伏字のような女

 暗褐色の床にドロっとした赤黒い液体が飛び散る。まるで暗色のキャンパスに色を塗るようなイメージだ。

 けれども、それがそんな生易しいものではないことは、分かりきっている。

 そう、割れた窓ガラス越しに家の中を覗いていた少女は、目を丸くしてぼうぜんと突っ立っていた。

 ちょうど、荒れ果てた部屋を抜けて外へ出る少年の姿も、見事にその瞳に映る。

 途端に、彼女の心が波立った。


 後日、町は喧騒に包まれる。

 平和な町でいったいなにが起きたのかと、噂話でもちきりだった。

 だが、真相はなかなか見えてこない。

 殺されたのが森の中にある町の暮らす中年の男性だったこともあり、噂はじょじょに薄れていくようになった。


 それから一年がたって、少女は高校を卒業する。

 いままで自分を縛り付けていたものはなくなり、自由の身だ。

 勉強も不真面目だったため成績は中の下だったが、ほどほどに頑張った結果、就職活動には成功した。

 新生活を始める前に彼女は、その場所へ行くものとは異なる電車に乗り込む。

 そこはひなびた場所だ。現在いる村よりもなにもなくして、自然しか見えない地域。

 そこに唯一無二の親友がいるかもしれない。

 彼女は黄色いチューリップのキーホルダーのついたカバンを大事そうに抱えながら、電車の中で窓から外の景色を眺めていた。


 ***


 一方で、殺人犯の少年は混乱していた。

 確かに自分は男を殺した。自分を目撃した少女の姿も目でとらえていた。証拠はきっちり残して逃げてしまったのに、なぜ自分は捕まらないのだろうか。

 そしてなにより、早くも事件を忘れようとしている住民たちに対しても、疑問に思う。

 それでも自主しに行かなかったのは、一重に自分の甘さと臆病さだ。

 どうせなら、捕まりたくはなかった。いつか罪を告白しようと決意したのはよかったものの、徐々に時間を引き伸ばして、今日にまで至ってしまう。


 おおかた、彼女が隠蔽工作でもしたのだろう。そうとしか考えられない。

 だが、なぜ彼女が犯人を庇う必要があるのだろうか。少年にはさっぱり分からない。

 なにしろ、相手はなにを考えているのかよく分からない存在だった。

 例えるのなら、伏字だ。本心や自分の感情を決して晒さない彼女は、結果的に自分という存在の一部を黒塗りにして隠している。

 だから全体像だけ把握できるだけで、彼女の本質はおろか性格すらうかがえない。


 そういえば、新聞に載った証言者もA子と書かれていたな、と思い出す。

 彼女は次のように証言した。

『私は彼の娘です。私が帰ってきたころにはすでに何者かによって殺されていました。私は誰も見ていません』

 被害者は確か独り身だったはずだ。そうでなければ『あんな事件』を起こさなかった。それは、相手のことを調べて本人に直接尋ねた自分がよく知っている。

 事実として、A子は娘ではない。

 ならば、彼女は何者なのか。まさか、例の少女だとでもいうのではないだろうか。

 否定する材料は少ないけれど、なんとなく、そうであってほしくなかった。


 とにもかくにも、一年の時を経て気持ちの整理はついたけれど、彼女の本心は分からないまま。

 どうせなら、全てをすっきりさせてしまいたい。ゆえに、本人に直接尋ねにいこうとする。

 少年は家を出ると町へ飛び出して、少女の家へ行く。

 全員の家の場所はだいたい把握しているため、たどり着くのは簡単だった。

 だが、どうしたことだろう。家から気配を感じない。窓から部屋をのぞいても、人影は見えない。


「おや、彼女ならもういないよ」

「え?」


 振り返ると、そこには四〇代と思しき女性がいた。


「私もくわしくは分からないけどさ、一人で電車に乗るところを見かけたよ」


 あっさりと言われたけれど、少年にとってはとんだ悲劇だ。思わず愕然とする。

 それから適当なお礼を言ってから、相手と別れた。

 一人となった少年はひとまず気持ちを切り替える。

 とりあえず心当たりがないか確かめてみる。彼は連絡先を知っている相手に片っ端から通話をかける。

 けれども、クラスメイト全員に話を聞いても手がかりは見つからない。

 仕方がない。ハッキリいって少女はクラスの中では影が薄いほうだった。なんせ、誰にも心を開かないし行事は授業にも消極的だった。友達は一人もいなかったし、本人も必要としていない様子だった。

