼が明るい声を出す。

 その時点で悪い予感はしていたのだった。


「君に夏の魅力を伝える」


 何度が聞いたことのある言葉。

 頭を抱えたい。

 そんなの教えてもらわなくたって結構よ。

 家で過ごすだけなんだし。

 誰になんと言われたって私の夏への抵抗は消えないわ。

 教えても分からないのかしら。


「だから君をレジャーに誘う。それでいいかな?」

「言いわけないでしょうが!」


 当たり散らすように叫ぶ。


「じゃあ、また来るよ」


 彼は聞かずに去っていく。

 そのまま走って。

 またたく間に青年の姿は消え去った。

 どこから着てどこへ行ったのか、私には分からない。

 本当に幻のようだった。


 それからというもの彼に振り回されるような日々が続く。

 最初は食べもので釣ってきた。

 自宅に訪れてスイカを馳走する。

 さすがにそれはむげにできなかった。

 第一、彼が去ってしまうとスイカは食べられなくなるし。


 淡い紅色の果肉にスプーンを差し込み、すくい上げる。

 口に運ぶと甘みが広がる。

 塩をふりかけているため、よりいっそう、味を濃く感じる。

 これはまた上質な味わい。

 スイカであれば何日でも食べられる。


 ひとときの静寂。

 風鈴の鳴る音が涼やかに響く。

 それからいくつか話をしたが、よく覚えていない。

 こうして爽やかな一時を過ごすことだけは悪くはない。

 ただがむしゃらに外に連れ出されることよりは。

 だけど、一人で過ごす日々も大切にしたい。

 それを彼も理解しているのか、青年は一瞬で姿を消した。

 結局、いてもいなくても変わらない時間だった。

 疎ましいと思っていたけど、いなくなると少しだけ寂しくなる。

 また一人になったのだと実感して。

 結局のところ、私なんかをかまってくれる人なんて、そうそういないものね。

 そういった人をなくしてしまうのはどことなく喪失感がある。

 心にぽっかりと穴が空いたようだった。

 それに顔だけはいいのだ。

 爽やかでアイドルのような雰囲気がある。

 でも、どうしても受け入れられない。

 簡単に心を許してなるものかと思う。

 だって、中身が私の好みじゃないもの。

 あんな暑苦しいだけの人になんて、興味はない。


 次の日も彼は来た。

 ひまわりのタネをおすそ分けをしに。

 花壇にはすでに種が埋めてある。

 朝顔だ。

 朝になると咲くけれど、昼になるとしおれてしまう。

 なんて儚い命なのか。

 それを見て私は複雑な心境に駆られる。


 しかし、ひまわりか。

 それを今埋めたところで花を咲かせるタイミングを見失うのではないか。

 第一私にひまわりは似合わない。

 私に似合うのはただの草とか、木とかであって、花ではないのだ。

 いちおう、ありがたく受け取っておくが、埋めはしなかった。


 またあるとき、彼は海の話をした。

 こんなことがあった。

 面白かったと。


 私を生返事をしつつ、聞いていた。

 ハッキリ言って興味が沸かない。

 そんなもので私の気を惹こうと思ったら大間違いよ。

 だけど、充実した日々を送っていることだけは羨ましい。

 私なんて一生、閉じこもっているだけだ。

 だったら外に出ろというツッコミがあるかもしれないけど、そんなこといったって、嫌なものは嫌なんだ。


「でも君、そんなに夏は嫌いじゃなかさそうだよね?」

「は、なに言ってるのよ?」


 いままでさんざん言ってきたでしょ、わたしは夏が嫌いだって。


「本当は夏に憧れてるんじゃないか?」

「そんなわけないでしょ」


 彼はなにを言っているのだろうか。

 否定しつつも内心は動揺している。

 そう、なのだろうか。

 本当は憧れていたり、いやない。

 だとしても私が夏という季節を嫌っていることに変わりはない。


「だけどその本当の思いから目をそらすために、避け続けている。違う?」


 彼は確信を持ったように言った。

 私はというと肯定も否定もできない。

 だって、自分の気持ちなんて分からない。

 自分がなにを思っているかなんて。

 ただ一つ、夏を避けたがっていることだけが事実だった。


「ありえないわよ」


 断言する。

 だって嫌いなものは嫌いなんだもの。

 ツンデレとかそういうんじゃ断じてない。


「だったら確かめてみようよ」


 彼はそんなことを口にする。


「君が本当に夏を嫌っているのかどうか」


 彼は賭けに出た様子だった。

 そう言い捨て、ナツは去る。

 本当に気がつくといなくなっている。

 目を離した隙に、いつの間にやら。

 本当、なんなんだろう。


 彼なんてただの他人。

 本来は関わるはずのなかった相手だし、気にするだけ無駄だ。

 彼の言ったこともその内容も含めて。

 だけど、気になってしまう。

 ある可能性が。

 私が夏に憧れているということが。


 ありえないと否定しながら、どうしても。

 もやもやが止まらない。

 こうなったら確かめるしかない。

 自分が夏が嫌いだと相手に突きつけなければ気が済まない。

 それで全てが決着するのだから。

 そしたら彼に引導を渡してやろう。

 私は夏を好きにならない。

 絶対に。

 そう、これは私とナツとの勝負なのだ。


 かくして海にやってきた。

 本当は乗り気ではないのだけど、彼がどうしてもというから仕方がなく。

 いや、断じて彼の言うことに従っているわけではない。

 素直になっているわけでもない。

 ただ、彼におすすめされても突っぱねていればいいってだけ。

 それだけが目的で海に着ている。そう、これはその証明なのだ。


 水着を着てはこない。着てくると言い訳ができなくなるから。

 そんな私の作戦なんてなんのその。

 彼は好き勝手に楽しんでいる。

 短期間で作ったと思しき友人と共に水遊び。

 そんな彼に迫る女。ああ、なんて節操なし。

 見ているだけでイライラしてくる。


 私はというと黙ってかき氷を注文。

 ガリガリと食べる。

 こんなんだったら来ないほうがいいわよね。

 そんなことは分かっている。

 結局のところ、私は夏が嫌いなのだ。

 この苛立ちがそれを証明しているような気がした。


 しかし、それでもまた、彼の誘いに乗ってしまう。

 今度はキャンプと来た。

 涼むのならちょうどいいのか、避暑地に到着。

 ここならまあ、私にとっては都合がいいし。

 だが解せない。

 これではまるで私が彼の都合のいいように振り回されているようではないか。


 だけど家にいるだけでは暑いしな。

 冷房がないから、図書館とかに引きこもっていたほうがいいのだ。

 パソコンさえ使えれば。

 幸い、読書は好きだから、集中して読み進むことはできる。

 だが、そんなものだ。


 そして夜になって肝試しを開始。

 ペアを組んで、夜道を進む。

 あまり好きじゃないんだよな、ホラー。

 参加した経験はあるけど、脅かしてくるとすぐに引っかかってしまう。

 それで周りは怖くなかったといろいろ言い合う。

 これでは素直に反応をしてしまった私がバカみたいじゃないかと常々思っていた。

 だから今度はなんの反応もしないつもりだ。

 怖くない怖くない。

 そう自分に言い聞かせた。

 だけど、緊張してしまう。

 なにが襲いかかってくるか分からなくて、彼の腕を無意識の内にギュッと掴んでいた。


「大丈夫だよ」

「え……?」


 不意に彼の声がかかる。


「なにがあっても僕が護る」


 それを聞いて、心がドキッと脈を打つ。

 護るだなんて、大げさだ。

 だけど、彼ならそれをしてくれるような気がした。

 彼が、炎のような彼が頼もしい。

 こんな夜道でなら、どんな絶望をも振り払ってしまうような、そんな気がした。

 そう、安心した。

 だから夜道であろうと肝試しであろうと、ちっとも怖くなかったのだ。


 知らず知らずの内に彼に心を許していた。

 一緒になっても違和感がない。

 だけど、やっぱり夏は嫌いだ。

 でも、彼が誘うのなら応えてもいいかもしれない。

 そう、せっかくの思い出作り。

 今回のような機会は絶対にめぐり変えないから。