 ただ一人、しつこく彼女とからみにいく物好きがいた。

 最後に選んだのはその、積極的に少女につきまとっていた女子生徒だった。


「なぁに? めずらしいじゃない。普段はめんどくさがってるくせに」

「別にそんな露骨に嫌がってないよ。でさ、俺、君を頼りたいんだけど」

「いいわよ。困りごとでもあるの?」

「実はさ……」


 活発な声で話す少女に向かって、自分の事情を打ち明けた。

 無論、自分が殺人を犯したことは隠したままだ。やや曖昧に言葉を濁した部分はあったけれど、相手は協力する気になったようだ。

 いったん広場で合流して、少年は「通話をかけてほしい」と頼む。相手は貴重な、少女の連絡先を知っている人物だ。彼女は嫌がったそうだが、強引に押した結果、向こうが折れたらしい。


「あのさ、彼、困ってるみたいだよ。帰ってきてあげて」


 活発な女子生徒がスマートフォン越しに呼びかける。されども、返ってきたのは沈黙のみだった。


『なんで?』


 ほどなくして、そんな冷たい言葉がスマートフォン越しにこちらの耳にも届く。


「ふーん、彼が逢いたがっているって言ってもダメ?」

『……』

「ねえ、どうして告白しなかったの?」

『なんの話?』


 おそらくは真顔で言っていそうな返事が飛ぶ。

 それからしばらくして、一方的に相手から通話を切られる。結局、本人は逃げてしまったようだ。


「なあ、さっきの」

「告白のこと? 嘘よ嘘」

「ど、どっちが?」

「彼女のほう」


 そう断言する。その理由が、いまいち少年には分からなかった。


「彼女ね、自分自身に嘘をついてるの。その嘘がまるで伏字のようになって、自分という存在を隠している。彼女はそういう生き方をしている。誰にも気づかれたくない。本心だけは。嘘を自然とつき慣れてしまった。だから、常に平気でいられるの。平然と嘘だってつけてしまうのよ」


 そんなものだろうか。いまいち分かったような、分からないような、不思議な感覚だ。


「にしても変だな。なんでったってこんな時期に行くんだ? もっとこっちに留まってたってよかったのに」

「ああ、それなんだけど、彼女、行かなければならない場所があるみたいよ。でも、父が死ぬまでは無理だって」

「ん? それってどういう?」

「ああ、別に断言してるわけじゃないのよ。単純に気になってみてたのよ。彼女、ときどき机の上に写真を広げるからさ。あんたも見たことある? あの黄色いチューリップの花畑。ネットで拾ったやつを印刷して、わざわざ学校に持ってきてるみたいなの」


 行かなければならない場所。そこはいったいどこなのか。

 通常であれば、ヒントすらない状況で特定などできないだろう。

 だが、少年にとっては一つだけ、心当たりがあった。


 黄色いチューリップの花畑。


 その情報を聞いて、ハッとする。

 彼女はキーホルダーをカバンにつけていた。それは黄色いチューリップのデザインだった。まさかとは思うが、その向かうべき場所とは、黄色い花畑のある場所ではないだろうか。

 そこは自分の出身地でもある。そこを出て、転校したのだ。ならば彼女の正体は――


 思うが早いか、少年は駆け出した。

 まっすぐに、故郷へ向かう電車に乗る。


 そして二人は故郷の花畑で再会する。


「いまさらなにしに着たの?」


 真顔で問う。

 それに対して、少年は答えた。


「君なんだろ。君こそが、昔誘拐された――俺の、唯一無二の親友だった」

「どうしてそう思うの?」


 一ミリも動揺せずに、少女が尋ねる。少年も落ち着いて、ハッキリとした口調で言葉をつむぐ。


「君がキーホルダーを大切にしているからだよ」


 彼の視線は少女の持つカバンに向けられる。

 途端に彼女は目を見開く。眉をハの字に曲げて困ったような表情を見せたあと、ため息混じりに吐き出す。


「そうか、あなただったんだ。冴えなかった昔と比べて、ずいぶんと変わった」

「だろうな。正反対になってしまったな」


 昔は明るかった少女も、いまでは影のある雰囲気を放つようになってしまった。その原因はおそらく、過去の事件にあるのだろう。


「でも、誘拐事件は関係ないわ。私は好きで今みたいな性格になっただけよ」

「だろうな。君は昔から言っていた。『親友はあなた以外、要らない』だから昔から、誰にも心を開かなかった」


 まっすぐに相手の目を見て、真実を告げる。

 ほかの誰が気づかなくても、自分だけは知っている。彼女の昔の姿を知っているからこそ、言えることもあった。


「だけど、確かに誘拐事件によって変わったのは事実なんだろ。親切そうな人にさらわれて、他人を信じなくなった。心を閉ざすようになる。同時にバカだった自分を恥じた。自信もなくなった。全てを隠すようになる。