 最後くらいはと。


「夏祭りに行かない?」

「いいよ」


 そんなキャンプの終わりに告げられた誘いを、オーケーした。


「本当? 嬉しいな」


 満面の笑みで彼は返した。

 きっと断られると思ったのだろう。

 私もそうしてもよかった。

 でも、祭りは嫌いじゃない。

 屋台があるし。

 それにこの夏、色々と付き合ってくれたお礼も兼ねて。

 ええ、きっと、そういう感じなのだと思う。


 時は流れていよいよ夏の終わりが近づく。

 私は浴衣を着て髪をまとめ、かんざしをさして、出かける。

 夏が似合わない私だけど精一杯のおめかした。

 待ち合わせ場所で彼と遭遇。

 どう? と聞く。


「似合ってるよ」


 爽やかな笑顔で答える。

 ならよかった。

 彼と一緒に歩いても恥ずかしくないようにしなくっちゃ。

 そう、ドキドキとしながら歩く。

 ああ、本当に彼と一緒に歩いているのだ。

 意識すると顔が熱くなる。

 そんな関係じゃないのに。

 私たちはただ勝負をしているだけなのに。


 でも私はきっと彼に惹かれているのだ。

 彼の暑さに。

 彼が持つ光に。

 私にはないものだから。

 それがどうしようもなく悔しくて。

 負けたような気がする。

 でも、勝負はまだまだこれから。

 私は彼の思い通りにはならない。

 絶対に。

 気持ちを石のように固く引き締めながら、下駄を鳴らして歩く。


 屋台を巡る。

 りんご飴を買ったり、射的に挑戦したり。

 なお、失敗。

 私はうまく的あてができない。

 ゲーム機とか欲しいのだけど、そう簡単に手に入らないよね。

 あきらめかけたそのとき、彼はあっさりと射的を命中させる。

 見事にゲット。

 本当にゲーム機が私のものになった。

 それから踊りを目撃したり、かき氷を食べたり、充実した時を過ごす。

 そして今、花火が上がる。

 夜の空に満開の花が咲く。

 ニュードロドロ。

 鮮やかな光に思わず魅入る。

 そしてそれは消えて、また音と共に打ち上がる。

 花火を生で見るのは久方振りだけど風情があっていいものだ。

 あなたもそう思わない?


「ねえ」


 声をかけようと手を伸ばす。

 ところがその指先は空を切った。

 え……?

 頭が真っ白になる。

 体勢を崩しかけてどうにか持ち直したところで、周囲を見渡す。

 周囲は人が流れている。

 皆が私を避けながら通っていく。

 近くに彼がいない。

 まさかはぐれたというのか。

 勢いで走り出す。

 彼を探して人の波をかき分ける。

 だけど行っても行っても見つけられない。

 彼がいない。

 急に心細くなった。

 まさか、勝手に帰っちゃった?

 私を残して。

 そんなバカな。

 頭をよぎった可能性を否定する。

 だって彼は私によくしてくれた。

 あんなに情熱的に接してくれた彼が今更、冷たい真似をするわけがない。

 じゃあ、嫌われたのかな。

 いい加減に嫌気がさした?

 普段ならありがたいところだ。

 無駄に付きまとわれる心配がなくなる。

 だけど、今は違う。

 私は彼を求めていた。

 一人になることを恐れていた。

 だって、こんなのってない。

 闇の中に置き去りにされたような気分なの。

 実際に私はそんな感じ。


 気がつくと走り出していた。

 無我夢中で地を蹴る。

 途中、下駄が邪魔だったから脱ぎ捨てる。

 裸足のまま足を動かしていると、足の裏が痛くなる。

 なにかで擦ったのか。

 でも、気にしている場合じゃない。

 とにかく彼を探す。

 駆けた。

 走った。

 息を切らして、肺が痛くなって。

 それでもまた息を吸い込んで、青年の気配を追いかける。

 けれども、見つけられない。

 彼の姿はない。

 どこに行ったのかすら、分からない。


 どうして……。

 心の中でつぶやいた。

 どうして私が去ってと言うと留まるのに、いなくなってほしくないという時は去ってしまうの?

 どうして私の心の声に応えてくれないの?

 言うことを聞いてくれないの?

 ねえ、応えてよ。


 無茶な要求だって分かっている。

 そんなエスパー、いやしない。

 だけど望んでしまう。

 彼の影を。

 たとえ幻であったとしても、また彼に会いたい。

 あと一度だけでいいから。

 けれども、結果は変わらない。


 祭りの場所を離れて、市街地に着てしまう。

 喧騒は過ぎ去った。今は静寂だけが辺りを包んでいる。

 星明かりのみが照らす町はひどく暗い。

 夜の闇も相まって別世界に来たようだった。


 周囲に人の気配はない。祭りの舞台が恋しい。

 本当に一人になってしまったのだと思い、寂しくなった。


 瞬きをする。

 そのとき脳内をよぎったのはある記憶。

 幼少期の思い出。


 昔、とある少年と出会った。

 同年代くらいの児童。

 クラスに一人はいるムードメーカー。

 明るくて爽やかで目を惹きつけられたのを覚えている。

 彼とはすぐに仲良くなった。

 そのころは夏も好きだったし、私は海やプールでたくさんの思い出を作った。

 今回のようにしぶりはしなかった。

 ひと夏の思い出は宝石のようにきらめいている。

 その日々は永遠に続くと思っていた。

 けれども、彼は夏が終わるといなくなる。

 待ち合わせ場所で彼を探した。

 海やプールを覗きに行った。

 けれども、彼はいない。

 少年は私の前から姿を消したんだ。


 あの日自分が見た者はなにだったのか。

 果たして本当にいたのか。

 幽霊ではなかったのか。

 今になっては謎だが時々思い出してしまう。

 それくらいに強烈な情景。

 そして、彼の存在は私にとっての希望だった。

 だからこそ失ったときの辛さが身にしみて分かる。

 その喪失感に耐えられなかった。


 彼も同じだ。

 彼もまた、いなくなってしまった。

 伝える素振りも兆候も見せずに。


 ああ、だから、嫌いなのだ。

 夏が。

 彼を喪ったあの日が。

 この季節が。


「バカ、バカッ! バカ!」


 うつむき、首を振り、髪を振り乱しながら、拳を震わす。

 どうして。

 どうしていなくなってしまったのだろう。

 心が震えていた。

 この気持ちをいったいどうしたら。

 どこへ向けたらいいのだろう。

 その対象はいないのに。

 もう目の前から消えてしまったのに。

 私から離れてしまった。

 今は闇しかない。

 ああ、嫌。

 どうしようもなく。

 悲しくて、もどかしくて、仕方がない。

 いっそのこと、嘆きたかった。


「そう泣くなよ」


 不意に声がした。

 おそるおそる振り返る。

 顔を合わせ、目を合わせる。

 そこには確かに青年が立っていた。

 あたりは真っ暗なのに彼だけが浮き上がっているような気がした。

 まるで光に照らされているみたいに。


「あんたはずるいのよ」


 震える声で呼び掛ける。


「どうして消えるの? 期待をもたせて。どうして私の前から……!」


 本当はもっと泣き叫びたかった。

 彼に思いのたけをぶつけたい。

 せっかく目の前に青年が戻ってきてくれたというのに、私の心は荒んでいた。


「なんで戻ってきたの? からかうなら二度としないで。私はあんたなんて求めていない。あんたなんて好きじゃない。もう二度と顔を覗かせなくたって、よかったのよ」


 精一杯の言葉をぶつける。

 それがせめてもの抵抗だった。

 彼はそれを黙って受け止める。

 否定も肯定もしなかった。


 なによ。

 言い返してくれたってよかったのに。

 言い訳をしたってよかったのに。

 そうしたら納得したかもしれない。

 もっと怒る可能性もあるけどそんなのは知らない。


 でも、どうして黙ったままなのよ。

 どうして私に言われるがままになっているのよ。

 どうしてなにも言ってくれないの?

 慰めの言葉とか、なにも。

 私はあなたを求めている。

 そうと分かっていてもいなくても、私の気持ちは変わらない。

 でも、だけど、どうしても、私は彼を許せなかった。


 静寂が満ちる。

 時だけが経過している。

 月が頭上で動いていった。


「好きな人がいたの。惹かれていた。でも、あの人は行ってしまった。それっきり帰ってこなかったの。私だけを残して」


 沈黙に耐えかねてポツリとこぼす。

 本来は伝えるはずのなかった情報。

 彼にだけは教えたくなかった過去の話を。


「永遠に続くと思ってた。あの夏みたいな日々が。でも、もう、戻ってこない。私が望んだあの日は」


 声が震える。

 心から熱い感情がこみ上げてくる。

 私が本当に言いたいのはなんなのか。

 本当の気持ちは?