 だから自分の一部を伏せた。自分自身を伏字にすることで、本当の自分がなんなのかを分からないようにした。

 反対に俺は親友を失った寂しさを埋めるように友達を作った」


 彼の言葉には勢いがあった。力があって。起伏はなく、態度は非常にに落ち着いている。


「やめようぜ、現実逃避」

「なんの話?」


 いまさらとぼける彼女に対して、やや力強い口調で初年は告げる。


「知ってるんだ、君は現実逃避をしてる。だから俺の犯行をかばった」

「違う」


 即座に少女は否定した。


「あなたは殺人犯なんかじゃない。あなたが殺人を犯すはずがない」

「それを現実逃避だって言ってるんだ」


 少年は叫ぶ。


「確かに俺は殺した」


 犯行を認める。


「俺、誘拐犯を追ってたんだ。どうしても、やつを許せなかった。だからあの町まで着た。そして、追い詰めたと思った。だがあいつは反省の色もない。『アレ一生とらわれたままだ。籠の鳥だ。解放されることはない』と言った。『かわいそうだから、殺した。解放してやったんだ』ってよ。

 あいつ、自白したんだ。自分は殺したと。もう俺の大切にしていた『相手はこの世にはいない』って。だからつい、カッとなったんだ。普通に俺復讐のつもりで着た。やつが閉じ込めた挙げ句に殺したと言って、絶望した。だから、やってしまった」

「やめて!」


 話の途中で、少女が悲痛な叫びを上げる。

 そこに少年は冷静に現実を突きつけてきた。


「事実なんだ。俺は確かに、人を殺した。それだけは事実。俺の手は汚れている」


 それに対して、少女はぼうぜんとする。体から力が抜けてしまった様子だ。


「教えてほしい。なんで、自分をかばったんだ?」


 すると、少女はポツリぽつりと語りだす。


「恋をした。なにも信じられないけど、あなただけは自分を救ってくれると期待していた。いつか、自分をこの現状から引き上げてくれると。

 優しい人だったから。根暗な私を励ました。いじめられていた私を助けた。誰にでも優しい憧れの委員長。

 その役職だって、誰もやる人がいなかったから、代わりにやってくれたんでしょ?

 清らかだった人。それを否定したくなかった。単なる犯罪者にしたくない。あなたはあなたのまま、この地にとどめておきたかった。せめて気づかれなければ、そのままのきれいな彼のままでいてくれるかもしれない。だから、かばったのよ」


 それは淡々とした、告白だった。


「私は誘拐犯の娘にされた。同じ家で生活していた。だからあなたの殺害現場に遭遇した。ちょうど帰るところだったから。買い物帰りに」


 声を震わす。


「事実よ。あの男の人は私を殺したの。昔の明るさは消えた。それを自分が奪ったんだって、誘拐犯は分かっていたんでしょうね」


 少女は瞳を伏せた。


「なにもかも、なかったことにしたかったの。気づきさえしなければいい。でも、結局、理想を抱いていただけだったんだ。分かっている、このままじゃダメだって」

「うん。現状を打破したいのは、君もだって、分かっていた」


 少年はうなずく。


「ずっと過去にとらわれたまま絶望しながら生きた。未来に希望なんて持てない。だけど、そのままの私は成長できないままだった。幸せなんて、今のままじゃ、得られない。それでも、あなただけは失いたくなかった」

「もう消えないよ」


 彼は言う。


「少し別れるだけだ。必ず帰ってくる。それに、俺は俺のままだ」


 それを聞いて、少女は顔を覆う。


「そうか、一番あなたを否定していたのは私のほうだったのね……」


 振り絞るような声で、嘆く。


「変わってしまうことを恐れたのよ。自分の知らない鬼になってしまうかもしれないって。それが怖かったの」


 だけど、違う。ずっと少年は変わらない。ここにいるのだ。なにが起きても彼は彼だ。


「ほかの誰があなたを蔑んでも、私だけは知っている。あなたの尊さを」


 だから少女は背中を押すように、告げる。


「行って、待ってるから」


 後日、少年は出頭した。

 それをニュースで確認して、少女は一息つく。

 それから、自分のやるべきことは決まっていた。

 彼女は不安を押し殺すように前を向いた。

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