 本当の言葉は?

 そんなことはどうでもいい。

 頭で考えるよりも先に、口が動いていた。

 震える唇で私は思いを吐き出した。


「行かないでよ。置いていかないで。まだ、ここにいて。そばにいてよ」


 胸が熱い。

 目から熱いものが流れて頬を濡らす。

 それは懇願だ。

 私がただそうしてほしいだけ。

 彼を求めている。

 今はまだ。

 彼だけを。


 そうでなければ満たされない。

 彼がいなければ私は道標を失ってしまう。

 また、会えたのに。

 過去の思い出に。

 昔の夏に。

 それなのにまた失ってしまう。

 それだけは嫌だ。

 私はまだ、ここにいたい。

 この夏に引きこもったままでいたい。


「それはできない」


 けれども彼は冷たく切り捨てるように、言い切った。


「俺は、そういうものだから」


 自分はそういう存在。

 普通の人間ではないから、ここにはいられない。

 私の望みを叶えられない。

 思いに答えられない。


 ああ、それはどうして?

 なんで?

 思考が止まる。

 時すら停まってしまったかのように錯覚する。

 私たちの間をぬるい風が吹き抜けていった。


 だけどこれはまぎれもない事実なのだ。

 私たちはもうこの場所にはいられない。

 彼と一緒の時を過ごせない。

 それでも未練だけは捨てきれず、この期に及んで彼にすがりつこうとする。


「どうしても?」

「ああ」


 熱い視線を振り払うように彼は言い切る。

 途端に絶望に似た感情が胸に広がった。

 ああ、本当に終わりなのだ。

 私たちには希望はない。

 私たちが見たのは一瞬の幻想。

 ただの夢だった。

 それでしかなかったのに、すがってしまった。

 求めてしまった。

 それはなんて惨めな結末。

 儚い灯火。

 受け入れられるわけがないけれど、納得してしまう。

 私が得られたものなんてその程度しかない。

 そんな私だから。

 こんななにも求めてこなかった、怠惰な私だから。

 ああ、だけど。

 それでも――


「嫌いじゃないよ。嫌いじゃ、なくなったよ」


 目を細め、眉をハの字に曲げて。

 それでも伝える。


「あなたが連れて行ってくれたから。あなたが、いたから」


 もう二度と会えないとしても。

 この記憶すら夢で終わるとしても。

 せめて、忘れたくはなかった。

 このまま私を離さないで。

 永遠に。

 いっそ時ごと停めて。


「夏を嫌いじゃなくなった」


 ただ一つの事実言葉を口にする。

 それだけが確かなもの。

 たったそれだけの気持ち。感謝の感情を。


 対して青年は口を開かない。

 唇を一文字に結びながら、そっと足を動かす。

 近づき、触れる距離までやってきて、ようやく言った。


「また会えるよ。僕は夏そのものだから」


 最後の言葉が空気に溶けて消えていく。

 彼の姿も同様に靄がかかったように見えなくなる。

 彼が消える。

 薄れて。

 手を伸ばして。

 だけど、届かなくて。


 彼が消えた。


 目の前から。

 私の前から。

 その気配はもう欠片も感じることができなかった。





 夏が嫌いだった。

 無駄にエネルギッシュだし、暑苦しいし。

 世間は盛り上がっても私は違う。

 私はインドア派なのです。

 少なくとも去年まではそうだった。


 朝早くから起きて朝食を取ると、身支度を済ませて、外に出る。

 バスに乗って、駅へ。

 目的の人を待つ。

 彼は昔の容姿ではない。

 かつて見た彼ではない。

 齢ごとにそんな感じだからちょっとしたクイズになっている。

 だけど、私には分かる。

 彼の独特な空気感を。

 そして声をかける。


「ナツ」


 彼が振り返る。

 その澄んだ瞳と目が合う。

 ああ、やっぱり彼だ。

 安心感を得て、肩から力が抜ける。


 そして改めて私は口にする。

 またあの日の続きをしよう。

 年に一度、一ヶ月の儚い期間。

 ただ一人の彼に会うために私は夏を求めていた。

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